先日、映画監督の吉村公三郎の自伝『キネマの時代』(共同通信社)を読んでいて、次のような文章に出くわしました。
映画人の社会的地位の最も高かったのは、太平洋戦争の最中であったと私は思う。どの映画会社も巨万の富を作り、駆け出しのニュース・カメラマンも巷を肩で風を切って歩いていた。
えーッ うっそー、軍部の命令で作りたくもない戦意高揚の国策映画を嫌々、作ってたんじゃなかったの?
それがそうではなかったというのです。
映画界にも厳しい統制の波が吹き荒れたが、それでも他の産業に比べると大事にされた。それは、ドイツ・ナチスにならって軍部が映画を軍国主義の宣伝に利用しようとした政治的な条件も無論あったが、国民の娯楽も乏しくなり、映画だけがその要求を満たしたのと、多くの軍人たちが熱心な映画ファンであることにもよっていた。
(中略)
私たち若い映画監督は、ひとかどの社会啓蒙の指導者づらをしており、一様に国策病にとりつかれていた。
つまり、著者のような若い映画人は軍部に積極的に協力し、使命感をもって戦意高揚の国策映画を撮っていたというのです。
今日、テレビ・ドラマなどで戦争中の風俗が扱われると、決まって二人や三人の厭戦思想の持ち主が現れるが、ああいうのは全くの嘘で、あんな連中はいなかった。
NHKのドラマなんかによくそういう話が出てきますよね。
戦時中、ヒロインが想いを寄せる青年が特高警察に追われる反戦思想の左翼活動家だったとか。ああいうのはまったくの嘘っぱちの作り事だというのです。
松竹で著者の後輩にあたる木下恵介は、自身が監督した国策映画『陸軍』(1944)で、ラストシーンでト書きに「母、息子の出征を見送る」とだけ書いて、
延々、十数分にわたって、出征する息子のいる隊列を必死に追いかける母親の姿を映し出して反戦の意思表示をしたのですが、これは例外的なケースだったといいます。
著者によると、木下恵介の厭戦思想は、短期間、徴兵されて中国大陸にわたって中国軍と戦った経験から来ていて、
「日本軍が中国軍を攻撃すると、中国軍は退却して逃げてしまい、日本軍が作戦が終わったとみなして引き上げるとまた戻ってきて元の木阿弥になってしまう。
農民たちも兵士と一緒に米、豚、鶏などを持って逃げてしまうので、日本軍が着いたときは村はもぬけの殻で、それで腹立ちまぎれに村に火を付けるといったことの繰り返しで、戦争とはまったくくだらないものだと思った」
と述懐していたそうです。
つまり、木下恵介の厭戦思想はイデオロギーによるものではなく、個人的な体験に基づくもので、そこには左翼思想の影響はなかったというのです。
実際、木下恵介という人は、その作品の傾向を見る限り、徒党を組んで何かをするというのが嫌いな人だったと思うし、
戦後、初めて学園闘争を描いた映画といわれる『女の園』(1954)でも、共産党系の学生が背後から学園闘争を煽る様子をしっかり描いていて、左翼に対してもかなり批判的な立場だったのではないかという気がします。
著者の吉村公三郎も軍部の要請を受けて『西住戦車長伝』(1940)という国策映画を撮っています。
主役は当時の二枚目スターの上原謙で、助監督には木下恵介と中村登が付き、上海と南京でロケしたそうですが、著者はこの映画を戦意高揚映画ではなく、戦場のホームドラマとして撮ったといいます。
この映画はそれでも戦後、戦意高揚映画としてGHQに没収されたそうですが、昭和57年にフィルムが返還されたときに改めて観てみたら、
トップタイトルの前に「この映画はいわゆる戦意高揚のためのものではなく、機械化部隊の活動を描いただけのものである」という著者の署名入りの文章が出てきたそうで、
なぜこんな文章を書いたのか自分でもよく覚えていないが、軍部がよく黙っていたものだと感心しています。
この件といい、前述した木下恵介監督の『陸軍』のラストシーンといい、当時の軍部の検閲はかなり甘かったのではないかという気がします。
そもそも、著者を含めた松竹の監督は女性向けのメロドラマやホームドラマを専門に撮ってきた監督ばかりで、戦意高揚映画には向いていなかったようです。
日本軍の緒戦の華々しい戦果を描いた山本嘉次郎監督の『ハワイ・マレー沖海戦』(1942)や陸軍飛行戦隊の活躍を描いた同じ山本嘉次郎監督の『加藤隼戦闘隊』(1944)など、これぞ国威発揚映画というべき勇ましい映画を製作して興業的にもヒットを飛ばした東宝や、
戦意高揚映画といいながらも、映画作品として見ても非常に質の高い、田坂具隆監督の『五人の斥候兵』(1938)や『土と兵隊』(1939)を制作した日活と比べると松竹はロクな国策映画を製作していないのです。
松竹の看板監督ともいうべき小津安二郎監督も軍部の要請でインパール作戦を題材にした国策映画を撮るためにシンガポールに赴いて準備をしていましたが、撮影を開始する前に戦争が終わってしまい、映画は完成しませんでした。
この未完の映画のシナリオは残っていて、それを読む限り、やはり戦場を舞台にしたホームドラマといった感じで、戦意高揚に役立つとはとても思えない代物です。
いずれにせよ、吉村公三郎がいうように、戦時中、映画会社も監督も積極的に軍部に協力して国策映画を作っていたのであれば
当然のことながら、それらの国策映画に出演していた俳優たちも積極的に軍部に協力していたものと推察されます。
一昨年、94歳の高齢で亡くなった女優の山口淑子も戦時中は満州国の国策映画会社である満映で、李香蘭という中国名の看板スターとして活躍していました。
彼女は戦後、中国人を騙って日本の国策映画に出演したことを深く反省し、中国に行って謝罪したということで、サヨク映画人の間では評判が良いみたいですが、
見方を変えると戦時中は軍国主義、戦後は自虐史観に乗っかってうまく立ち回ったともいえるわけで、そんなに持ち上げる必要はないんじゃないかという気がします。
山口淑子は日本人ですが、中国に生まれて少女時代に中国人の有力者の養女になって中国人として育てられたという経歴の持ち主で、右とか左とか関係なく権力に対する嗅覚は鋭かった筈で、
事実、女優を引退後、政界に進出したときも、社会党ではなく自民党から出馬しています。
お断りしておきますが、私はなにも山口淑子を批判しているのではありません。
そうではなくて、彼女を自分たちの仲間だと勝手に思い込んでいるサヨク映画人のおめでたさ加減にウンザリしているのです。
山口淑子と同じ1920年生まれで、昨年95歳で亡くなった原節子は、山口淑子と比較されることが多いのですが、なぜかサヨク映画人は山口淑子とは異なり、原節子に対しては厳しい見方をしています。
原節子の義兄である映画監督の熊谷久虎が戦時中、国粋主義にかぶれていて、彼女がその影響を受けていたといわれていることや、戦時中に多くの国策映画に出演したことが彼女に対して批判的な理由のようですが、
戦時中は国粋主義者は沢山いたし、国策映画に出演したのも彼女だけではなく、殆どの映画俳優が出演しています。
当時、大東亜戦争と呼ばれた戦争は、日本国民が一丸となって戦った戦争で、当時の日本人にとっては戦争に協力することは国民としての義務だったわけで、
それを戦後になって後出しジャンケンで批判するのはおかしいと思いますね。
戦争中は戦意高揚の国策映画に出ていた原節子も戦後になると一転してGHQが奨励する「民主主義映画」に出演するようになります。
その代表作が黒澤明監督の『わが青春に悔いなし』(1946)です。
この作品で原節子は、自由主義思想ゆえに弾圧を受ける大学教授の娘で、父の教え子の反戦活動家で警察に逮捕され、獄死してしまう青年と恋に落ちる女性を演じているのですが、
大河内伝次郎が演じる大学教授は「京大滝川事件」の滝川幸辰教授がモデルで、藤田進が演じる反戦活動家の青年は、ゾルゲ事件に連座して逮捕されて死刑になった朝日新聞記者の尾崎秀実がモデルだといわれています。
しかし大河内伝次郎も藤田進も戦時中は国策映画に出まくっていたんですよね。
特に藤田進は、その男臭い風貌が軍人役に向いていると思われたのか、前述した『ハワイ・マレー沖海戦』や『加藤隼戦闘隊』などでカッコいい軍人の役を演じていて、
熊谷久虎監督の『指導物語』(1941)では、原節子は割烹着に「大日本国防夫人会」のタスキをかけて日の丸の小旗を振って、出征する藤田進を見送っているのです。
三人とも戦後になって戦時中に演じていたのと正反対の役を演じたわけで、そういう意味では、映画スターというのはその時々の世相を映す鏡のような存在ではないかという気がします。
高峰秀子はその自伝的エッセイ『私の渡世日記』で、戦争末期に特攻隊の少年兵の慰問にいって、彼らの前で歌をうたっていたとき、
まだあどけない少年兵の顔を見ているうちに悲しくて堪らなくなって歌い続けることができずに泣き出してしまい、それを見た少年兵たちがつられておいおい泣き出したという哀切なエピソードを紹介していますが、
そのわずか数ヶ月後、彼女はアーニーパイル劇場と名前を変えた日劇の舞台に立ってアメリカ兵を前にしてドレス姿でアメリカのポップソングを歌っていたのです。
もちろん、それは高峰秀子のせいではありません。女優の仕事というのはそういうものなのです。
戦前と戦後で180度転換したのは映画スターだけではありません。天皇陛下もそうです。
戦時中、昭和天皇は陸海空の三軍を統率する大元帥閣下で軍服姿で白い馬にまたがって閲兵していたのが、戦争に負けた途端、軍服から背広に着かえて「平和を愛する学者天皇」になってしまったのです。
君子豹変とはこのことですが、そのあまりといえばあまりの豹変ぶりに国民の誰一人として異議を唱えなかったとしたら、それは国民自身が敗戦を境に豹変していたからでしょう。
実際、戦争中は「天皇陛下バンザーイ!」と叫んでいた連中が、戦後になって続々と共産党に入党していったそうですから、昭和天皇はそういう国民の変化に合わせてみずからも変わっただけなのです。