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東アフリカ周遊(7)

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☆ ストーンタウン逍遥(3)
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大聖堂
その後、かっての奴隷市場の跡に建てられたという英国国教会の大聖堂を見に行きました。
なぜ奴隷市場の跡にキリスト教の教会が建てられたかというと、アラブ人が行っていた野蛮な奴隷貿易を廃止させたのは我々文明人であるキリスト教徒ですよ、とアピールする目的があったみたいです。

わたしは気が付きませんでしたが、教会の中には「悪名高いアラブ人による黒人奴隷貿易はイギリスの努力によって廃止された」と麗々しく書かれた銘板が掲げられているといいます。

イギリス自身、18世紀まで大西洋をまたぐ奴隷貿易の重要な担い手だったのですが、19世紀初めに様々な理由により、奴隷貿易を禁止する法律がイギリスで制定されると、

自分達が過去において奴隷貿易をやっていたことを棚にあげて、東アフリカでアラブ人によって行われていた奴隷貿易を非人道的であると非難し始めたのです。

そして、当時、黒人奴隷の積み出し港があったザンジバルを支配していたアラブのサルタンに黒人奴隷貿易を停止するように圧力をかけ始めるたのですが、

昔、自分たち自身、捕鯨を行っておきながら、クジラを捕獲してクジラの肉を食べる日本人は野蛮であると非難するのと同じ偽善的な行為で、ダブスタもいいところです。

実際、イギリスは、アラブ人による非人道的な奴隷貿易をやめさせるという大義名分の下に、

当時、奴隷狩りが活発に行われていたスーダンに軍を派遣して占領し、さらには現在のウガンダ、ケニア、タンザニアを含む東アフリカ一帯を「平定」して、イギリスの植民地にしたのです。

いずれにせよ、東アフリカでアラブ人が行った奴隷貿易は、西アフリカでヨーロッパ人が行った奴隷貿易と比較してずっと規模が小さく、

西アフリカから新大陸に連れて行かれた黒人奴隷がサトウキビ農場などのプランテーションで酷使されたのにひきかえ、

アラブ人によって奴隷にされた黒人は主としてアラブ人の家内奴隷、つまり召使いや使用人になり、女奴隷の場合は、彼女達を買ったアラブ人男性の愛人になったケースが多く、

あくまでも財産としてですが、大切に扱われ、主人が亡くなったときには、遺言で自由の身になった奴隷も少なくなかったといいます。

ただしすべてのイギリス人が東アフリカでのアラブ人による黒人奴隷貿易を非難していたわけではありません。

スピークと一緒に白ナイルの源流発見のための探険を行ったリチャード・バートンは、アラブ人による黒人奴隷貿易は、本国のイギリス人が考えているほど非人道的ではないし、

いずれにせよ、アラブ世界で起っている事柄にヨーロッパの価値観をあてはめて判断するのは無意味であるという意見でした。

もうひとり、アラブ人による黒人奴隷貿易を擁護した著名なイギリス人がいます。

ほかでもないアラブ人による黒人奴隷貿易をやめさせるという名目で、エジプト総督、イスマーイール・パシャの命を受けて、スーダンに派遣されたゴードン将軍です。

ゴードン将軍はアヘン戦争やクリミヤ戦争で活躍したイギリスの軍人で、彼のスーダンでの任務は、

多くのアラブ系有力部族が群雄割拠するスーダンを平定してエジプトの植民地にし、アラブ人による黒人奴隷貿易をやめさせることでした。

スーダンの有力な部族の長は、例外なく奴隷商人でもあったので、ゴードン将軍率いるエジプト軍に抵抗しますが、ゴードン将軍は彼らをすべて打ち破り、

スーダンにおけるエジプトの主権を確立し、奴隷貿易をやめさせるために、有名な部族の長=奴隷商人を見せしめとして打ち首にしたりしました。

しかし、ゴードン将軍が任期を終えて帰国したあと、マハディと呼ばれる宗教指導者の反乱が起り、ゴードン将軍の後任のエジプト人総督が殺害されたため、

ゴードン将軍は英国政府の要請を受けて、現地に残っているエジプト守備隊を救出するために再びスーダンの地に赴きます。

結局、ゴードン将軍もマハディの軍によって倒れるのですが、この2回目のスーダン滞在では、ゴードン将軍は、マハディに対立する各地の部族を味方に引き入れるために、彼らに奴隷貿易を行う許可を与えるのです。

彼がそうしたのは主として戦略的な理由ですが、同時にゴードン自身、総督として何年間かスーダンに滞在して、奴隷貿易にたいする認識を改めたせいもあるといわれています。

バートンが指摘したように、黒人奴隷はアラブ人によって大切に扱われており、黒人にとっても故郷のアフリカの原始的な村落で生活するよりも、文明の発達したアラブ社会で暮らす方が幸せではないか、と考えるようになったというのです。

1850年にエジプトとスーダンを旅行したあるイギリス人の旅行者はナイル川のアスワン近くで遭遇したカイロに送られる女奴隷の一団の様子を次のように書き記しています。

「船に乗り込むところで、われわれはカイロに下る途中の女奴隷の大部隊に出会った。彼女らは、カイロにおける奴隷市場で、抽選で決められる新しい主人に引き渡されるのである。そのほとんどは、十二歳から十六歳までの少女であって、これ以上に賑やかな連中には、またと会えないだろうと思われる。森じゅうに、彼女たちの楽しげな笑い声が響き渡っている。彼女らは今、奴隷市場にいるのではなく、むしろ奴隷的境遇を彼女らの国に棄て去ってきたのだとさえ思えるほどであった。。。」(アラン・ムアヘッド『青ナイル』より
この文章を読む限り、奴隷というよりも修学旅行の女学生の一団といった方がふさわしい感じがします。
大聖堂には旧英国領事館の横のボート乗り場の前にたむろしているオートバイタクシーを使って行きました。
聖堂の尖塔が見えるところで降ろしてもらったのに、道が曲がりくねっていて中々、たどり着けません。
途中で話しかけた男に連れて行ってやるといわれて、彼の後に付いて行ってなんとか教会の敷地に入ることができたのですが、
その案内役の男はわたしを教会の建物ではなく、その手前にあるザンジバルの奴隷貿易に関する展示会場に誘導し、
わたしはいわれるままに1万1500シリング(約600円)の入場料を払って中に入ったのですが、展示されている写真パネルに記載されている説明文は、

これまでわたしがネットや書籍から入手した情報とさして変わりなく、わざわざ金を払ってまで見るほどの価値はありませんでした。

教会では、ローマン・カトリック教会と同様、日曜日のミサが執り行われていましたが、この英国国教会の教会は、アラブ人による奴隷貿易の残酷さをアピールするプロパガンダ施設として利用されているらしく、

わたしは見なかったのですが、教会の横にはスウェーデン人の彫刻家が制作したという奴隷の像が設置されているそうです。

わたしにいわせれば、そんなもんは中韓が世界中に建てまくっている慰安婦像と同じで、もし本当に奴隷貿易について反省しているのであれば、

18世紀から19世紀にかけて大西洋をまたぐ奴隷交易の主要な担い手であったイギリスやアフリカからの黒人奴隷を大量に受け入れたアメリカにこそ、そのような像を設置すべきだと思うのですが、

このような黒人奴隷の像がアメリカやイギリスで建てられたという話は寡聞にして聞きません。

わたしは欧米人が日本軍の慰安婦を性奴隷と呼ぶのも、かって実際に奴隷貿易に携わったり、奴隷を所有していたことに負い目を感じている彼らが、

日本人もまた奴隷を使っていたと信じることで少しでも罪の意識を軽減するためにやっているのではないかと疑っています。

その後、大聖堂を出てすぐのところにある市営市場を見物してから歩いてホテルまで戻り、ホテルの近くにあるカフェでランチを取りました。

ラマダンで 現地人用の安食堂は全部閉まっていて、このカフェのように気取った雰囲気の外国人旅行者用の飲食店しか開いていなかったのですが、メニューにはビールはありませんでした。

ザンジバルは物価の高いところなのですが、ケニアでは日本円で200円ほどで飲めたTuskerビールがザンジバルでは300円ほどもして、のん兵衛としては不満でしたね。

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大聖堂の近くの市営市場

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同じく市場

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市場の前の道路に駐車してあったマイクロバス

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続く

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