☆ ストーンタウン逍遥(2)
からゆきさんの家
旧英国領事館を見物したあと、わたしが向かったのは、からゆきさんの家(Japanese Old Bar)でした。
かってザンジバルには、日本人の娼婦が働く娼館(Japanese Bar)が存在しました。
明治から大正にかけて「からゆきさん」と呼ばれる多くの日本女性が当時、南洋と呼ばれていた東南アジアまで行って、シンガポールなどの娼館で娼婦として働いていたのですが、
その中には、シンガポールからさらに遠方のアフリカにまで遠征して売春婦として働いた女性もいたのです。
白石顕二著、「ザンジバルの娘子軍」によると、彼女たちはケニアのモンバサ、ザンジバル島、モザンビークのベイラ、マダガスカル、モーリシャス、南アフリカのケープタウン、ヨハネスブルグ、
さらには内陸部のローデシア(現ジンバウェ)のソールスベリー(現ハラレ)などに足跡を残しているそうです。
アフリカで一番、からゆきさんが多くいたのはザンジバル島で、日清戦争が終わってまもない明治28年(1895年)には28人の日本女性が娼婦として働いていたといわれています。
当時のザンジバルは、奴隷貿易はとっくに終わっていたものの、主要産物である香辛料のクローブの輸出で景気が良く、
ザンジバルの港には世界各地から船舶が寄港し、多くの船乗りが上陸していたことから、彼ら相手に商売をすると金になったので、多くの日本人娼婦がザンジバルに集まったのだそうです。
中にはインドのボンベイの横浜正金銀行(東京銀行の前身)の支店経由で、故郷に一万円(現在の価格で一億円相当)送金した女性もいたといいます。
しかし、ストーンタウンでからゆきさんの家を見つけるのには苦労しました。
戦前の日本人娼館のことなど現地の人間が知る筈もなくOld Japanese Barといっても連れていかれるのは、ストーンタウンにある『政』という日本料理店ばかり。
それでもあちこち歩いているうちに見つけました!
ガイドブックに掲載されている写真の建物と同じなので、間違いないでしょう。
現在は、一般の住居になっているようですが、ここで過去、多くの日本女性が娼婦として働いたのかと思うと感慨深いものがありました。
上記の『ザンジバルの娘子軍』の作者は、からゆきさんを自分の意志に反して娼婦として売られていったカワイソーな女性として書いていますが、わたしはそうは思いません。
戦時中の慰安婦と同様、当時は貧しい女性が娼婦になって家族を助けるのはよくあったことで、それをことさら悲劇として語る傾向が出てきたのはずっと後世のことだという気がします。
天草、島原の女たちは付近に大工場がなく、仕事に困っていたので、親たちが進んで、海外出稼ぎに出した。本人達も、外国に出て稼げば、美しい衣物も着られる。金の指輪は嵌められる。そのうえ、一家に送金して、親兄弟はいうに及ばず、親戚の誰彼までが、彼女一人のお蔭をこうむって、遊んでくらす。代わりに頭があがらず、むしろ、近隣のほめものになるので彼女たちは、争って国を出る傾向さえあった」(金子光晴「マレー蘭印紀行」より)
上記の本に描かれている「おまきさん」というからゆきさんも、10代半ばで自分の意思でからゆきさんになることを決心して叔母のいるシンガポールに渡り、さらにはアフリカのザンジバルまで出稼ぎにいき、 ザンジバルでは30歳の若さで娼館の女将になり、それ以外にも日本からの輸入品を販売する雑貨店を経営したり、 女だてらに男の仕事であるといわれていた港に寄港する商船に日用品や食料品を納入するシップ・チャンドラーという仕事に就いたりと行動力とバイタリティーに溢れた人生を送ってきた女性で、とても「カワイソーな人」と同情されるようなタイプではありません。
からゆきさんの家を見たあと、近くのローマ・カトリック教会を覗き(日曜日のミサが執り行われていました)、
海を望む場所にあるオールド・アラブ砦を見て、隣のサルタンの宮殿のひとつだった「驚嘆の家」(The House of Wonder)に行きましたが、改修中とのことで中に入ることはできません。
「驚嘆の家」の前のパレス博物館は、昔のサルタンの宮殿で、ここは開いていて、300円ほどの入場料を払って中に入ることができました。
サルタンの謁見の間や寝室、浴室などを見ましたが、海に面したベランダからの眺めが素晴らしかった。
パレス博物館の隣のフォロダニ公園は地元住民の憩いの場所になっているそうですが、わたしが行ったときは、白人の中年女性と地元の若者らしい黒人の若い男がいちゃつきながら写真を撮り合っていました。
前日の夜、ホテルの近くの港の見えるレストランで食事したときにも、『旅情』のキャサリン・ヘップバーンのような身体全体から「男が欲しい」オーラを発散させている白人の中年女性が一人寂しく食事をしている光景を目にしましたが、
ここザンジバルは、インドネシアのバリ島などと同様、そういう寂しい先進国の女性が現地の若い男を求めてやってくる場所のひとつになっているのだそうです。
女性の相手をする若い男がいるということは、当然、ホモの相手をする若い男もいるということで、一度、夕方にフォロダニ公園を歩いていたら、ベンチに座っている若い男から露骨なながし目を送られたことがあります。
彼がマサイだったら相手にしていたかも知れません(笑)
ローマン・カトリック教会
オールド・アラブ砦
驚嘆の家
パレス博物館
パレスのベランダから海を眺める
フォロダニ公園
続く
からゆきさんの家
旧英国領事館を見物したあと、わたしが向かったのは、からゆきさんの家(Japanese Old Bar)でした。
かってザンジバルには、日本人の娼婦が働く娼館(Japanese Bar)が存在しました。
明治から大正にかけて「からゆきさん」と呼ばれる多くの日本女性が当時、南洋と呼ばれていた東南アジアまで行って、シンガポールなどの娼館で娼婦として働いていたのですが、
その中には、シンガポールからさらに遠方のアフリカにまで遠征して売春婦として働いた女性もいたのです。
白石顕二著、「ザンジバルの娘子軍」によると、彼女たちはケニアのモンバサ、ザンジバル島、モザンビークのベイラ、マダガスカル、モーリシャス、南アフリカのケープタウン、ヨハネスブルグ、
さらには内陸部のローデシア(現ジンバウェ)のソールスベリー(現ハラレ)などに足跡を残しているそうです。
アフリカで一番、からゆきさんが多くいたのはザンジバル島で、日清戦争が終わってまもない明治28年(1895年)には28人の日本女性が娼婦として働いていたといわれています。
当時のザンジバルは、奴隷貿易はとっくに終わっていたものの、主要産物である香辛料のクローブの輸出で景気が良く、
ザンジバルの港には世界各地から船舶が寄港し、多くの船乗りが上陸していたことから、彼ら相手に商売をすると金になったので、多くの日本人娼婦がザンジバルに集まったのだそうです。
中にはインドのボンベイの横浜正金銀行(東京銀行の前身)の支店経由で、故郷に一万円(現在の価格で一億円相当)送金した女性もいたといいます。
しかし、ストーンタウンでからゆきさんの家を見つけるのには苦労しました。
戦前の日本人娼館のことなど現地の人間が知る筈もなくOld Japanese Barといっても連れていかれるのは、ストーンタウンにある『政』という日本料理店ばかり。
それでもあちこち歩いているうちに見つけました!
ガイドブックに掲載されている写真の建物と同じなので、間違いないでしょう。
現在は、一般の住居になっているようですが、ここで過去、多くの日本女性が娼婦として働いたのかと思うと感慨深いものがありました。
上記の『ザンジバルの娘子軍』の作者は、からゆきさんを自分の意志に反して娼婦として売られていったカワイソーな女性として書いていますが、わたしはそうは思いません。
戦時中の慰安婦と同様、当時は貧しい女性が娼婦になって家族を助けるのはよくあったことで、それをことさら悲劇として語る傾向が出てきたのはずっと後世のことだという気がします。
天草、島原の女たちは付近に大工場がなく、仕事に困っていたので、親たちが進んで、海外出稼ぎに出した。本人達も、外国に出て稼げば、美しい衣物も着られる。金の指輪は嵌められる。そのうえ、一家に送金して、親兄弟はいうに及ばず、親戚の誰彼までが、彼女一人のお蔭をこうむって、遊んでくらす。代わりに頭があがらず、むしろ、近隣のほめものになるので彼女たちは、争って国を出る傾向さえあった」(金子光晴「マレー蘭印紀行」より)
上記の本に描かれている「おまきさん」というからゆきさんも、10代半ばで自分の意思でからゆきさんになることを決心して叔母のいるシンガポールに渡り、さらにはアフリカのザンジバルまで出稼ぎにいき、
からゆきさんの家を見たあと、近くのローマ・カトリック教会を覗き(日曜日のミサが執り行われていました)、
海を望む場所にあるオールド・アラブ砦を見て、隣のサルタンの宮殿のひとつだった「驚嘆の家」(The House of Wonder)に行きましたが、改修中とのことで中に入ることはできません。
「驚嘆の家」の前のパレス博物館は、昔のサルタンの宮殿で、ここは開いていて、300円ほどの入場料を払って中に入ることができました。
サルタンの謁見の間や寝室、浴室などを見ましたが、海に面したベランダからの眺めが素晴らしかった。
パレス博物館の隣のフォロダニ公園は地元住民の憩いの場所になっているそうですが、わたしが行ったときは、白人の中年女性と地元の若者らしい黒人の若い男がいちゃつきながら写真を撮り合っていました。
前日の夜、ホテルの近くの港の見えるレストランで食事したときにも、『旅情』のキャサリン・ヘップバーンのような身体全体から「男が欲しい」オーラを発散させている白人の中年女性が一人寂しく食事をしている光景を目にしましたが、
ここザンジバルは、インドネシアのバリ島などと同様、そういう寂しい先進国の女性が現地の若い男を求めてやってくる場所のひとつになっているのだそうです。
女性の相手をする若い男がいるということは、当然、ホモの相手をする若い男もいるということで、一度、夕方にフォロダニ公園を歩いていたら、ベンチに座っている若い男から露骨なながし目を送られたことがあります。
彼がマサイだったら相手にしていたかも知れません(笑)
続く