☆ ストーンタウン逍遥(1)
わたしがザンジバルに興味をもったのは、白ナイルの源流を発見するためにアフリカを探検
したイギリス人探検家たちの愛と憎しみのドラマを描いた、
オーストラリア人のノンフィクション作家、アラン・ムーアヘッドの『白ナイル』を読んだことがきっかけです。
エチオピアに存在する青ナイルの源流は早くから知られていたものの、白ナイルの源流は19世紀後半になってもまだ発見されていませんでした。
そのため主としてイギリス人から成る探検家が競って白ナイルの源流を発見するための探検に乗り出したのですが、彼らの探検旅行の基地になったのがザンジバルだったのです。
なぜザンジバルだったのかというと、当時、ザンジバルは奴隷貿易の拠点として栄えていたからです。
その頃のアフリカ探検は2年も3年もかかる大旅行で、そのためには膨大な物資とそれを運ぶ何百人もの人夫や護衛を必要としました。
そしてそれらの物資や人員を調達するノウハウを持っていたのは、ザンジバルに住むアラブの奴隷商人しかいなかったのです。
イギリス人の探検家たちは、アラブの奴隷商人の助けを借りて、探検のための物資と人員を調達し、アラブ人の商人が開拓した奴隷や象牙の輸送ルートをたどって内陸部に分け入って行ったのです。
まず最初にイギリス人のバートンとスピークの二人組が1856年にザンジバルを出発します。
彼らは対岸のバガモヨからアラブ商人の交易ルートをたどってタボラを経由してタンガニーカ湖畔のウジジに到達します。
その後、二人はタボラまで引き返すのですが、このとき病気で動けなくなったバートンを置いてスピークは単独で北上します。
そして現在のタンザニアのムアンザに到着し、目の前に広がる巨大な湖(彼はこの湖をイギリス女王の名を取ってビクトリア湖と名付けます)を目にしてこれこそが白ナイルの源流であると直感するのです。
タボラに戻ったスピークはバートンにこの発見について報告しますが、バートンは信じようとはしません。バートンはタンガニーカ湖がナイルの源流だと考えていたからです。
その後、二人は探検を終えてザンジバルに戻るのですが、一足早くイギリスに帰国したスピークが探検の成果についてはバートンがイギリスに帰国するまで公表しないというバートンとの約束を破って、
白ナイルの源流を発見したと発表し、一躍、時代の寵児になっていたのをみて、バートンは憤慨し、スピークの白ナイルの源流発見はただの勘違いでしかないと激しく攻撃するようになります。
その後、1860年から63年にかけてスピークはグラントという相棒を得て再びアフリカを探検し、今度は彼が最初の旅で発見したビクトリア湖の北側まで旅行し、
湖から水が流出している滝を見つけ、これをリッポン滝と名付け、これこそが白ナイルの水源であると主張するようになります。
ただスピークの説がすぐに認められわけではなく、バートンを筆頭に彼の説を否定する人間は多く、
1864年の9月にイギリスのバースで開催された英国科学振興協会の会議にスピークとバートンの二人が出席して直接対決することになります。
しかし、討論会の前日、悲劇が襲います。
会議に出席するためにバースにきていたスピークが猟に出かけ、猟銃の暴発で死亡してしまったのです。
時が時だけにこれはただの事故死ではない、バートンを討論で負かす自信がないスピークが自殺したのではないかという噂が流れ、さらにはバートンがスピークを殺したのではないかという暗殺説まで流れたそうです。
結局、白ナイルの源流の問題の解決は、1875年のアメリカ人のジャーナリスト兼探検家のスタンレーのビクトリア湖探検まで待たなくてはなりませんでした。
スタンレーはビクトリア湖を岸伝いに一周して湖からの水の流出口がスピークが発見したリッポン滝しかないことを確認したのです。
スピークの死から12年経ってやっとスピークの直感が正しかったことが証明されたわけですが、このスピーク説の正しさを証明したスタンレーもアフリカ探検史上で極めて重要な地位を占める人物です。
彼はまず最初はジャーナリストとして長年行方不明だったリビングストン博士をタンガニーカ湖畔のウジジで発見し、単独インタビューを行ったことで一躍、有名になります。
リビングストン博士は、1858年から1864年にかけてザンベジ河を探検するのですが、1965年に英国王立地理学協会から白ナイルの水系を調査する仕事を依頼され、ザンジバルを出発します。
リビングストンはタンガニーカ湖近くのルーアラバ川を白ナイルの水源であると信じ、その水域一帯を探検するのですが、実際にはルーアラバ川はコンゴ河の支流でしかなく、これは彼の完全な勘違いでした。
その後、ザンジバルの英国領事館との連絡が途絶え、リビングストン博士行方不明の情報が世界に流れます。
ニューヨークヘラルド紙の記者だったスタンレーが編集長の命令を受けてリビングストン博士を発見するためにアフリカに赴いたのは1871年。
スタンレーは、タンガニーカ湖畔のウジジという村でリビングストン博士と出会います。
それまで何年もの間、ザンジバルのイギリス領事館からの補給が途絶えていたにも関わらず、リビングストンがウジジで生きながらえることができたのは、アラブの奴隷商人たちが彼を助けたからです。
当時、ウジジにはアラブ商人たちの中継キャンプが置かれていて、アフリカ奥地で捕獲された奴隷や象牙はいったんウジジの中継キャンプに集められ、そこから隊列を組んでバガモヨ経由でザンジバルに送られたのです。
リビングストン博士は熱心な奴隷廃止論者として知られていましたが、その彼が奴隷商人の支援を受けていたわけで、奴隷商人の助けなしにはアフリカの奥地で何年も過ごすことは不可能であったろうことは博士自身、認めています。
スタンレーはリビングストンにザンジバルに戻るように説得しますが、博士はその要請を断り、なおも探検を続け、1873年にルーアラバ川の近くで病死します。
彼の遺体はアフリカ人の従者たちによって腹を裂いて内臓が取り出され、天日に二週間ほど干したあと更紗で包まれ、全体を帆布でくるまれて遥々ザンジバルまで運ばれました。
遺体は、ザンジバルの英国領事館に一時的に安置されたあとイギリスまで運ばれ、ロンドンのウェストミンスター寺院内の墓に埋葬されました。
『白ナイル』の愛読者であるわたしとしては、ストーンタウンで真っ先に訪れたかったのは、旧英国領事館の建物でした。
バートンやスピークたち探検家は、探検の準備中はこの領事館の建物に滞在し、リビングストン博士の遺体が安置されたのもここだったからです。
旧英国領事館の建物はすぐに見つかりましたが、建物は老朽化していて、立ち入り禁止になっていました。
玄関のドアが半分、開いていたので、そっと中に入ってみましたが、門衛にすぐに見つかって出ていくようにいわれました。
一瞥したところ、建物の内部は、荒れ放題になっていて、せっかくの歴史的建造物なんだから、内部を綺麗にしてイギリス人の探検家に関する資料を展示すればよいのにと思ったのですが、ザンジバル政府にはそんな気はないようでした。
話は違いますが、この旧英国領事館の建物からそう遠くないところに、フレディーマーキュリー・ハウスという建物があります。
エイズで死亡したイギリスのロックグループ、クイーンのボーカルのフレディー・マーキュリーは、パーシーと呼ばれるイラン系インド人ですが、幼少の頃、ザンジバルで過ごしたそうで、それで彼の記念館があるのです。
個人的にはフレディー・マーキュリーよりもイギリス人探検家の方が歴史的に重要なのだから、彼らを記念する展示館を作ってほしいと思いますが、
ザンジバルの人間から見たら、イギリス人探検家たちはイギリスによるザンジバル植民地化の先兵となった連中だから、それほど好感を持てないのかもしれません。