☆ 懐かしのナイロビは今
翌日、ナイロビ見物にでかけました。
正確にいうと、昔、よく行った懐かしいナイロビの場所を見物に出かけたのですが。
朝、8時過ぎ、ホテルで朝食を済ませたあと、外に出てみると通りはすでに速足で歩く通勤、通学の人々で溢れていました。
歩いている人間は、みんな都会人の顔つきをしています。昔のナイロビは都会人の顔をしたケニア人は少なかったですが。
ガイドブックによるとこの辺はナイロビでも特に危険な地区だそうです。
実際、通りの両側に並ぶ商店には鉄格子がはまっているところが多いし、ホテルの入り口には必ず警備の人間が立っていて、強盗事件などが多発していることを窺わせますが、現実に通りを歩いてみると、皮膚感覚的にはそれほど危険は感じません。
歩いている人間は全員、黒人ですが、ただ一人の非黒人であるわたしに注目する人間などいないし、それでいて道を尋ねると親切に教えてくれます。
今回、ケニアを再訪してあらためて印象に残ったのは、ケニア人の英語能力の高さ。正確で綺麗な英語を話す人間が多いです。
タクシーの運転手くらいになるとだいぶブロークンになりますが、それでも意志伝達に不自由がない程度には話せます。
まず最初にナイロビの大通りであるケニヤッタ・アベニューを目指したのですが、車の往来の激しい通りで、通りすがりの中年男性に、
「ケニヤッタ・アベニューにはどう行ったらいいですか?」
と尋ねたら、
「ここがケニヤッタ・アベニューだよ」
といわれてびっくりしてしまいました。
ええ~ッ! これがケニヤッタ・アベニューなの?!
昔は、こんなに車は多くなく、車道と歩道の区別がなく、通りの真ん中を歩いていたのに、今は中央分離帯ができていて植樹がなされていて、信号機も設置され、歩道と車道も明確に区別されています。
もしここがケニヤッタ・アベニューなら、この東の端にニュースタンレーホテルがある筈だと思って歩いて行ったら、たしかにありました。
しかし周囲に大きなビルが建っているせいか、昔ほど目立たなくなっていて、外壁もどことなく薄汚れた感じで老朽化が進んでいます。
ニュースタンレーホテルのシンボル的存在だったホテル付属のソーンツリー・レストランはまだ健在でしたが、昔はオープンエアのレストランだったのが、ガラスの天井と壁で仕切られていました。
今では、レストランに入るのにもセキュリティチェックを受けて持ち物を調べられ、以前のように気楽に立ち寄れる雰囲気ではありません。
ソーンツリー・レストランは、昔はナイロビの社交の中心で、人と待ち合わせるときは必ずここで会ったものです。アフリカ初の日本人ストリッパー、マリコさんと待ち合わせたのもここでした。
わたしが前回、ナイロビを訪れたのは1972年のことで、独立からまだ日が浅く、アイザック・ディネーセンが『アフリカの日々』に描いたホワイトアフリカ(白人のアフリカ)の雰囲気が残っていて、ナイロビ在住の白人も多かった。
このソーンツリー・レストランはそういうナイロビ在住の白人と白人観光客でいつも賑わっていましたが、今回、中に入ってみると、ホテルの滞在客らしい白人のカップルが数組と5、6人の黒人の中年男性のグループがいるだけです。
観光がオフシーズンのためだったせいもあって、観光客が少なかったのでしょうが、ナイロビ在住の白人も随分と減っている感じで、このソーンツリー・レストランがナイロビ一の社交場だった時代はとっくに終わっていることは確かでした。
あとレストランがガラス張りの壁で仕切られている理由もはっきりしました。
前の通りのケニヤッタ・アベニューをトラックなどの大型車両を含む自動車がひっきりなしに通っていて、オープンエアのままにしていたら、客は自動車の排気ガスで窒息してしまうでしょう。
このレストランの名前の由来になったソーンツリーはまだ残っていましたが、ガラスの天井に開けた穴に通すためか枝葉が刈り取られた貧相な姿になっていました。
ニュースタンレーを訪れたあと、ケニヤッタ・アベニューの反対側にある前回、わたしが滞在していたニューアベニューホテルの跡地まで歩いて行きました。
ニューアベニューホテルは、かなり以前に取り壊されて今では空き地になっています。
昔は、ニュースタンレーのバーで飲んだあと、ほろ酔い気分でニューアベニューまで歩いて帰ったものですが、今では夜の一人歩きは危険といわれているので無理でしょう。
あるとき、歩いていたら誰かに後を付けられているような気配があって振り向いたら、さっきまでニュースタンレーのバーのカウンターで隣に座って飲んでいたイギリス人のオッサンで、わたしに気があったみたいでしたw
現在は空き地になっているニューアベニューホテルの通りを挟んだ反対側にウフル公園があります。
現在では昼間でも強盗に襲われることがあるそうで、中には入りませんでしたが、前回、ナイロビに滞在していたとき、
ケニアの初代大統領のジョモ・ケニヤッタ(現大統領のお父さん)が公園に集まった聴衆に演説しているのを見たことがあります。
柔らかい語り口のスワヒリ語で、民衆に向かって淳淳と説くように話しかけるその様子は、村人を前に話す村の長老のようで、マウマウ団の首領として白人に恐れられた面影はありませんでした。
ウフルパークについてはもうひとつ今でも忘れられない思い出があります。
ある朝、公園を散歩していたら、新聞売りの少年がわたしを目指してまっしぐらに走ってきて、いきなり手に持った新聞をわたしに突きつけたのです。
わたしの目に飛び込んできたのは「日本赤軍、ロッド空港で銃を乱射、26人死亡」という一面の見出しでした。
新聞売りの少年は、わたしが日本人であることを知っていて、それでわたしをめがけて走ってきたのです。
ニューアベニューホテルの跡地を見学したあと、いったんニュースタンレーホテルまで戻り、もうひとつの思い出のホテルであるナイロビヒルトンに向かいました。
ナイロビヒルトンはその個性的な円筒形のお陰で、当時のナイロビのランドマーク的存在でした。
現在は、ナイロビにもっと大きな円筒形ビルが何棟も建っていて、もはやランドマーク的存在ではなくなっているようですが、ケニア人は円筒形のビルがよほど好きみたいです。
あるとき、このナイロビヒルトンのビルの横を長身の容貌魁偉な初老のマサイが歩いているのを見かけたことがあります。
重いイヤリングを何本も通すために大きく広がった耳たぶの穴、特異な髪形、赤い布を身体に巻いただけの半裸の姿、古タイヤから作ったゴムのサンダル、手に持った槍。
その伝統的な恰好と近代的なビルのコントラストがあまりに強烈で、今ではあれは白昼夢ではなかったかと思うことがあります。
ヒルトンホテルに入ってまず探したのはブックショップ。ところがどこにも見当たりません。ベルボーイに訊くと「ここには本屋などあません」という。
いや、昔はあったんだよ。ブックショップが。。。
わたしの宝物になっているMirella Ricardiの写真集『Vanishing Africa』はこのヒルトンホテルのブックショップで買ったのです。
価格は日本円で2万円ほどで、当時のわたしには大金でしたが、それでも内容があまりに魅力的で買わずにいられなかったのです。
それでも土産物店はあるだろうと思って訊くと、「スーベニール・ショップはある」と連れて行ってくれましたが、
売り場のスペースの半分くらいはコンビニで売ってるようなシャンプーなどの日用品が占めていて、大した土産物は置いてありません。
昔のヒルトンホテルの土産物店にはゾウの足で作った傘立てなど面白い土産物があったのですが。
私が今回のナイロビ訪問で買いたいと思っていたのは木彫りのマサイ像で、その木彫りのマサイは、本物の布でできた小さな腰布を巻いているのですが、その腰布をめくると立派な男根が現れるというもので、
その後、同じビルの一階のホテルの玄関の反対側にあるヒルトン・アーケードというところの土産物店やシティ・マーケット内の土産物店を探しましたが、
最近のケニアはお上品になっているらしく、そのようなマサイ像は見つかりませんでした。
その後、街角のキオスクで現地の新聞を買って、ホテルに戻って読んでたら、なんとモンバサで前日からラマダンに入ったという記事が出ていました。
ラマダンは月の出を観察して決めるそうですが、モンバサで昨日、始まったのであれば、ナイロビでも始まっている筈です。
そういえば、街を歩いていたとき、通りすがりのモスクの前で大勢の信者が集まってお祈りしている光景を見かけましたが、あれは通常の金曜日の礼拝ではなく、ラマダンの礼拝だったのかもしれません。
ナイロビやモンバサなどの大都会は、イスラム教徒以外の人間もたくさん住んでいるし、外国人旅行者も多いので、ラマダンになっても外国人が食事に困ることはないですが、
明日から行くザンジバルは、住民の大半はイスラム教徒で、外国人にも影響があるのではないかとちょっと心配になりましたが、観光地だからまあ大丈夫だろうと思い直しました。
続く