☆ クリスとの別れ
テッサロニキの売血所に立ち寄ったあと、そのまま国境を越えてユーゴスラビアに入り、スコピエの幹線道路に沿ったモーテルのような簡素な宿に泊まった。
翌日、ユーゴスラビアの首都のベオグラードに向かった。
ユーゴ人のクリスはわたしたちをベオグラードのホテル・モスクワに案内した。
ホテル・モスクワは格式のある重厚な石造りの建物で、真冬だったので、軒からつららが下がっていたことを覚えている。
クリスは「俺は今夜はこのホテル・モスクワに泊まる」と宣言した。
彼はオーストラリアからの出稼ぎの帰りで懐は暖かそうだったし、故国に帰ってきた記念にこの格式のあるホテルに泊まりたかったのだろう。
ホテル・モスクワの宿泊費は、社会主義国家らしく二重価格で、ユーゴ人が10ドル(3600円)、外国人が15ドル(5400円)だった。
みんな外国人がユーゴ人よりも高いのは不公平だと文句をいったので、クリスはしきりと恐縮していた。
いずれにせよ、わたしたちビンボー旅行者が一泊15ドルもするホテルに泊まれるわけはなく、結局、泊まったのはクリスと、
「今日は疲れているのでちゃんとしたベッドで寝たい」
と言い出したオーストリア人のステファンの二人だけで、残りはわたしも含めてホテル・モスクワの前に駐車したランドローバーの車内で寝た。
ベオグラードの夜は気温が低く冷え込んだが、アフガンコートを着たまま、日本から持ってきた登山用の寝袋にもぐり込むと寒さはあまり感じなかった。
翌朝、ホテル・モスクワのクリスが泊まっている部屋を訪ねると、クリスとステファンが同じダブルベッドで寝ていたので笑ってしまった。
次の宿泊地であるザグレブを目指してベオグラードの町を出発してしばらく走ったとき、突然、クリスが「自分はここで降りる」と言い出した。
近くに父親の住む村があるというのだ。
突然の別れの言葉にみんな驚いたが、彼の決心は固いようだった。
クリスは、別れるときにわたしを抱いてわたしの名前を何度も繰り返し呼んで別れを惜しんだが、わたしがあんまり悲しそうな顔をしないのでがっかりしていた。
ほかの連中にとっては、ヨーロッパは故郷なので、ヨーロッパに戻って来れて安堵しただろうが、わたしにとってヨーロッパははじめて足を踏み入れる異郷の地で、そこで仕事を見つけなければならず、
これから先のことで頭がいっぱいで、クリスと別れを惜しむ余裕などなかったのだ。
それにクリスに裏切られたという気持ちもあった。
テヘランでわたしが日本に引き返すといったとき、一番熱心に引き留めたのはクリスだった。
あのとき、ヨーロッパで仕事が見つかるかどうかわからないと不安を口にするわたしに、クリスは、
「北欧が無理ならロンドンに行けばよい。俺も一緒にロンドンに行くよ!」
といってくれたのだ。
それなのに突然、父親が住む村に帰ると言い出したのだ。
「話が違うじゃないか」
とわたしはいいたかった。
そもそもクリスに父親がいるのか、とわたしは疑っていた。
イランからトルコへ国境を越えたとき、トルコのイミグレのオフィスで入国カードを書かされたのだが、中東諸国では、入国カードやビザの申請用紙に両親の名前を書く欄があることが多い。
そのとき、クリスは父親の欄を空白にしたまま入国カードを提出したのだ。
そして入国管理の係官になぜ父親の名前を書かないのかと訊かれて、
「俺は私生児だ。父親はいない」
と答えたのだ。
それなのに突然、父親の住む村に行くと言い出したのだ。
わたしはそんなクリスの説明に釈然としないところがあって、素っ気ない態度をとってしまったのだが、今から思うともっと彼に優しくしておくべきだったと思う。
クリスはアフガニスタンで初めて会ったときから、わたしに特別な好意を示してくれた。
テヘランでわたしが日本に引き返すといったとき、一番熱心に引き留めたのはクリスだったし、わたしをそのままにしておくのが心配だったのか、
イギリス人のジョンとジョージの運転するランドローバーで一緒にミュンヘンに行こうと誘ってくれたのもクリスだった。
もしテヘランでクリスが熱心に引き留めてくれなかったら、わたしはヨーロッパに来ることもなく、日本に引き返していたかもしれない。
陰鬱な鉛色の冬空の下、殺風景な草原の中のクリスの父親が住む村につながるという一本道を米軍払い下げの円筒状のミリタリーバッグを背負って歩き去ったクリスの後ろ姿は今でも覚えている。
クリスは今、生きていたら70代後半になっている筈である。
ユーゴスラビアは1991年に解体した。
クリスは、ベオグラードの郊外で父親の村に行くといって別れたのだから、多分、セルビア人だったのだろう。
ユーゴ解体後は、セルビア人としてセルビアに住み続けたのだろうか。
それともまたどこか外国に出稼ぎに行ったのだろうか。
今となっては知るよしもない。
続く