☆ イスタンブール
イスタンブールはエキゾチックで魅力的な町だった。
かってこの町は、コンスタンティノープルという名前で東ローマ帝国の首都として栄え、オスマントルコによる征服後はイスタンブールと名前を変えて、オスマントルコ帝国の首都として繁栄した歴史を持つ。
そのような歴史を経てきたお陰で、イスタンブールは東洋と西洋の文明が融合した、わたしたち東洋人にとっても、西洋人にとっても異国情緒の溢れる町になっている。
イスタンブールでは、トプカピ宮殿、アヤソフィア、ブルーモスク、グランバザールなどの定番の観光名所を回った。
街歩きに疲れると、ジャムショップというヒッピーや貧乏旅行者の溜まり場になっているカフェに立ち寄ってトルココーヒーを飲んだが、
あるときオーストラリア人のネッドと一緒にジャムショップでコーヒーを飲んだあと、店を出てしばらく歩いたら、ネッドが突然、ウォー!!と大きな叫び声を上げて、ジャムショップの方向に走り出した。
いったい何事が起ったのか、わからないまま後をついて行くと、ネッドはジャムショップに飛び込み、先ほどまでわたしたちがコーヒーを飲んでいたテーブルの椅子の上にあったショルダーバッグを見つけると、
「良かった、あった!」
と叫んだ。
彼はそのショルダーバッグを椅子の上に置き忘れたまま店を出て、しばらくして置き忘れたことに気がつき、慌てて走って戻ってきたのだ。
ネッドは年の頃、30歳くらい。大柄で太っていて顎鬚を生やし、ブラックニッカのラベルの髭面の男そっくりの風貌をしていた。
彼はとてもいい奴だったが、このエピソードが語るようにおっちょこちょいというか、ちょっと頭の足らないところがあった。
後にイギリスのロンドンに行ったときに友人になったイギリス人にネッドのことを話すと、
「それはオーストラリアの田舎によくいるタイプの人間だよ。向こうでは”ブッシュマン“と呼ばれてる」
といった。
「ブッシュマン?」
「そう、木こりとかやってて、人間的にはすれてなくて善良なんだけど、頭のめぐりはあまり良くない人間をからかってそう呼ぶんだよ」
ネッドが実際にオーストラリアで木こりをやっていたかどうかは知らないが、彼が単純な人間だったことは事実で、それが後に悲劇を生むもとになった。
イスタンブールはとても気に入ったが、3日ほどしかいなかった。
オーストラリア人のネッドとわたしを除き、仲間は全員、ヨーロッパ人で、クリスマスまでに故郷に帰ることを望んでいたからだ。
イスタンブールはその後、2回、訪れている。
特に今は亡きオリエント急行に乗ってパリからイスタンブールまで3泊4日の鉄道の旅をしたことは印象に残っている(「オリエント急行の美女」を参照)。
オリエント急行の終着駅であるイスタンブールのシルケジ駅に着いて、その晩、ガラタ塔にあるナイトクラブでベリーダンスのショーを見ていたとき、
偶々、同席した中年のイギリス人紳士にオリエント急行に乗ってイスタンブールにやってきたといったら、「それじゃ、ペラホテルに泊まってるんだね」といわれた。
そのときはすぐにいってることの意味がわからなかったが、「オリエント急行殺人事件」の著者であるイギリスのミステリー作家のアガサ・クリスティーをはじめとして、
オリエント急行でイスタンブールにやってきたヨーロッパの賓客はみんなペラホテルをイスタンブールの定宿にしていたのだそうだ。
ペラホテルは高級ホテルとしてまだ残っているそうだが、また行く機会があれば立ち寄ってコーヒーでも飲んでみたいものだ。
とにかく、イスタンブールはわたしにとって大好きな町の一つで、その魅力はもうひとつのわたしのお気に入りの町であるイタリアの首都のローマに匹敵する。
実際、イスタンブールは、東ローマ帝国の首都だった町で、東のローマと呼ぶのにふさわしいところだ。
西のローマと同様、歴史的建造物の多い町で、ローマと同じく七つの丘の上に建っている。
西のローマが『フェリーニのローマ』に描かれているような官能的な町であるのにたいして、東のローマであるイスタンブールは旅情を誘う町だった。
続く