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Channel: ジャックの談話室
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昨日の旅(34)

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☆ アナトリア高原の雪合戦
エルズルムを出発したあと、アナトリア高原を横切る幹線道路に入り、一路、アンカラを目指したが、生憎とイスラムの断食月であるラマダンに入っていて、途中の村で食事しようと思って食堂を探したが、どこも閉まっている。
ラマダンの間中、イスラム教徒は日の出から日没まで食事を取れない決まりで、そのため食堂も昼間は営業していないのだ。

道中、食堂が見つかるたびに車を停めて中に入ったが、どこも日没までは食事を出せないと断られる。

エルズルムのような大きな町では、非イスラム教徒である外国人のために昼間、開いているレストランもあるが、エルズルムを出たあとは、幹線道路沿いに小さな村しかなかった。
何軒目かの村の食堂で食事の提供を断られたとき、空腹で苛立っていた仲間たちは、「俺たちはイスラム教徒ではないのだから、食事を出せ」と食堂の親父に迫った。



それでもウンといわない親父に業を煮やしたオーストラリア人のネッドがカトマンズで買った三日月形のグルカ刀を引き抜いて、「これで喉を掻っ切られたくなかったら、飯を出せ!」と親父の顔に突きつけた。

すると親父は奥に入ったかと思うと、ライフルをもって出てきたので、みんな慌てて食堂を飛び出した。

食堂を飛び出して車に乗り、しばらく走ると、なぜか道の真ん中にオオカミの死体が転がっていた。

それで車を停めてオオカミの死体を検分したが、食堂の親父にライフルで脅されて逃げ出した鬱憤を晴らすためか、ネッドがオオカミのふさふさした毛の生えている尻尾をグルカ刀で切り取り、それを手にとって振り回した。

もう12月に入っていて周囲には雪が積もっていたが、どこからともなく、雪の玉が飛んできた。

見えないところにトルコ人が隠れていて、わたしたちめがけて投げてきたのだ。

雪玉の芯に石が入っていることを知った仲間たちは激怒し、自分達も雪玉を作り、雪玉が飛んできた方向に投げ始めた。

しばらくすると、それ以上、相手から雪玉が飛んで来なくなったので、今度は仲間内で雪合戦を始めた。

最初は笑いながらやっていたのが、徐々に真剣な顔つきになってきて、しまいにはイギリス人のジョンとドイツ人のマーティンが本気で雪玉を投げ合い、そのうち殴り合いに発展するのではないかと見ていてハラハラした。

ラマダンのお陰で空腹を強いられていることの苛立ちに加え、テヘランから一緒に旅行してきて早くも仲間内の人間関係にきしみが生じてきているようだった。

この人間関係のきしみは目的地のミュンヘンに着いた時に最悪の形で露呈することになった。

当初はアナトリア高原を真っすぐ横切ってアンカラまで直行する予定だったが、ラマダンのお陰で飯にありつけるのが難しいのと、雪の多さにうんざりしたのか、

一行はアンカラに通じる幹線道路を右折して黒海沿岸の町、トラブゾンを目指すことになった。

しかしトラブゾンに通じる山道はそれまで以上に雪に覆われていて、途中、雪の中で車中に一泊する羽目になった。

翌日、ようやくトラブゾンの町に着いたが、例によって町の住民が集まってきて、めずらしそうに私たちを取り囲む。

一行の中で特にトルコ人嫌いのユーゴ人のクリスが、「お前らあっちに行け!」と躍起になって追い払っていた。

クリスがわたしに、

「こいつらは人間じゃない、サルだよ!」

と悪態をつくので、わたしは、

「そんなこと言われると、ボクもサルと呼ばれているような気がする」

と抗議した。

本当のところは、トルコ人がサル呼ばわりをされたから、わたしもサルと呼ばれたように感じたわけではない。

そもそも外見からいえば、トルコ人は日本人のわたしよりも欧米人の方にずっと近い。

それでもわたしはインドからこっち、イランを除けば、トルコも含めて地元の若者からよく話しかけられた。

彼らはわたしが日本人であるとわかると例外なく特別な親近感を示してくれたのだ。

だからそんな彼らを口汚く罵るクリスを見るのは悲しかった。

しかしわたしの下手くそな英語でそのような複雑な感情を説明するのは困難で、それで「自分もサルと呼ばれているような気がする」といってしまったのだ。

それを聞いたクリスは驚いた様子で、

「あいつらがサルだといってるだけで、お前のことをサルだといってるんじゃないよ」

と必死で弁解をはじめたが、オーストラリア人のネッドが、

「人間はみんな平等だよ」

と重々しい口調でいい、その場は収まった。

実際のところ、わたしはトルコ人に喧嘩腰で接する仲間たちにウンザリはしていたが、だからといってトルコ人が自分の仲間だとは思っていなかった。

インド人や中東の人間はメンタリティーが日本人のわたしとはかけ離れていて、彼らと自分を同一視することは不可能だった。

むしろわたしは一緒に旅行しているヨーロッパ人やオーストラリア人の旅仲間の方が自分に近いと感じていた。

簡単にいうとわたしと旅仲間は同じバックパッカーであるという共通点があり、バックパッカーというはっきりした目的もなく海外を放浪する種族は、先進国の人間にしかいないという現実があった。

現在はイスラエル人や韓国人のバックパッカーも増えているそうだが、当時はアジア人のバックパッカーは日本人しかいなかった。

つまり、当時、アジアの先進国は日本だけだったということである。

現在でもなお日本はアジアで一番の先進国といえるが、そういう意味では日本はほかのアジア諸国とは異なり、どちらかといえば西欧に近いとわたしは考えている。

続く


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