☆ バーミヤン・ホテル
カブールでは、一泊100円ほどのバーミヤン・ホテルというバックパッカーご用達の安宿に泊まった。
このバーミヤン・ホテルのトイレは汲み取り式で、わたしたち日本人は子供の頃に経験していたので驚かなかったが、欧米人の宿泊客には相当、カルチャーショックだったようだ。
あるオランダ人の青年は、トイレで大の用を足していたときお釣りを貰ったといって大騒ぎしていた。
バーミヤン・ホテルの部屋は、50人くらいは収容できる大部屋で、部屋の両側にベッドがずらっと並んでいて、男女関係なく、好きなベッドで寝ることができた。
わたしのベッドの両隣は、ペシャワールからカブールに移動するバスで知り合ったオーストラリア人のジムとカブールに来てから仲良くなったスコットランド人のジェーンだった。
ジムはどこで手に入れるのか知らないが、ハッシーシを持っていて、夜になると煙草の葉と混ぜてジョイントを作った。
それを三人で順に回して吸うのだが、暫くしてハッシーシが効いてくると、互いに顔を見合わせてクスクス笑い合った。ハッシーシをやると陽気になるのである。
大部屋は男女混合だったので、泊まっているカップルの中には、隣り合わせのベッドをくっつけて、頭から毛布を被ってコトに及ぶ大胆なカップルがいて、
女性の喘ぎ声が漏れはじめると50人はいる大部屋は緊張した静寂に包まれ、全員が耳を澄ましていたことを覚えている。
☆ レストラン・カイバル
わたしたち貧乏旅行者のカブールにおける溜まり場は、バーミヤン・ホテルの近くのレストラン・カイバルだった。
レストラン・カイバルは、玄関に門衛が立っている立派な門構えのカブール一の高級レストランだった。
なぜそんな高級レストランがわたしたち貧乏旅行者の溜まり場になっていたかというと、全体に物価が安いので、高級レストランといっても、わたしたちにとってはそれほど高く思えなかったのだ。
レストラン・カイバルで食事を取ると一食200円くらいしたが、
カブールの街中の食堂では、羊の肉と干しブドウを混ぜたピラフとスープと生野菜のサラダにナンと呼ばれる楕円形の大きな平たいパンを半分に切ったものが付いた定食が50円から80円で食べられた。
それでレストラン・カイバルでは食事を取ることはめったになく、もっぱら一杯50円のコーヒーを飲んでいた。
街中のチャイハナでは、お茶が一杯10円くらいで飲めたので、50円のコーヒーも高いと言えば高いのだが、清潔で広々した店内で、コーヒー一杯で何時間もねばることができたのでコスパは悪くなかった。
ちなみにレストラン・カイバルはセルフサービス方式だった。
なぜアフガニスタン一の高級レストランがセルフサービス方式だったのか、よく分からないが、おそらく当時のアフガニスタン人にとって、
セルフサービス方式のレストランが西洋風の最新式のレストランに映ったからではないかという気がする。
実際、カウンターにトレイを載せてカウンターの向こう側にいる料理人に料理を注文してトレイに載せてもらう方式は、アフガニスタンでやると新鮮で、ハイカラな感じがしたものだ。
店内には外国人の客だけでなく、アフガニスタン人の客もいたが、アフガニスタン人の客は中流以上のパリッとした三つ揃いのスーツを着こなした男性が多かった。
女性の客はまったく見かけなかった。
アフガニスタンは現在でもそうだが、当時からイスラム圏の中でも特に保守的な土地柄で、たとえ家族同伴であっても、女性がレストランに入ることはなかった。
通りでみかける女性たちは身体だけでなく、顔もすっぽり覆うブルカというテルテル坊主みたいな衣装を身に着けて歩いていた。
ほかのイスラム圏では、ベールを被っていても、少なくとも目は露出しているが、ブルカは顔面を完全に覆ってしまう。
顔の前の部分は網目状の布でできているので、網目を通して中から外を覗くことができるらしいが、外からはブルカを着ているのがどのような女性であるかまったく分からない。
そもそも男性がブルカを着ていても、外見からでは分からないのではないかと思う。
というような訳で、レストラン・カイバルの現地人の客は男性しかいなかったのだが、 わたしたち外国人の貧乏旅行者と現地の中流以上のアフガニスタン人男性が交流するというある意味、めずらしい光景がこのレストランで見られたのだ。
レストラン・カイバルに来るアフガニスタン人はなぜかみんな切手を欲しがった。
彼らはアフガニスタンの切手をもっていて、それをわたしたち外国人が持っている外国の切手と交換したがるのだ。
わたしもレストランで知り合ったアフガニスタン人に日本の切手は持ってないかと訊かれ、持っていた日本の切手を見せると興味を示して、アフガニスタンの切手と交換してくれといわれた。
ただ問題は交換レートで、彼らは、アフガニスタンの切手一枚を日本の切手5枚くらいと交換したがるのだ。
まさか商売でやっていたとは思えないが、その厚かましい態度にうんざりして、そのうち彼らと切手交換するのを辞めてしまった。
彼らは身なりからしてそれほど貧しい階層の人間には見えなかったが、その駆け引きにみられるがめつさはやはり中東人だった。
それでもアフガニスタン国内をバスで移動中にチャイハナで休憩してお茶を飲んでいるときに話しかけてくる現地の若者たちは、
何の下心もなく、純粋に日本人であるわたしと話ができるのを喜んでいるみたいで、そういう若者たちと話をするのは楽しかった。
続く