☆ カブール
バスがカブールに着いたのは夕刻だった。
1800メートルの高地にあるせいか、11月下旬のカブールはかなり寒く、町ゆく人は外套を着て、一見して、ロシアや東欧の町のようだった。
町は思っていたよりもずっと清潔で、市場には、リンゴやブドウ、イチジクやザクロ、柿などの果物が山盛りにして売られていて、辺りには甘い香りが漂っていた。
インド、パキスタンと追われるように旅してきたわたしは、このカブールに着いて、やっと静かなやすらぎを味わうことができた。
現在、アフガニスタンではタリバンと政府軍の間で戦闘が続いていて、いっこうに収まる気配がないが、この頃のアフガニスタンは平和そのもので、桃源郷のようなところだった。
現在と違って国際ニュースを賑わせることもなく、世界の動きから完全に取り残されていたが、滞在するには快適だった。
当時、アフガニスタンは王国で、商店などに王様の肖像写真が掲げられていたが、欧米人旅行者の間では、この王様がイギリスのコメディ俳優のピーター・セラーズに似ていると評判だった。
1973年のクーデターで王政は廃止され、王様はイタリアに亡命することになるのだが、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロの報復として、
アメリカがアフガニスタンを空爆、タリバン政権を倒して傀儡政権を樹立したとき、テレビのニュースで、ローマに亡命していた王様の姿を久しぶりに見る機会があった。
「まだ生きていたのか!」というのが正直な感想だったが、齢はとっていたものの、ピーセラの面影はまだ残っていて、懐かしかった。
アフガニスタンでは1973年の王政を倒したこのクーデターのあと、1978年に再びクーデターが起こり、親ソ政権が樹立された。
しかし、これに反発するイスラム原理主義ゲリラ、ムジャヒディーンとの政府軍の間で戦闘が激化し、親ソ政権を支援するためにソ連がアフガニスタンに侵攻する事態になった。
ソ連のアフガン侵攻は国際的に非難され、1980年に開催されたモスクワオリンピックは、日本を含む多くの西側諸国がボイコットしたが、
ソ連軍は、アフガニスタンでイスラム原理主義ゲリラ、ムジャヒディーンの激しい抵抗に遭い、戦闘は泥沼化し、成果を挙げることなく10年後に撤退せざるを得なくなった。
このアフガン侵攻の失敗がソ連崩壊の一因になったといわれているが、このとき反政府ゲリラのムジャヒディーンを支援したのがアメリカで、
この反政府ゲリラから後のタリバンやアルカイダなどのイスラム原理主義勢力が生まれ、アルカイダは9.11テロを引き起こすに至る。
簡単にいうと、アメリカは自分が育てた飼い犬に手を噛まれたのである。
元々、アフガン戦士は質実剛健で、勇猛をもって聞こえている。
19世紀から20世紀初頭にかけて戦われたイギリスとの三次にわたるアフガン戦争でも、最後はイギリス領インドに攻め込んで、イギリスを撤退させている。
ソ連によるアフガン侵攻も結局、失敗に終わったし、アメリカによるアフガン空爆で殲滅された筈のタリバン勢力もいつの間にか息を吹き返し、現在では国土の7割を支配下に置いているという。
アフガン人というのはかように手強い相手なのだが、中世の雰囲気をまだ残している平和で素朴な中東の小国だったアフガニスタンが、
その後、世界情勢に大きな影響を与えるイスラム原理主義テロリストの揺籃の地になるとは、当時は想像もしていなかった。
ただカブールにいたとき、街中にレーニンなど社会主義ソ連関係の書籍を売る本屋があったことは覚えている。
おそらくソ連政府直属の機関が運営していたのだろうが、ソ連のアフガン侵攻のニュースを耳にしたときその本屋のことを思い出し、当時からすでにソ連の影響力が強い国であったのだと納得した。
いずれにせよ、わたしがいた当時のカブールはとても治安が良く、欧米人のヒッピーが沢山、集まって、ハッシーシを吸って楽しんでいた穴場的な町だった。
ヒッピー達が好んで集まってくる場所には共通点がある。
まず物価が安いこと。そしてヒッピー達の異文化指向を満足させるだけの異国情緒に溢れていること。マリファナやハッシーシが安く簡単に手が入ること、そして住民がヒッピーをはじめ外国人に友好的なことである。
そのような条件を満たすヒッピーお気に入りの場所は、アジアに3ヶ所あった。
ネパールの首都のカトマンズ(Kathmandu)、バリ島のクタ(Kuta)ビーチ、そしてカブール(Kabul)の3ヶ所で、その頭文字をとって3Kと呼ばれていた。
なにより大切なことは、Love and Peaceがスローガンのヒッピー達にとって、これらの場所が、平和に穏やかに暮らせるところだったことだ。
戦火の続くアフガニスタンがかっては、ヒッピー達に愛された平和な桃源郷であったことを覚えている人は、今では殆どいないだろう。
続く