☆ カイバル峠を越えて
ペシャワールの町に戻ると、カブール行きのバスチケットを買うために、真っすぐバスターミナルに向かった。
男たちからセクハラばかり受けるパキスタンからは一刻も早く逃げ出したかった。
バスターミナルでカブール行きのチケットを買ったあと、近くのアフガニスタン領事館で、2週間のアフガニスタンのトランジットビザを取った。
本来ならば、まずアフガニスタンのビザを取ってからバスチケットを買うべきだったのだろうが、バスターミナルで、近くの領事館で30分もあればビザを取得できるといわれたのだ。
実際には、ビザを取るのに30分ではなく40分かかり、バスターミナルに戻ってみると、わたしが乗る予定だったカブール行きのバスは出発したあとだった。
慌てて近くにいた車をもっている地元の人間に頼んで、バスを追いかけてもらい、町の出口のところでようやくバスに追いついて、やっとバスに乗り込むことができた。
現在、観光目的でアフガニスタンのビザを取得することは事実上、不可能である。
それを考えると30分の予定が40分に延びたといっても、国境で簡単にアフガニスタンのビザが取れたのは今では考えられないことだ。
当時、この地域を旅行するのは今よりずっと簡単だった。
パキスタンとイランは、日本と相互ビザ免除協定を結んでいたので、日本人旅行者はこれらの国に入国するのにビザを取得する必要がなかった。
この状態は長く続いたが、80年代半ばに日本がバブル景気になって、ビザが不要なのをいいことに大量のイラン人とパキスタン人が日本にやってきて、上野公園がイラン人で溢れるという事態になって、
慌てた日本政府は、両国とのビザ相互免除協定を廃止し、互いの国民は、相手国を訪問するのにビザの取得を義務付けられるようになった。
お陰で日本の街角からイラン人やパキスタン人は姿を消したが、日本人がこれらの国を旅行しようと思えば、ビザを取得しなければならなくなったのだ。
バスは、カイバル峠を通って、アフガニスタンに入っていった。
カイバル峠は、古来より文明の交差点として重要な役割を果たし、北インドと中央アジアを結ぶ交通の要衝になっている。
ヒマラヤ山脈とタール砂漠という天然の要塞に守られた北インドは、外部から侵入するのが容易ではなく、唯一、この峠を通って侵入するしかない。
そのため、紀元前1500年のアーリア人、紀元前4世紀のアレキサンダー大王、さらに北部インドにいくつものイスラム王朝を打ち立てた中央アジアのイスラム勢力もすべてこのカイバル峠を通ってインドに侵入した。
イスラム王朝の中で一番有名なムガール帝国も、中央アジアを追われた開祖バーブルがカイバル峠を越えて北インドに侵入して建てたものである。
更に19世紀のアフガン戦争では、アフガニスタン征服を目論んだイギリスもこのカイバル峠を越えてアフガニスタンに侵入している。
そのほか、ジンギスカンやマルコポーロ、西遊記で知られる三蔵法師もこのカイバル峠を越えたといわれている。
このように古来から幾多の征服者や交易者が往来した結果、現在のアフガニスタンの民族構成は複雑多様になっている。
たとえば、アレキサンダー大王に率いられてこの地にやってきたギリシャ軍の兵士はそのまま住み着いた者も多く、その末裔は今もアフガニスタンに住んでいるという。
バスでわたしの隣の窓側の座席に座っていたアフガニスタン人の少年は、純朴な雰囲気を漂わせていたが、整ったギリシャ系の顔立ちをしていて、もしかしたら、彼の祖先はギリシャ人ではないかと思った。
反対側の通路側の座席に座っていたバスで知り合ったオーストラリア人旅行者のジムに、
「ほら、彼を見てごらん。ギリシャっぽい顔立ちだと思わないかい? きっと彼の先祖はアレキサンダーの兵士だったんだよ」
といったら、ジムは面白がって、その少年に向かって、
「おい、お前のご先祖さまはギリシャからやってきたのかい?」
とからかうように訊いたが、英語が理解できない少年は困惑した表情を浮かべるだけだった。
そのほかにアフガニスタンには、ハザラ族という、外見は日本人と変わらないモンゴロイド系の民族も住んでいて、彼らは蒙古の末裔だといわれている。
バスがカイバル峠を越えると、一面の荒野が広がっていて、右手はるかにヒンズークシ山脈が聳え、ラクダの隊商が悠々と歩を進めているのが見えた。
わたしのイメージするシルクロードそのままの風景で、過去、この道を通った多くの旅人と同様、自分もまたこの歴史的に有名なルートを通って、カブールに向かっているのだと思うと、あらためて感慨が湧いてきたのだった。
続く