☆ カトマンズからベナレスへ
カルロッテとはカトマンズで再会したが、このあと、別行動をとることになった。
彼女は、クリスマスまでに故国、スウェーデンに帰ることを望んでいたが、わたしは時間をかけてインドを旅行したいと考えていたからだ。
それでカルロッテは、カトマンズから先は、やはりクリスマスまでにドイツに帰国することを望んでいたドイツ人夫婦と一緒に旅を続けることに決めたのだが、
頼りないわたしと一緒にいるよりも、しっかりしたドイツ人夫婦と一緒にいる方が、彼女も心強かっただろう。
わたし自身、彼女と別れることに異存はなかった。
カルロッテを紹介してくれたKさんは、わたしが英語ができないから、英語が話せるカルロッテと一緒の方が楽だろうといって、カルロッテと一緒に旅行することを勧めてくれたのだが、
旅行に出る前の半年間、NHKの教育テレビの英会話教室を視ていたこともあって、実際に旅行に出てみると、旅行に必要な簡単な英会話にはそれほど不自由しないことがわかり、カルロッテの助けを借りることもなかったのだ。
それに加えて、カルロッテは、ユーモアを解さない退屈な女の子で、一緒にいて楽しい相手でもなかったので、彼女と別れることに未練は感じなかった。
それでスウェーデンでの再会を約束してカトマンズで彼女と別れたのだが、カトマンズからの一人旅は、想像していたよりもずっと心細く、辛いものだった。
考えてみれば、日本を出てからはずっと旅仲間と一緒で、完全に一人で移動するのはこれが初めての経験だった。
神戸からバンコクまでの船旅はつねに乗客仲間と一緒だったし、ビルマ航空でバンコクからラングーンを経由してカルカッタに飛んだときは、カルロッテとドイツ人夫婦が一緒だった。
カルカッタからカトマンズまでは、アメリカ人の弁護士が一緒だったので、特別、心細さを感じることはなかった。
しかし、カトマンズからインド国境に向かうバスでは完全にひとりぼっちで、淋しさが募った。
それで一緒のバスに乗っていたドイツ人グループのリーダー格の青年によかったら仲間に入れてくれないかと頼んだのだが、無視されてしまった。
カルロッテと一緒だったドイツ人夫婦のダンナがとても頼りがいのある人で、バンコクからカルカッタに飛んだときやカルカッタやカトマンズでの滞在中、なにかと面倒をみてくれたので、
同じドイツ人なら親切にしてくれるのではないかと虫の良いことを考えたのだが、そんな甘ったれた態度が受け入れられる筈もなかった。
そもそも人に頼るような人間にひとり旅をする資格はない。
特にインドのような貧乏旅行をするのに様々な苦労が付きまとう国を、20歳になっていたというものの、
精神年齢が幼く、子供っぽいわたしがひとりで旅をするのはかなり無謀な企てであったことは、今となってみればよくわかる。
皆様、お元気ですか。今、カトマンズからヒンズー教の聖地ベナレスを経て、ニューデリーにおります。カトマンズからベナレスの旅は大変きびしく、僕はこの旅を一生忘れられないだろうと思います。カトマンズから国境の町までバスで8時間ゆられて、国境は馬車で越え、インド側の国境の町ラクソールから汽車に乗り、8時間ほどかかってプレザガートという駅に着きました。この汽車の混みようはものすごく、途中で乗り換えのときにはとうとう客車に乗れなくて、貨物車にほうり込まれてしまいました。そしてプレザガートからガンジス河を蒸気船で一時間ほど下り、そこからまた汽車に乗り、ベナレスにやっと着きました。
上の文章は、デリーから両親に宛てて出した手紙の一節である。
旅先から両親宛てに出した手紙はすべて母が保管しておいてくれたので、今回の旅行記はそれを見ながら書いている。
手紙には、「僕はこの旅を一生忘れられないだろうと思います」と書いているが、細部については殆ど忘れている。
ただ大変な旅だったことははっきりと記憶している。
特に手紙に書いているように国境の町ラクソールからプレザガートまでの汽車の旅は途中の乗り換えのときに列車を降ろされてから、
次に乗るべき列車が中々、見当たらず、ほかの乗客と一緒に延々と線路を歩いたこと、
やっと乗ることができたのが、家畜でも運ぶような貨車で、座席もなにもない車両だったことはよく覚えている。
今回の旅行記を書くにあたって、プレザガートの町を地図で探してみたが見つからなかった。英語の綴りがわかれば見つかるかもしれないが、それがわからないのだ。
プレザガートからガンジス河を船で渡ったのは、鉄道を通す橋が架かっていなかったためで、いったんプレザガートで汽車を降り、河を船で渡ったあと、対岸でまた汽車に乗り継いだのだと思う。
このときの船が外輪船であったことは覚えている。
船で河を渡った対岸の鉄道の駅は、パトナ・ジャンクションだったような気がする。
パトナ・ジャンクションはその名のとおり、カルカッタとデリーを結ぶ東西の路線とネパール国境の町ラクソールとベナレスを結ぶ南北の路線が交差するところにある大きな乗換駅で、
このパトナ・ジャンクションを経由してベナレスに向かったのではないかと思う。
ただなにぶん50年も前のことなので、このへんの記憶はかなり曖昧で、間違っている可能性もある。
いずれにせよ、ベナレスに着くまでに大変、辛い思いをしたのは事実である。
やっとたどり着いたベナレスの安宿でシャワーを浴びているときに、腕に赤く腫れあがった部分が何箇所も現れていることに気が付いた。
わたしは元々、皮膚が弱いので、最初は何かにかぶれたのかと思ったが、あとでインド名物の南京虫に咬まれた跡であることが判った。
多分、プレザガートに行く鉄道の旅の途中で放り込まれた貨車の中で喰われたのではないかと思う。
この南京虫に咬まれた跡は、それから10日以上、消えず、ずっとかゆみに悩まされることになった。
続く