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Channel: ジャックの談話室
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昨日の旅(16)

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☆ ネパールへ
結局、カルカッタには三日しか滞在しなかった。
駅を一歩、出ると何十人もの乞食がゾロゾロあとをついてくるような状況では、観光もままならない。
さっさと次の目的地であるネパールのカトマンズを目指した方がよいと判断したのだ。
カルロッテは一足先にドイツ人夫婦と一緒にカトマンズに向けて出発していた。
それで、ネパールとの国境の町、ラクソールに向かう列車には、わたし一人で乗り込んだ。
安い三等料金のそのまた半額の学割料金で乗ったのだが、インドで列車に乗るのは一苦労である。
インドの駅にも赤帽がいて、彼らは赤い帽子の代わりに頭に赤いターバンを巻いている。
彼らの仕事は、客の荷物を列車に運ぶだけでなく、客のために列車内の席を確保することも含まれているらしく、
赤帽を雇う金のないわたしがひとりで列車に乗り込もうとすると、殺気立った彼らにこずかれたり、突き飛ばされたりして大変だった。

わたしはリュックサックを背負って旅行していたが、当時、日本で売っていたリュックサックは、両側に大きなポケットが付いている横長のもので、

それを背負って歩く若者は、その姿がカニに似ているということで、カニ族と呼ばれていた。

ちなみに当時はバックパックという名称はまだ一般的ではなく、バックパッカーという呼び名も存在しなかった。

この旅行記では便宜的にバックパッカーと呼んでいるが、当時はヒッチハイカーとか貧乏旅行者とか呼んでいたと思う。

この横長の日本製リュックサックは、列車の通路など狭いところを歩いているとすぐに人やモノにぶつかるので実に使いにくかった。

それでヨーロッパに着いたあとは、両側のポケットを切り取って使っていた。

赤帽たちに小突き回され、突き飛ばされながら必死に列車に乗り込んで、運よく座席を確保することが出来た。

向かいの座席には、ハンサムな白人の男性が座っていた。

ニューヨークで弁護士をしているという31歳のアメリカ人で、休暇でインドを旅行しているという。
三等列車で旅行するようなタイプには見えなかったが、貧乏旅行を体験したくてわざと三等に乗っていたのかもしれない。

このときの鉄道の旅は、わたしが初めて体験するインド鉄道の旅だったが、列車に乗ってみて面白いことに気づいた。

列車は鈍行で各駅に停車するのだが、列車が駅に停車するたびにプラットフォームにいたインド人の若者がわたしを見つけて駆け寄ってくるのだ。

彼らはわたしが日本人だとわかると喜び、矢継ぎ早に質問を浴びせてくる。

年は幾つ?学生なの?

インドにはいつ来たの?

インドにはどれくらい滞在するつもり?

インドは好き?

インドをどう思う?

等々。

新しい駅に着くたびに、インド人の若者がわたしを見つけて駆け寄ってきて同じような質問を繰り返す。

アメリカ人の弁護士は、わたしとインド人の若者が勢い込んで会話する様子を笑ってみていたが、内心ではショックを受けていたのではないかと思う。

インド人の若者たちはわたしにばかり話しかけて、わたしの前に座っていた彼を完全に無視していたからだ。

大東亜戦争でインド国民軍を指揮して日本軍とともにインパール作戦を戦ったインド独立の英雄、チャンドラ・ボースはベンガル人で、

そのため、ベンガル地方は特に親日的なのかもしれないと思ったが、親日的なのはベンガルの若者だけではなかった。

これ以後、イスタンブールまで、わたしは行く先々で、現地の若者に取り囲まれ、親し気に話しかけられるという経験をした。

そして彼らは全員、わたしと一緒に旅行していた欧米人の旅行者のことを無視していた。

彼らと話していてわかったのは、これらの地域では、日本は有色人種国家のチャンピオンとして見られているということだった。

日露戦争で、日本が白人の大国、ロシアを破ったとき、これらの地域の人々は熱狂したという。

インドでは、チャンドラ・ボースだけでなく、多くのインド人が極東の小国である日本の勝利を聞いて、日本にできるのであれば、自分たちにだってできる筈だ、と考えて独立運動に身を投じたといわれている。

トルコでは、バルチック艦隊を全滅させた東郷平八郎元帥の名をとって、自分の子供に「トーゴ―」と名付ける親まで出てきたという。

エジプトでは、高名な詩人が「日本の乙女」という詩を作って、日本人に捧げたという。
太平洋戦争でも、日本は敗れはしたものの、超大国アメリカとタイマンを張って戦ったわけで、その勇気と敢闘精神は、これらの地域では大いに称えられていた。
現地の若者たちが日本人であるわたしにだけ話しかけて、一緒にいる欧米人旅行者を無視したのも、彼らが抱いている白人にたいする反発心の現われだったのだろう。
国境の町、ラクソールに着いたのは、翌日の午後だった。その夜は例によってラクソールの駅の一等乗客用の待合室で寝て、
翌日早朝、徒歩で国境を越えてネパール側に入り、ネパール側の国境の町からカトマンズ行きのバスに乗った。

バスの運転手が頭にターバンを巻いた身長2メートルはある大男だったことを覚えている。
バスはカトマンズまで10時間ほどかけて山道を登り、カトマンズに着いたときは、もう日は暮れていて、町の入り口の税関事務所で書類に記入したのはランプの灯の下だった。

この日はちょうどヒンズー教のディワーリという祭りの日にあたっていて、家々の窓はローソクや豆電球の灯で美しく飾られ、まるでお伽の国に迷いこんだような気分だった。

続く


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