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Channel: ジャックの談話室
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昨日の旅(14)

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☆ カルカッタ


『インド夜想曲』というインドを舞台にした大変、ロマンチックなフランス映画を観たことがある。

ジャン=ユーグ・アングラード演じる主人公の青年がインドで失踪した友人を探してインド各地を旅する話だが、

彼は旅の最後の目的地であるゴアのリゾートホテルで、カルカッタでの撮影旅行から戻ってきたばかりのフランス人の女流カメラマンと出会い、彼女と次のような会話を交わす。

「あなた、カルカッタに行かれたことある?」

「いや、まだ行ってない」

「あそこには行かないほうがいいわ」

「どうして? 僕は死ぬまでにできるだけ多くの国や都市を旅行して回りたいと思ってるんだけど」

「 でも世界には行かないほうがいい場所もあるの。カルカッタがそうだわ」

わたしは、この女流カメラマンのいうことが実によくわかる。世界には行かなければそれに越したことはない場所がある。そしてその筆頭がカルカッタなのだ。

カルカッタの空港に着いて、バスに乗ってダウンタウンを目指したが、沿道には、段ボールや木切れを使って作った小屋とも呼べないような粗末な囲いが延々と並んでいて、

その囲いの中で蠢いている生き物が人間だとわかったとき、全身が総毛だった。

栄養失調のせいか黄色く変色した蓬髪、骨と皮に痩せて、腕や脚は極端に細く、あばら骨がくっきりと浮きでているのに腹だけが異様に膨らんでいる。

高校の美術の教科書で見た餓鬼草紙に描かれていた餓鬼そっくりの風体だったが、間近でみると、とてもそれは人間とは思えず、人間どころか動物よりも下の奇妙で醜悪な生き物にしか見えなかった。

そんな生き物が犇めくカルカッタは、自分が生きるこの地球上にある都市とはとても思えなかった。どこか別の惑星に来たような感じだった。

カルカッタでわたしたちが向かったのはハウラー駅だった。

カルカッタには、ハウラー駅とシールダー駅という二つの大きな鉄道の駅があるが、わたしたちが次に向かうことを予定していたネパール方面への列車がハウラー駅から出たからだ。

わたしたちはカルカッタではホテルに泊まらず、ハウラー駅の一等乗客用の待合室で寝起きしていた。

一等乗客用の待合室には寝袋を上に敷いて寝ることができるゆったりした大きなソファがあったし、インドでは貴重な清潔なトイレとシャワーが備わっていた。

待合室の入り口には、警備の人間が常時、立っていて、よそ者の侵入を防いでいたので盗難の心配がなく、荷物を待合室に置いたまま外に出ることができた。

わたしたちはみんな三等チケットで鉄道旅行をしていたが、外国人の特権でデカい顔をして一等の待合室を占拠していたのだ。

しかし待合室を一歩、外に出ると、そこは飢えた人々が食べ物を求めて彷徨う飢餓の世界が広がっていた。

広大なハウラー駅の構内は、飢えた人々で埋め尽くされ、足の踏み場もなかった。

売店でアイスクリームを買って食べたあと、食べ終わって空になったカップをなにげなく床にポイ捨てしたら、目にも止まらぬ早さで、肩にサルみたいな小さな弟か妹を載せた7、8歳の少年が飛び出してきて、

わたしが捨てたカップをさっと拾うと、ペロペロと底を舐め、肩に担いでいる弟か妹にも舐めさせた。

呆気に取られて眺めていると、誰かが後ろからわたしの肘を掴むので、振り返ったら、乞食の婆さんがいて、真っ黄色な乱杭歯をむき出しにして気味の悪い笑いを顔に浮かべながら、

「バブジー、バクシーシ」

と皺だらけの手を差し出してきたので、驚いて飛び上がってしまった。
この乞食の婆さんのように、立って歩けるのはまだましなほうだった。
大多数の人々は、構内のコンクリートの床に敷いた木綿の布の上に寝たきりの状態で、起き上がる力も無さそうに見えた。
構内に累々と横たわるこれら飢えに苦しむ人々の群れを見て、原爆投下直後の広島の惨状はこのようなものではなかったか、と思ったことを覚えている。
わたしがカルカッタに到着したのは1967年の11月2日だったと記憶しているが、この頃、カルカッタで何が起こっていたか、正確には知らない。
後で聞いた話だが、1967年に隣国の東パキスタン(現バングラデシュ)で飢饉が起こり、大量の難民がカルカッタに押し寄せたという。
もしかして、わたしがハウラー駅で目撃した駅の構内を埋め尽くす大量の貧民の群れは、東パキスタンからやってきた難民だったかもしれない。
ガンジス河の支流、フーグリー川の東岸に位置するカルカッタは、イギリスの植民地経営の拠点となった東インド会社が置かれた、
東パキスタンを含むベンガル地方の中心都市で、輸出用のジュートや綿花の集散地として栄えたところである。
そのため、英領インドがインドとパキスタンに分離した1947年の分離独立後であっても、飢えに苦しむ東パキスタンの難民が国境を越えてこのベンガル地方の中心都市であるカルカッタに逃れてきたことは十分に考えられる。
私はその後、1972年に西アフリカに行き、マリやニジェールのサヘルと呼ばれるサハラ周縁部の砂漠地帯で飢餓に苦しむ遊牧民と出会った。
このときの西アフリカの飢饉は世界中に宣伝され、日本でも飢えに苦しむ子供たちを救うための街頭募金が行われたが、
人口密度の低い砂漠地域に散在する遊牧民のテントの中で子供たちがひっそりと飢えていたサヘル地方の飢餓と較べて、

わたしがこのときカルカッタで目にした飢餓はもっと規模が大きく、生々しかった。

駅のプラットフォームでは、犬と乞食が食べ物を取り合って争っていた。

誰かが捨てていったらしい新聞紙に包まれたサフラン色のビリアニを大きな野良犬が食べようとしていたのだが、

そこに足が不自由な乞食がこっそりといざりよって、その新聞紙に包まれた食べ物を横取りしようとしたのだ。

乞食が自分が食べようとしているビリアニを盗ろうとしていることに気が付いた犬は、新聞紙に片足を乗せてビリアニを守りながら、低いうなり声をあげて乞食を威嚇していたが、
犬と人間が食べ物を取り合う光景が見られる都市なんて、世界広しといえどもカルカッタくらいなものだろう。

続く

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