☆ 神戸港
今からちょうど50年前の1967年10月6日に私は神戸港にいた。
当時、就航していたフランスと極東を結ぶフランス郵船の客船ラオス号に乗るためだった。
その時、わたしは19歳だった。
フランス郵船の極東航路は1865年に就航を開始した歴史のある航路で、戦前は多くの日本人がこの郵船に乗ってフランスに渡ったという。
1969年に運航を停止したので、わたしはかろうじて間に合ったことになる。
極東航路には旧フランス領インドシナ三ヵ国の名前をとった「ベトナム号」と「カンボジア号」と「ラオス号」の三隻が就航していて、わたしが乗ったのはラオス号だった。
1964年に海外旅行が自由化されてから三年しか経っておらず、日本人の海外旅行者はまだ少なかった。
今のような格安航空券存在せず、日本からヨーロッパへ安く行こうと思うと、横浜からナホトカまで船、ナホトカからハバロフスクまで列車、
ハバロフスクからモスクワまで飛行機、モスクワからさらに列車でヨーロッパ各地へ乗り継いで行くか、
フランス郵船の定期便で横浜からマルセイユまで50日かけて行くかどちらかしかなかった。
本来、マルセイユまでは40日で行ける筈だったが、当時、スエズ運河が封鎖されていて喜望峰経由ルートをとっていたので、それだけ余計な日数がかかったのである。
いずれにせよ、モスクワ経由を使っても、フランス郵船を使ってもヨーロッパまで15万円ほどかかった。
高卒の初任給が1万8000円くらいだった時代で、その15万円を用意できなかった私は、マルセイユまでの航路の全ルートを船で行くのではなく、
バンコクで下船して、そこからカルカッタまで飛行機で飛び、カルカッタからイスタンブールまで陸路、鉄道とバスを乗り継ぎ、
イスタンブールから最終目的地のスウェーデンのストックホルムまでヒッチハイクで行くつもりだった。
神戸からバンコクまでの船賃は三等で3万5000円、バンコクからカルカッタまでは陸路で移動できないので、一番安いビルマ航空の学割で2万円、
カルカッタからイスタンブールまでの鉄道とバスを乗り継いで運賃は約1万円、イスタンブールからヒッチハイクをすれば合計6万5000円でスウェーデンまで行ける筈だった。
途中、クウェートに立ち寄って200cc売血すれば1万円になるから、実質の交通費は5万5000円で済む、と私にこの方法を教えてくれた京大生のKさんはいった。
これが当時、日本からヨーロッパに一番安く行く方法で、金のない私がヨーロッパに行こうと思ったら、この方法しかなかった。
岸壁に停泊していたラオス号は1万2000トンくらいの中型の客船で、船体は白く塗られていたが、近くで見るとかなりくたびれた感じだった。
港には、両親と母の弟である叔父さんが見送りに来た。叔父さんはわざわざ広島から見送りにきてくれていた。
当初、ラオス号は午後2時に出航する予定だったが、午後5時に延びたので、せっかちな母は「それじゃあ、帰るわ」といって、出航を待たずに父と叔父さんを促してさっさと帰ってしまった。
ほかの乗客を見送りにきていた家族は、帰らずに出航まで待っていた人が多かった。
ひとりいかにもお袋さんといった感じの初老の着物姿の女性が息子らしい若い男性を前にしてしきりと涙をぬぐっていた。
永の別れが辛くて泣いているのかと思ったら、その息子は大学生で2週間、東南アジアに旅行に行くだけだと聞いて驚いた。
たった二週間の旅行で泣いて別れを惜しむなんていかにも大げさだと思ったが、当時、海外旅行は庶民にとってまだめずらしく、そのお袋さんのような人もいたのである。
その点、わたしの両親はあっさりしたものだった。
10年は日本に帰らないと宣言していたにもかかわらず(実際は2年半で帰国した)、涙などまったく見せずに、笑ってさよならをいって帰って行った。
もっとも、わたしが海外に行くと言い出したとき、両親は猛反対した。
息子が突然、大学には行かない、外国に行くなどと言い出したのだから、反対するのは当然である。
父親は、自分が下積みの人生を送ることになったのは、学歴がないからだと信じていたので、小学校、中学校と成績が良かった長男の私には大学を卒業して欲しいいと願っていた。
わたしも当然、大学に行くつもりだったので、高校は迷うことなく進学校を選んだ。
しかし、高校に入学した途端、なぜかわたしは突然、勉強に興味を失った。
なぜ突然、勉強に興味を失ったのか、理由はわからない。
高校時代の三年間はずっと頭の中に霧がかかったような状態だった。
もしかしたら、それは性欲と関係があったのかもしれない。
続く
本日のつぶやき
これからしばらく50年前の旅行記を連載します。50年前の世界にタイムスリップしてください(笑)
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