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Channel: ジャックの談話室
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昨日の旅(10)

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☆ マニラ


香港を出航後、船がまた揺れ出して船酔いになり、翌日、次の寄港地のマニラに着くまで食事が喉を通らず、マニラに着いた時は、身体中がしびれたような感じでふらふらした。
マニラの港には、上半身裸の入れ墨だらけの港湾労働者が沢山いて、柄が悪い雰囲気がした。
カルロッテと一緒にジープニーと呼ばれるジープを改造した小型の乗り合いバスに乗って街に出たが、街並みは汚く、目つきの悪い連中がウヨウヨいて、治安は悪そうだった。
マニラの街では、映画を観た。
タイトルは忘れたが、ヘイリー・ミルズ主演のイギリスのコメディ映画で、字幕がないのに、フィリピン人の観客が笑うべきところでちゃんと笑うのに感心した。
アメリカの植民地だったフィリピンでは、映画館にいるような一般庶民でも英語がちゃんと聞き取れるのだ。


映画館を出たあと、港に戻るためにジープニーを探したが中々、見つからない。
夜も遅くなってきたので、タクシーで帰ることにして、1台のタクシーを停めて運転手に港までいくらで行くかと訊いたら1ペソ半だという。
しかし実際に港に着いてみたらメーターの表示は70セントだったので、1ペソ渡して30セント釣りをくれというと、運転手は初めに1ペソ半と約束したのだからもう50セント寄こせという。
でもメーターは70セントじゃないかと押し問答になって、運転手は怒って金を払わないなら元の所に戻るといいだし、車をUターンさせて街の方に走り出そうとした。
それで大声で「ストップ!」と叫んで、必死でドアを開けて、タクシーから飛び降りた。
もう少しで怪我をするところだったが、わたしもカルロッテも間一髪のところで助かった。
しかし船に戻ってから、カルロッテがタクシーの中に財布を忘れてきたことに気が付いた。
財布には10ドルのトラベラーズ・チェックと少額のフィリピン通貨が入っていた。
トラベラーズ・チェックは失くしても、番号を控えていたら戻ってくるからと慰めたが、カルロッテはショックのあまり泣き出してしまった。
10ドルは大した金額には見えないかもしれないが、当時のレートで3600円、宿泊費と食費を合わせて1日1ドル=360円ほどの予算で旅行していた貧乏旅行者のわたしたちには大金だった。
そんなことがあったので、マニラの印象はあまりよくなかった。
バンコクの日本大使館にいったときに、応対してくれた大使館員にこの話をしたら、「運転手はあなたが日本人だということに気がついていましたか」と訊かれた。
太平洋戦争で激戦地になったフィリピンでは、多くの人々が巻き添えになって亡くなったので、戦後20年を過ぎた現在でも反日感情が激しく、日本人だと分かると危害を加えられることがあるという。
タクシーの運転手がわたしのことを日本人だと気づいていたかどうかはよく分からない。
ただわたしの印象では、運転手はわたしが日本人だからそういう態度に出たのではなく、ただ単に外国人のわたしたちから料金をぼったくろうとしただけではなかったかという気がする。
それに今、思うと最初に運転手の言い値どおり1ペソ半、払うことを承諾したのだから、ちゃんと1ペソ半、払うべきだったのではないかという気もする。
日本を含めて先進国ではタクシー料金はメーターどおりに払うのが常識だが、フィリピンのような国では必ずしもそうではない。
多くの発展途上国では、タクシー料金は交渉で決まり、たとえ相場よりも高い料金を吹っ掛けられたとしても、いったん、その金額を払うことを約束したのであれば、払うべきであると考えられている。
運転手は、わたしたちが外国人であるのをみて、相場の倍くらいの料金を吹っ掛けてきたのだろうが、
彼の論理では、最初にその料金を払うことを承諾して乗ったのにもかかわらず、後からメーターの料金とは違うと文句を言うのはおかしいということになる。
フィリピンのような国では、日本のようにすべてのモノやサービスに定価が存在する国とは違って、価格は交渉によって決まることを、まだ旅慣れていなかったわたしたちはよく理解できていなかったのだ。
フィリピンはこの11年後の1978年に再訪したのだが、その頃はかって反日感情が強かったというのが信じられないほど親日的な国になっていて、
どこに行っても、日本人であることが分かると歓迎されこそすれ、冷たくされることはまったくなかった。
最初の訪問では良い印象を持てなかったが、二度目の訪問では、陽気で明るく親切なフィリピン人と出会って、フィリピンという国が大好きになった。
マニラを出た船は、次の寄港地であるバンコクに向かって航海を続け、ベトナムの沖合を通過した。
当時はベトナム戦争の真っ最中で、アメリカは北爆を開始してますます戦争にのめり込み、アメリカ国内ではそれに抗議する反戦運動が盛り上がりをみせていた。
日本ではベ平連が戦争反対を叫んでいたが、大半の日本人はわたしも含めて対岸の火事視していたと思う。
ベトナム沖を通過したのは夜間で、陸地の方向には何も見えなかったが、照明弾でも打ち上げているのか、時々、夜空に閃光が走るのが見えた。
続く

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