☆ バンコク到着
神戸を出て2週間後に目的地のバンコクに到着した。
船はシャム湾からメナム河に入ってゆっくりと上流のバンコクの港に向かって進んでいった。
メナム河の水は真っ茶色で、両岸にはびっしりとマングローブが生い茂り、ところどころに日本の石灯籠によく似た小さな石造りの祠が姿を覗かせていた。
香港もマニラも外国に来たという実感はなかったが、このいかにも南国的な光景を見て、はじめて異国の地にやってきたという感慨が湧いてきた。
悠々と流れるメナム河を船でゆっくりと遡っていくと、自分が映画の主人公にでもなったような高揚した気分になった。
タイにはこの後、何十回も通うことになるのだが、常に飛行機で、船で入国したのはこのときが最初で最後だった。
飛行機による入国では絶対に味わえないこのような体験をもてたのは幸運だったと思っている。
船がバンコクのクロントイ港に到着すると、タイ人の税関吏が多数、乗り込んできて、バンコクで下船する乗客の荷物検査を船上で始めた。
わたしの荷物はリュックサックひとつだったが、外国人の乗客は三等船客でも多くのトランクや旅行鞄を持ち込んでいて、税関吏はいちいちそれらを開けて検査していたので、検査がぜんぶ終了するまでかなりの時間がかかった。
荷物検査のあと、バンコクが目的地だった乗客は下船してトゥクトゥクに乗ってそれぞれの宿泊所に向かった。
当時、カオサンの安宿街はまだ存在せず、欧米人の三等船客は、中華街のヤワラーにあるタイソングリートという安宿に泊まる人間が多かった。
タイソングリートは漢字で書くと「大旅社」で、いわゆる支那宿である。
一方、日本人の乗客の多くは、わたしとカルロッテを含めて、チュラロンコン大学のキャンパス内にあるユースホステルに向かった。
ユースホステルの宿泊費は日本円で一泊100円ほど、食事は大学の学生食堂で一食50円から80円で食べることができた。
ユースホステルは大学のキャンパス内にあったので周囲はとても静かだった。
キャンパスを一歩出ると、そこはタイの庶民が暮らす住宅地で、路地裏に入るとタイの子供たちに囲まれて日本人だとわかると「スキヤキ・ソング」を歌ってくれとねだられた。
当時、坂本九の「上を向いて歩こう」が世界的にヒットしていたのだ。
バンコクの庶民が暮らす路地裏は、まだのんびりした素朴な雰囲気が残っていたが、いったん表通りに出ると、
小型の三輪タクシーのトゥクトゥクが、黒い排気ガスをモクモクと吐き出しながら走りまわる活気のある都会だった。
タイといえば、セックス・ツーリズムのイメージが強いが、この頃、すでにパッポン・ストリートは、休暇でタイにやってきたベトナム従軍のアメリカ兵相手の歓楽街として賑わっていた。
アメリカ兵だけでなく、一般のツーリストを相手にしたセックス・ツーリズムも盛んになっていて、
サイアムスクエアの隣のリージェントホテルの前を歩いていたら、まだ昼間なのにホテルから出てきた白人の男性ツーリストにタイ人の売春婦が駆け寄って話しかけるのを目撃したことがある。
ユースホステルに泊まっていた同じバンコク下船組の20代半ばの仲の良い三人組の日本人は、せっかくバンコクに来たのだから、と女を買いにいったが、
ぎりぎりの予算で旅していたわたしには、そんなことに気前よく金を使える彼らが自分とは別世界の大人に見えた。
わたしはまだ19歳で、そのようなことを考える余裕もなかったのだが、そんなわたしはバンコクで20歳の誕生日を迎えた。
「ぼくは二十歳だった。それがひとの一生で一番美しい年齢だなどと誰にも言わせない」
これはフランスの哲学者、ポール・ニザンの著書『アデン・アラビア』に出てくる有名な言葉だが、二十歳というのはわたしにとっても格別、美しい年齢ではなかった。
しかしこの二十歳の誕生日は、単に成人になったというだけでなく、その節目となる誕生日を外国で迎えたということで特別、記憶に残っている。
そしてこの誕生日をタイで迎えたことは、わたしにとって特別な意味をもつような気がする。
タイとの間に浅からぬ因縁を感じるのだ。
わたしはこれまで30回以上、タイに行っているが、特にタイ人が好きというわけでもないのに、これだけの回数、タイに行っているのは、タイとの間になんらかの縁があるとしか思えないのである。
誕生日には、ユースホステルに泊まっていた日本人と一緒に日本人クラブに行ってスキヤキを食べた。
この日はチュラロンコン大王として知られるラマ5世が崩御された記念日で、タイでは祝日になっていて、チャオプラヤ河で華麗な装飾を施した豪華な王室御座船のパレードがあると聞いて見物に行った。
バンコクでは日本大使館にも行った。
在外の日本公館は、わたしのような貧乏旅行者には冷たいので、特別な用事があるとき以外は行くのを避けていたのだが、
東京で知り合いだった女性の友人がバンコクの日本大使館勤務で、わたしがバンコクに行くというと、その友人に連絡しておくから是非、会いに行くようにといわれていたのだ。
大使館に行くと、彼女の友人の大使館員は、彼女からすでに連絡を受けていて愛想よく迎えてくれた。
フィリピンでタクシーの運転手とトラブルを起こした話をしたとき、フィリピンは反日感情が強いからそのせいではないかといったのがこの大使館員だった。
彼はまた「旅行中は水に注意するように」と忠告してくれたが、「身体を鍛えるために、毎日、ルンピニ公園の水道の蛇口から出る茶色の水を飲んでます」といったら、笑っていた。
実際、ルンピニ公園の茶色の水道水をいくら飲んでも腹を壊さなかったのだから、若さというのは大したものである。
続く