☆ 船の生活
船は横浜を出て再び西に向かい、玄界灘を通過した。
玄界灘は波が高く、海は荒れ、多くの乗客が船酔いに罹った。
わたしも船酔いになって、一日、何も食べられず、ベッドで寝ていたが、カルロッテは船酔いにならない体質なのか、まったく平気でケロッとしていた。
玄界灘を過ぎた頃に船でダンスパーティーがあった。
そのダンスパーティーにウィーンに音楽の勉強をしに行くといっていた日本人の若い女性が着物姿で現れて、肩にモールを付けた正装のフランス人の船員にモテていた話はしたが、
もうひとりやたらとダンスの巧い20代半ばの日本人女性がいた。
彼女は、欧米人の男性から次から次へとダンスを申し込まれ、彼ら相手にダンスフロアの真ん中で、派手にくるくる回って踊っていたので、ひどく目立った。
ダンスパーティーのあとは、一緒に踊っていた男性の一人とどこかに消えたそうで、同じ船室の女性は、「あの人、昨夜は帰って来なかったのよ」といっていた。
この女性は、船に乗っている間、いろんな欧米人の男性ととっかえひっかえ付き合っていて、船室に戻って来ない夜が多かったので、日本人乗客の間で噂になっていた。
それにしても、彼女は夜をどこで過ごしていたのだろう。
二等も三等も船室は個室ではないので、相手の男性と一緒に過ごすのはむつかしかった筈である。
ダンスパーティーで仲良くなった欧米人のカップルは、大部屋の船室を避けて甲板に出て一緒に毛布にくるまって朝まで過ごしていたが、彼女が甲板で寝ていたという話は聞かなかった。
彼女の相手にはフランス人の船員もいたので、もしかしたらなんらかの便宜を図ってもらっていたのかもしれない。
このダンス好きの女性は、わたしと同じバンコク下船組で、バンコクではYWCAに滞在していたが、バンコクに到着するや否や、現地で無聊をかこっていた単身赴任の日本人駐在員たちと仲良くなり、毎晩、彼らと遊び歩いていた。
彼女もまた何しにバンコクに来たのかよく分からない乗客の一人だった。
船には日本人だけでなく欧米人の乗客も多く乗っていた。
海外に行ったら外国人と積極的に交際して国際交流に励むべきであると考えていたわたしは、彼らに積極的に話しかけていたのだが、
あるときラウンジのソファに一人で座っていた若い眼鏡をかけたアメリカ人女性に、
「失礼ですが、少しお話しできませんか?」
と話しかけたら、
「申し訳ないけど、わたしはあなたとしゃべる気はないわ」
とぴしゃっと断られてしまった。
その後、彼女を観察していると白人の乗客としか付き合わず、非白人の乗客とは一切、話しをしないことがわかった。
セイロン人と国際結婚していてコロンボに戻る途中だった日本女性は、「彼女はとてもプラウドよ」といっていたが、生まれてはじめて人種差別みたいなものを感じた瞬間だった。
もっとも、彼女のような白人は例外で、ほかの白人の乗客はみんな話しかけると、ちゃんと相手をしてくれた。
南アフリカの白人女性の二人組もいたが、わたしが下手くそな英語でアパルトヘイトに関する議論を吹っ掛けると、困ったような顔をしながらも相手になってくれた。
彼女たちは、「白人と黒人は別々に暮らすほうがいいのよ」といっていたが、「世界中、どこに行っても南アフリカ出身だと分かるとアパルトヘイトのことを訊かれるのでウンザリするわ」とこぼしていた。
船にはカルロッテ以外にもう一人、30歳くらいのスウェーデン女性が乗っていた。
彼女もカルロッテと同様、何年間か日本に住んでいたそうだが、カルロッテと違って日本語も巧く、日本文化にたいする造詣も深いようで、
船に乗っていた日本人の大学生に「あなたはわびとさびの違いを説明できますか」などと日本語で訊いていた。
訊かれた大学生は、神戸を出港するときにお袋さんが別れを惜しんでさめざめと泣いていたあの大学生で、彼が質問に答えられないでいると、
「あなたはわびとさびの違いも説明できないのに外国に行くのですか」とキツイことをいっていた。
わたしもわびとさびの違いを言葉で説明することはできなかったが、わびとかさびというものは感じるものであって、言葉で定義するようなものではないという気がした。
もし外国人にわびやさびについて訊かれたら、下手に説明するよりも黙って桂離宮にでも連れて行った方がよいのではないか。
そういえば、わたしは日本を出発する前にカルロッテと一緒に桂離宮に行ったのだった。
桂離宮を訪問するには、日本人の場合は、事前に予約が必要だが、外国人は優先的に入れるとのことで、
「カルロッテが桂離宮に行きたがっているから、君、一緒に行ってやってくれないか」とKさんにいわれて、彼女を連れて行ったのだ。
もっとも、わたしはわびやさびを感じるにはまだ幼すぎたのか、そのときカルロッテと一緒に見学した筈の桂離宮については殆ど記憶にない。