☆ 船の仲間たち
ラオス号の三等には、わたしと同じような若い乗客が沢山、乗っていた。
日本で海外旅行が解禁になったのは、その三年前、東京オリンピックが開かれた1964年のことだった。
それまでは外交官とか商社員、国費留学生のような選ばれた人間しか海外に行けなかったのが、海外に行きたい人間は誰でも行けるようになったのだ。
その結果、それまで溜まっていた海外に行きたいのに行けないという、若者たちのフラストレーションが一挙に開放され、多くの若者が海外に飛び出したのだ。
データをみると、1964年の海外渡航者数は前年比27.7パーセント増の12万7749人、1965年は前年比24.3パーセント増の15万8827人、
1966年は前年比33.7パーセント増の21万2409人、1967年は前年比26.0パーセント増の26万7538人と急激に増えていることがわかる。
もっとも直近の2016年の1711万人に較べるとまだまだ少ないが。
船で一緒になった若い仲間は、海外に行く理由を様々に語った。北海道から来た青年は、デンマークに酪農の勉強に行くといっていた。
船で開かれたダンスパーティーで着物姿を披露して、モールの付いた正装のフランス人船員にモテまくっていた若い女性はウィーンに音楽の勉強をしに行くといっていた。
わたしと同じ、京都からやってきた建築家の青年はヨーロッパの建築を見て回って建築の勉強をするといっていた。
しかし、彼らを待っていた現実は違っていた。
デンマークに酪農を学びに行くといっていた北海道出身の青年とコペンハーゲンで再会したとき、彼は酪農とは関係ない、ビール工場で働いていた。
ウィーンに音楽の勉強に行くといっていた女の子は、ウィーンで住み込みのメイドをしていると風の便りに聞いた。
建築家の青年はなぜかパリの日本料理店でコックをしていた。
三等の若い日本人乗客は、わたしのようにバンコクで下船するグループと、建築家の青年のようにマルセイユまでずっと船で行くグループに分かれていたのだが、
わたしを含めたバンコク下船組は、バンコクからカルカッタに飛行機で飛んで、その後、陸路、ヨーロッパを目指し、北欧で仕事を見つけて働いて、金が溜まったら、次の目的地に向けて旅立っていった。
一方、マルセイユ下船組は、一年後にわたしがパリに行ったとき、その建築家の青年も含めて、全員、パリの同じホテルに住んでいて、全員、日本料理店で働いていた。
朝から晩まで日本人と顔を合わせているせいか、彼らのフランス語は上達していなかった。
なんのために外国に行ったのかといいたくなったが、酪農の勉強をしたいとか、音楽の勉強をしたいとか、建築の勉強をしたいとかいうのは単なる口実でしかなく、
本当の目的は、純粋に外国に行くことにあったのではないかと思う。
わたし自身、北欧で稼いだあとはパリに行ってシネマテークで映画の勉強をしたいと思っていたが、それで将来、映画の道に進めるなどとはもちろん思っていなかった。
当時、映画産業はテレビとの競争に負けて斜陽の一途を辿っていたし、運よく映画関係の仕事に就けたとしても、それで食っていけるだけの保証はなかった。
結局、わたしもまた単純に外国に行きたい、日本を脱出したいという想いに駆られて日本を飛び出した口だった。
現実逃避で日本を飛び出しても、待っている現実はそんなに甘くはない。
金もコネもない庶民の若者が外国に行っても大したことができる筈ないのだが、それでも往きの船ではみんな元気いっぱいだった。
やっと念願の外国行きがかなって気分は高揚していたし、船で仲間たちと将来の夢を語り合うのは楽しかった。
もし若者の特権が将来の夢を語ることにあるのであれば、われわれはその特権を十分に享受していたのだ。
船には変わった乗客もいた。わたしと同じ船底の船室にいた三十代半ばの日本人は、ほかの乗客とは口をきこうとせず、食事以外は二段ベッドに引きこもって毛布にくるまって寝ていた。
一緒の船室にいた日本に留学していたという日本語ぺらぺらの世話好きなセイロン人の男性が彼のことを心配して、
「どうしてデッキに出ないのですか。外の空気を吸わないと身体によくないですよ」
と外に出ることを勧めたが、彼は頑としてベッドを出ようとはしなかった。
彼はバンコクで下船していったが、最後まで、彼がなにをしにタイに行ったのか、誰にもわからなかった。
あと国際結婚組の日本女性も何人かいた。一人は中国人と結婚して香港に住んでいる女性で、もうひとりはセイロン人と結婚していた女性だった。
彼女たちは日本に里帰りしたあとの帰国の途中で、それぞれ香港とコロンボで下船することになっていた。
続く