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昨日の旅(40)

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☆ 再び一人旅

オーストラリア人のネッドは、ドイツ人のマーティンみたいに荷物を持ち逃げされなかったが、それでもイギリス人たちの仕打ちに大きく傷ついていた。

オーストラリアはイギリスと同じエリザベス女王を君主として仰ぐ英連邦の一員なので、オーストラリア人のネッドは当然、イギリス人たちを自分の仲間だと思っていたらしい。

それなのにイギリス人たちは彼を見捨てて行ってしまったのだ。

「彼らと一緒にロンドンに行くつもりだったのに。。。」

とネッドは酷く落ち込んでいた。

恨み言をいうネッドに、

「もしクリスがいたら、こんなことは起こらなかったかもしれない」

というと、ネッドは、

「そうだ、そうだ。クリスがいたらこんなことは起こらなかったに違いない」

と賛成した。

ユーゴ人のクリスは、わたしたちグループの実質的なリーダーだった。

彼がいる間は、仲間内でいさかいが起こりそうなときはいつも彼が抑えていた。

ところが彼がいなくなった途端、イギリス人三人組とドイツ人マーティンの争いが起こってしまったのだ。

当初はジョンとジョージ、クライブのイギリス人3人組とクリス、ステファン、マーティンのオーストラリア出稼ぎ3人組は、数の上でも拮抗していた。

しかしベオグラード郊外でクリスが抜け、ザルツブルグでステファンが一行から離れると、オーストラリア出稼ぎ組はマーティンひとりになった。

イギリス人がマーティンの荷物を持ち逃げした直接のきっかけは、マーティンがブロンド美人のウェイトレスを独り占めにしたことにあったのだろうが、

わたしが知らないところで、それ以前からイギリス人とマーティンの間で確執が始まっていたのではないかと思う。

それがマーティンが美人ウェイトレスと寝たことがきっかけで、一気に表面化したのではないか。

もしクリスが一緒にミュンヘンまで来ていたら、イギリス人たちもあんな暴挙に出ることもなかっただろう。

イギリス人に捨てられたネッドはこれからどうしてよいかわからないみたいで、愚痴をこぼしてばかりいた。

わたしは当初の予定どおりにこのままヒッチハイクでスウェーデンのストックホルムまで行ってカルロッテと再会して仕事を探すことに決めた。

テヘランからミュンヘンまでみんなと一緒に旅することで、自分で交通機関やホテルを探す手間が省け、移動は楽だったが、自分で旅程を決めることができず、ほかの仲間が立てたスケジュールに従わざるを得なかった。

たとえば、イスタンブールはとても魅力的な町で、もっと長居をしたかったが、クリスマスまでに帰国することを望む仲間たちのお陰で、数日しか滞在できなかった。

そんなこともあってまた自由なひとり旅に戻りたいと考えていたのだ。

ネッドは可哀そうだったが、彼の泣き言を聞かされるのにウンザリしていたのも事実だった。

彼はわたしよりもずっと年上なんだから、わたしに頼らずに自分のことは自分で決めるべきだと思っていた。

当時はわたしのようなバックパッカーがヨーロッパを旅行するときは、ヒッチハイクで旅行すると決まっていた。

ただわたしはそれまでヒッチハイクを一度もやったことがなくて、やり方がわからなかった。

同じユースホステルに泊まっている20代半ばの日本人がいて、彼は翌日、フランクフルトに向けてヒッチするので、一緒に高速道路の入り口まで行こうと誘ってくれた。

その日本人は、ヨーロッパに来る前にアフリカのスーダンを旅行したという。

スーダンは人間が親切で、とても良いところだといっていた。

当時はスーダンを旅行する日本人はめずらしく、スーダン駐在の日本大使が興味をもって「話を聞かせてほしい」と公邸に食事に招待してくれたそうだ。

同じ在外公館でもヨーロッパではビンボー旅行の若者は鼻もひっかけられないが、アフリカまで行くと事情が変わるらしい。

翌朝、ネッドに別れの挨拶をして、その日本人と一緒にヒッチハイクを始めるために高速道路の入り口に向かった。

ヒッチハイクするときには、ハイカーは先着順に並ぶという暗黙のルールがある。

一番最初に着いたハイカーが高速道路の入口を入ったところに立つ。

そうすると走ってくる車のドライバーの目にそのハイカーの姿が真っ先に入ることになるからだ。

後から着いたハイカーは、順番に前に立っているハイカーから10メートルくらいの間隔を空けてその後方に並ぶことになる。

わたしたちが高速道路の入り口に着いたとき、わたしたち以外にヒッチハイクをしている人間はいなかった。

一緒にいた日本人は、新米のハイカーであるわたしのために順番を譲ってくれて、わたしが彼よりも前に立つようにしてくれた。

ヒッチハイクするときは、走ってくる車のドライバーに向かって親指を立てながら右手を上げるのだが、

実際にやってみると、手を上げて一分もしないうちに車が停まった。タクシーを捕まえるよりも簡単だった。

20メートルほど先に停まった乗用車の窓からビジネスマンらしい中年の男性が顔を出して、私の方をみてニコニコ笑いながら手招きしていた。

わたしは一緒にいた日本人に礼をいうと、地面に置いていたリュックを担ぎ上げて車に向かって走っていった。

おわり


昨日の旅 IV

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● 昨日の旅(31):イラン入国
● 昨日の旅(32):進むべきか、引き返すべきか
● 昨日の旅(33):エルズルムのハマム体験
● 昨日の旅(34):アナトリア高原の雪合戦
● 昨日の旅(35):イスタンブールへの道
● 昨日の旅(36):イスタンブール
● 昨日の旅(37):ギリシャへ
● 昨日の旅(38):クリスとの別れ
● 昨日の旅(39):ミュンヘン
● 昨日の旅(40):再び一人旅

昨日の旅

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● 昨日の旅 I:日本→香港→フィリピン


● 昨日の旅 II:タイ→ビルマ→インド→ネパール


● 昨日の旅 III:インド→パキスタン→アフガニスタン

● 昨日の旅 IV:イラン→トルコ→ギリシャ→ドイツ

東アフリカ周遊(1)

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☆ 出発
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先日、東アフリカのナイロビ、モンバサ、ザンジバルを回ってきました。

一昨年の夏、一週間ほどの日程でタイに遊びにいったとき、滞在の後半に体調を崩し、なんとか自力で飛行機に乗って日本に戻ってきたものの、
帰国後、病院に行って診てもらったら、いろいろ悪いところが見つかり、年齢的にいってもう海外一人旅は無理なんじゃないか、
元々、純粋に個人的な趣味で旅行しているわけで、旅先で倒れて人様の迷惑になるような事態は避けたい、もう海外旅行はやめようと決心したのでした。


そして趣味を海外旅行からもっと年寄りらしい「お寺めぐり」に切り替えて、京都や奈良のお寺めぐりを始めたのですが、これがもうひとつ面白くないんですよね。
お寺の境内の雰囲気は決して嫌いではないし、仏像を拝むのも好きなんだけど、なんというか海外旅行のようなワクワク感がないのです。
それでやっぱり自分の趣味は海外旅行しかないのかと思ったのですが、幸い、ここのところ体調もまあまあなので、股、イッパツ、海外に行ったろか!という気分になったわけです。
ただ海外旅行といっても、ソウルや上海、台北や香港みたいな近場はまったく興味ないし、東南アジアは行き尽くした感があるし、まだ行っていないところで、行きたいところが残ってるのは、中東・アフリカくらい。
それで前から行きたいと思ってたけど、今まで行く機会がなかったザンジバルに行くことに決めました。

ザンジバルは、タンザニアの一部、インド洋沿岸に近い島で、かってはアラビア半島のオマーンの支配下にありました。
オマーンは、現在は小国に成り下がっていますが、18世紀から19世紀にかけてはザンジバル島と現在のソマリアからモザンビークまでの東アフリカのインド洋沿岸地帯を支配する一大海洋国家で、

ザンジバルは、東アフリカとアラビア半島とインドを結ぶインド洋の海上交易の中心地として繁栄し、主要な交易品は、奴隷、香辛料、象牙などで、一時はオマーンの首都がこのザンジバルに移転されています。
東アフリカのインド洋沿岸とザンジバル島を交易のために訪れたアラブ商人と現地の黒人が混血して生まれたのが東アフリカのインド洋沿岸に住むスワヒリ族で、彼らが話すアラビア語と現地の黒人言語がミックスした言葉がスワヒリ語です。
スワヒリ語はアラブの奴隷商人たちが奴隷や象牙を求めてアフリカ大陸の内陸部へ進出するにしたがってこれらの地域にも広がり、現在はケニア、タンザニア、ウガンダ、コンゴ民主共和国東北部などで話される主要言語になっています。

ザンジバルにはアラブ人が作った砦やオマーンのスルタンが住んでいた宮殿、有力な奴隷商人たちの館やイギリス人探検家によるナイル源流発見の探検の基地となった旧英国領事館などの建物が残っていて、

中心の町、ストーンタウンは迷路のような狭い路地が入り組む、アラブ的であると同時にアフリカ的でもある非常にエキゾチックで魅力的な町になっています。

今回のわたしの旅行の一番の目的は、このアラブ文化とアフリカ文化の融合したスワヒリ文化の中心地であるザンジバルを訪れることにあったのですが、

ザンジバルには昔、若いときに仕事で短期間、滞在したナイロビを経由して行くことになっていたので、ナイロビの変貌ぶりを見てみたいという気持ちもありました。

また帰路はザンジバルからケニアのインド洋沿岸の港町であるモンバサに飛んで、最近、中国企業によって建設されたナイロビ・モンバサ間の新しい列車、マダラカ・エクスプレスにも乗りたいと思っていました。

これまで海外旅行に行くときは、自宅マンションから地下鉄・南海電車を乗り継い関空まで行くのが普通で、今回初めてリムジンバスを使ったのですが、バスは高速道路をすいすい走りなんと45分で空港ターミナルに着いてしまいました。

なんでもっと早くリムジンバスを使うことにしなかったのだろう?と自分でも不思議でした。リムジンバスの乗り場が遠いわけではなく、自宅から徒歩5分のところにあるのです。

東京に住んでいた頃は、自宅から成田までドア・ツー・ドアで2時間もかかっていたので、大阪に引っ越してから自宅から関空まで地下鉄と南海電車を乗り継いで1時間15分で行けることに感激し、

それより更に速く行ける方法があることに気づかなかったのです。

というような訳で空港には早く着きすぎてしまったのですが、それでも、今回、ナイロビまで乗ることになっているエミレーツ航空のチェックインカウンタ―に行ってみるとすでに長蛇の列ができています。

並んでいたのはジジババとハイミスっぽい中年女のグループが大半を占めるパックツアーの客で、こういう連中がシーズンを外して旅行するんだなと思いました。

全員、どデカイスーツケースを持っていて、アフリカ縦断旅行でもするのかと思ったくらいです。

エミレーツ航空については、わりと評判が良いので期待していたのですが(ファーストクラスに乗るとシャワーが浴びられるそうです)、実際に乗ってみるとごくフツーのエアラインでした。

客室乗務員が横柄かつ無礼な態度を取ることで知られる米系エアラインや下品で騒々しい中国人乗客が多い中国系エアラインよりはもちろんマシですが、タイ航空とかマレーシア航空のレベルです。

湾岸系のエアラインでは、以前、シリアに行ったときに利用したカタール航空が全体的にレベルが高かったです。

エミレーツ航空は、ドバイに本拠を置くエアラインで、エミレーツを利用して中東やアフリカに行く場合、ドバイ国際空港で乗り継ぐことになるのですが、実はわたし、この空港があまり好きじゃないんですね。

ドバイ国際空港は、世界有数のハブ空港だそうで、とにかく広い。ターミナルビルの中を電気自動車が走っているくらいです。

今回は、エミレーツからエミレーツへの乗り継ぎだったので入国手続きをする必要はなかったのですが、異なるエアラインへの乗り継ぎの場合は入国手続きをする必要があって、

その場合は「歩く歩道」を延々と歩かされてイミグレのブースまで行かなければならず、イミグレの前には常に長蛇の列ができています。

これはひとえに仕事をちんたらするイミグレ係官のお陰で、こいつらのせいでいつも長時間、待たされるのです。

ドバイは観光宣伝に力を入れているようだけど、まずこの仕事しないイミグレ係官をクビにして、もっとマトモな人間に代えろ!といいたいですね。

今回はイミグレを通過する必要はなかったけれど、それでも乗り継ぎのフライトの登場ゲートにたどりつくためにエレベータに二回乗って、シャトルカーにも一回乗って、更に歩く歩道を延々と歩かされました。

この空港、広いだけでなく、非常に使い辛い。

日本の空港だったら、真ん中に通路が通っていて、両側に飲食店や免税店が整然と並んでいるんだけど、ドバイの空港ビルではスペースの真ん中に飲食店や免税店が設置されていて乗客はその間を縫って歩かなければならない。

トイレの表示なんかもいい加減で探すのに苦労する。免税店のショーケースの後ろの目立たないところにトイレの入り口があったりするのです。

ようするに建物自体は近代的でも、基本コンセプトは中東のスーク(市場)で、アラブ人はこういう迷路のようなところを歩くのが好きなのでしょう。

こんな使い勝手の悪いドバイ空港で乗り継ぎしなければならないエミレーツ空港をわざわざ選んだのは、関空⇔ナイロビの直行便が存在せず、乗り継ぎ便の中では、このエミレーツ航空のフライトが一番、時間的に短かったからです。

それでも関空⇒ドバイの飛行時間が10時間、ドバイ乗り継ぎの待ち時間が5時間、ドバイ⇒ナイロビの飛行時間が5時間、合計20時間もかかったのですが。ほかのフライトはもっと長い。

たとえば、香港エクスプレス + エティハド航空の組み合わせだと30時間、中国南方航空 + ケニア航空の組み合わせだと27時間もかかるのです。

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ナイロビ行きのフライトの搭乗ゲートにようやくたどり着くと乗客の大半は黒人で、急にアフリカに近づいた気がしました。

黒人以外に白人や東洋人の乗客もいたけど、東洋人の殆どは中国人、日本人はわたしを含めて数名です。

飛行機に乗り込むと黒人の体臭が充満していてもうアフリカです。

5時間の飛行後、ナイロビのジョモ・ケニヤッタ空港に到着。

なんとナイロビは46年ぶり!

飛行機のタラップを降りて、アフリカの灼熱の太陽を肌に感じると、

「ああ、帰ってきた!」

と感動がこみあげてきて、かってのアフリカの日々が一挙に蘇ってきましたが、感傷に浸ったのもつかの間、すぐにアフリカの現実に直面することになったのでした。

続く

東アフリカ周遊(2)

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☆ ナイロビ到着
ボロい空港ビルに入って、まず最初にアライバルビザの申請をしました。
申請用紙が置いてある台で用紙に必要事項を記入したものの、その用紙をどこに提出すればよいかわからない。
やれ向こうに持って行け、いや、あっちだ、と散々、たらいまわしされてやっとE VISAと表示されているブースに並んで50ドル払ってビザのスタンプをパスポートに押してもらいました。
パスポートコントロールを終えて両替し、税関を通って到着ラウンジに出ると、おねえちゃんの2人組が寄ってきて「タクシー?」と訊きます。
イエスと答えたら、市内まで2000シリングだといいます。
事前に調べておいた相場の価格は1200シリングだったので、そういうと、「ノー、ノー、ツーサウザンド」と譲りません。
そして「20ユーロでもかまわないわ」と訳の分からないことを言い出します。
20ユーロやったら、2000シリングよりもだいぶ高なるやろが!
ひとりのおねえちゃんがもうひとりのおねえちゃんを指さして、
「彼女がタクシードライバーなの。ケニアにはまだ女性ドライバーが少ないから、女性の雇用促進に協力してよ」といいます。
ケニア女性の雇用促進のために2000シリング払えというのか。誰が払うか、そんなもん!

彼女たちを振り切って出口に向かって歩いて行くと今度は中年のおっさんが声をかけてきましたが、言い値はやっぱり2000シリング。
高いというとすぐに1500に下げましたが、1200にしろというと、そんな低い価格でOKするとボスにクビにされるといいます。
知るか、そんなこと!
彼を振り切って歩いていくと、次に現れた中年男は1200シリングでOKだといい、わたしを道路の反対側の駐車場に連れて行き、若い男性ドライバーを紹介しました。
その若い男に目当てのホテルの名前をいって知ってるかと訊くと知っているといいます。
1200シリングでOKかと訊くと無言です。1200で行けないならほかのタクシーを探すといったら、渋々、小さな声でOKと答えました。
かってナイロビの空港からナイロビ市内に行く道路の両側には草原が広がっていて、キリンやシマウマ、ダチョウなどがフツーに見られたのですが、今は道路の両側には工場などの建物が建ち並び、
道路には信号やロータリー、歩道橋などが作られていて、車の渋滞が酷く、排気ガスの臭いも充満していて、キリンやシマウマはとっくの昔に逃げ出したのでしょう、まったく姿を見かけませんでした。
渋滞でしょちゅう車を停めるので、昔はいなかった物売りが寄ってきます。バナナを売っているオバサン、花束を売っている少年、ケニアの地図を大きく引き伸ばしたものや壁に掛けるような大きな鏡を売っている若者もいます。
空港からダウンタウンまで距離にして17キロくらいですが、渋滞のお陰でたっぷり一時間かかりました。
目指すホテルのある下町のリバーロードまで行くと渋滞はますます酷くなり、車がびっしり詰まって身動きとれなくなっている信号のない交差点にウチの運転手が無理やり突っ込んでいくと、

横からきた車のドライバーが大声で抗議し、それに運転手が言い返し、交通整理の女警官まで寄ってきて運転手に注意する始末。

多いのは車だけではありません。人間もうじゃうじゃいて、歩道から車道に溢れて、車の間を縫って歩いてます。

わたしが前回、ナイロビにいたときの70年代初めのナイロビの人口は70万人ほどで、現在は441万人! およそ半世紀の間に6倍に増えた勘定で、アフリカの人口爆発の凄さを目のあたりにする思いです。

リバーロード界隈は、治安が悪い物騒なところなので近づいてはいけないと某地球の歩き方に書いてありましたが、安宿が集中しているのがこの地区なので、宿泊費を安くあげたいと思うならここに行くしかありません。

わたしが目指すホテルはNawas Hotelという安宿で、日本人バックパッカーの若者が集まるというNewKenya Lodgeという安宿の向かいにあります。
NewKenya Lodgeにはドミトリー(大部屋)しかないけど、Nawas Hotelには個室があると聞いて行ったのですが、入り口のところで警備員に止められて荷物のチェックをされました。
さらに1階(日本式の2階)のホテルのフロントまで階段を上って行くと、鉄格子のドアがあって、その奥のやはり窓に鉄格子のはまった受付の女性がロックを解除しないと開かない仕組みになっていました。
ロックを解除してもらってフロアに入り、フロントの女性に泊まりたいというと、別の女性が現れて部屋まで案内してくれましたが、まるで独房のような酷い部屋で、

一泊1300シリングと安いのですが、いくら安くてもこんなところで寝る気にはなれないのでフロントの女性にほかのホテルを探すと断って外に出ました。

ホテルを出ると警備員の制服を着た知らない男が待ち構えていて、「良いホテルに案内する」といってわたしの承諾も得ず、勝手にわたしのキャリーバッグを手にとって歩きだします。

彼に案内されたホテルは、この界隈の安宿の中ではましな感じでしたが、フロントの女性に部屋代を訊くと一泊4000シリングとのこと。

「ちょっと高い」と案内役の警備員にいうと、「じゃあ、別のホテルを案内する」といってまたキャリーバッグをもって歩きだしました。

次に連れて行かれたのは、INKS HOTELという安宿。建物の1階(日本式の2階)にバー、2階にホテルのフロントとレストランがあって、3階と4階が客室フロアになっています。
案内されたのは狭いけれど小奇麗な部屋で、ホットシャワー、セーフティボックス、テレビが付いていて一泊2000シリング。
リーズナブルな価格だったのでここに泊まることにしました。
あとでわかったのですが、この宿はスタッフがとてもフレンドリーで、ザンジバルからナイロビに戻って一泊したときもこのホテルにとまりました。
夕食は下の階のレストランで取りました。この辺の安宿は表にBar & Restaurnt & Accomodationという表示が出ているバーとレストランが同じ建物にあることが多く、夜は危険な町に出ることなしに食事を取ることができるので安心です。

レストランではまずTuskerビールを注文。このビールは昔からありました。

料理はフライドチキンにビリヤニを注文して食べたけど、チキンはブロイラーではなく地鶏というやつらしく、意外と旨かった。

その後、Tuskerを二本空けて部屋に戻って、旅の疲れもあって爆睡したのでした。

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ホテルの窓から下の通りを覗く

続く

東アフリカ周遊(3)

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☆ 懐かしのナイロビは今
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ニュースタンレーホテル
翌日、ナイロビ見物にでかけました。

正確にいうと、昔、よく行った懐かしいナイロビの場所を見物に出かけたのですが。

朝、8時過ぎ、ホテルで朝食を済ませたあと、外に出てみると通りはすでに速足で歩く通勤、通学の人々で溢れていました。

歩いている人間は、みんな都会人の顔つきをしています。昔のナイロビは都会人の顔をしたケニア人は少なかったですが。

ガイドブックによるとこの辺はナイロビでも特に危険な地区だそうです。

実際、通りの両側に並ぶ商店には鉄格子がはまっているところが多いし、ホテルの入り口には必ず警備の人間が立っていて、強盗事件などが多発していることを窺わせますが、現実に通りを歩いてみると、皮膚感覚的にはそれほど危険は感じません。

歩いている人間は全員、黒人ですが、ただ一人の非黒人であるわたしに注目する人間などいないし、それでいて道を尋ねると親切に教えてくれます。


今回、ケニアを再訪してあらためて印象に残ったのは、ケニア人の英語能力の高さ。正確で綺麗な英語を話す人間が多いです。

タクシーの運転手くらいになるとだいぶブロークンになりますが、それでも意志伝達に不自由がない程度には話せます。

まず最初にナイロビの大通りであるケニヤッタ・アベニューを目指したのですが、車の往来の激しい通りで、通りすがりの中年男性に、

「ケニヤッタ・アベニューにはどう行ったらいいですか?」

と尋ねたら、

「ここがケニヤッタ・アベニューだよ」

といわれてびっくりしてしまいました。

ええ~ッ! これがケニヤッタ・アベニューなの?!

昔は、こんなに車は多くなく、車道と歩道の区別がなく、通りの真ん中を歩いていたのに、今は中央分離帯ができていて植樹がなされていて、信号機も設置され、歩道と車道も明確に区別されています。

もしここがケニヤッタ・アベニューなら、この東の端にニュースタンレーホテルがある筈だと思って歩いて行ったら、たしかにありました。

しかし周囲に大きなビルが建っているせいか、昔ほど目立たなくなっていて、外壁もどことなく薄汚れた感じで老朽化が進んでいます。

ニュースタンレーホテルのシンボル的存在だったホテル付属のソーンツリー・レストランはまだ健在でしたが、昔はオープンエアのレストランだったのが、ガラスの天井と壁で仕切られていました。
今では、レストランに入るのにもセキュリティチェックを受けて持ち物を調べられ、以前のように気楽に立ち寄れる雰囲気ではありません。

ソーンツリー・レストランは、昔はナイロビの社交の中心で、人と待ち合わせるときは必ずここで会ったものです。アフリカ初の日本人ストリッパー、マリコさんと待ち合わせたのもここでした。

わたしが前回、ナイロビを訪れたのは1972年のことで、独立からまだ日が浅く、アイザック・ディネーセンが『アフリカの日々』に描いたホワイトアフリカ(白人のアフリカ)の雰囲気が残っていて、ナイロビ在住の白人も多かった。

このソーンツリー・レストランはそういうナイロビ在住の白人と白人観光客でいつも賑わっていましたが、今回、中に入ってみると、ホテルの滞在客らしい白人のカップルが数組と5、6人の黒人の中年男性のグループがいるだけです。

観光がオフシーズンのためだったせいもあって、観光客が少なかったのでしょうが、ナイロビ在住の白人も随分と減っている感じで、このソーンツリー・レストランがナイロビ一の社交場だった時代はとっくに終わっていることは確かでした。

あとレストランがガラス張りの壁で仕切られている理由もはっきりしました。

前の通りのケニヤッタ・アベニューをトラックなどの大型車両を含む自動車がひっきりなしに通っていて、オープンエアのままにしていたら、客は自動車の排気ガスで窒息してしまうでしょう。

このレストランの名前の由来になったソーンツリーはまだ残っていましたが、ガラスの天井に開けた穴に通すためか枝葉が刈り取られた貧相な姿になっていました。

ニュースタンレーを訪れたあと、ケニヤッタ・アベニューの反対側にある前回、わたしが滞在していたニューアベニューホテルの跡地まで歩いて行きました。

ニューアベニューホテルは、かなり以前に取り壊されて今では空き地になっています。

昔は、ニュースタンレーのバーで飲んだあと、ほろ酔い気分でニューアベニューまで歩いて帰ったものですが、今では夜の一人歩きは危険といわれているので無理でしょう。

あるとき、歩いていたら誰かに後を付けられているような気配があって振り向いたら、さっきまでニュースタンレーのバーのカウンターで隣に座って飲んでいたイギリス人のオッサンで、わたしに気があったみたいでしたw

現在は空き地になっているニューアベニューホテルの通りを挟んだ反対側にウフル公園があります。

現在では昼間でも強盗に襲われることがあるそうで、中には入りませんでしたが、前回、ナイロビに滞在していたとき、

ケニアの初代大統領のジョモ・ケニヤッタ(現大統領のお父さん)が公園に集まった聴衆に演説しているのを見たことがあります。

柔らかい語り口のスワヒリ語で、民衆に向かって淳淳と説くように話しかけるその様子は、村人を前に話す村の長老のようで、マウマウ団の首領として白人に恐れられた面影はありませんでした。

ウフルパークについてはもうひとつ今でも忘れられない思い出があります。

ある朝、公園を散歩していたら、新聞売りの少年がわたしを目指してまっしぐらに走ってきて、いきなり手に持った新聞をわたしに突きつけたのです。

わたしの目に飛び込んできたのは「日本赤軍、ロッド空港で銃を乱射、26人死亡」という一面の見出しでした。

新聞売りの少年は、わたしが日本人であることを知っていて、それでわたしをめがけて走ってきたのです。

ニューアベニューホテルの跡地を見学したあと、いったんニュースタンレーホテルまで戻り、もうひとつの思い出のホテルであるナイロビヒルトンに向かいました。

ナイロビヒルトンはその個性的な円筒形のお陰で、当時のナイロビのランドマーク的存在でした。

現在は、ナイロビにもっと大きな円筒形ビルが何棟も建っていて、もはやランドマーク的存在ではなくなっているようですが、ケニア人は円筒形のビルがよほど好きみたいです。

あるとき、このナイロビヒルトンのビルの横を長身の容貌魁偉な初老のマサイが歩いているのを見かけたことがあります。

重いイヤリングを何本も通すために大きく広がった耳たぶの穴、特異な髪形、赤い布を身体に巻いただけの半裸の姿、古タイヤから作ったゴムのサンダル、手に持った槍。

その伝統的な恰好と近代的なビルのコントラストがあまりに強烈で、今ではあれは白昼夢ではなかったかと思うことがあります。

ヒルトンホテルに入ってまず探したのはブックショップ。ところがどこにも見当たりません。ベルボーイに訊くと「ここには本屋などあません」という。

いや、昔はあったんだよ。ブックショップが。。。

わたしの宝物になっているMirella Ricardiの写真集『Vanishing Africa』はこのヒルトンホテルのブックショップで買ったのです。

価格は日本円で2万円ほどで、当時のわたしには大金でしたが、それでも内容があまりに魅力的で買わずにいられなかったのです。

それでも土産物店はあるだろうと思って訊くと、「スーベニール・ショップはある」と連れて行ってくれましたが、

売り場のスペースの半分くらいはコンビニで売ってるようなシャンプーなどの日用品が占めていて、大した土産物は置いてありません。

昔のヒルトンホテルの土産物店にはゾウの足で作った傘立てなど面白い土産物があったのですが。

私が今回のナイロビ訪問で買いたいと思っていたのは木彫りのマサイ像で、その木彫りのマサイは、本物の布でできた小さな腰布を巻いているのですが、その腰布をめくると立派な男根が現れるというもので、

その後、同じビルの一階のホテルの玄関の反対側にあるヒルトン・アーケードというところの土産物店やシティ・マーケット内の土産物店を探しましたが、

最近のケニアはお上品になっているらしく、そのようなマサイ像は見つかりませんでした。
その後、街角のキオスクで現地の新聞を買って、ホテルに戻って読んでたら、なんとモンバサで前日からラマダンに入ったという記事が出ていました。
ラマダンは月の出を観察して決めるそうですが、モンバサで昨日、始まったのであれば、ナイロビでも始まっている筈です。
そういえば、街を歩いていたとき、通りすがりのモスクの前で大勢の信者が集まってお祈りしている光景を見かけましたが、あれは通常の金曜日の礼拝ではなく、ラマダンの礼拝だったのかもしれません。
ナイロビやモンバサなどの大都会は、イスラム教徒以外の人間もたくさん住んでいるし、外国人旅行者も多いので、ラマダンになっても外国人が食事に困ることはないですが、
明日から行くザンジバルは、住民の大半はイスラム教徒で、外国人にも影響があるのではないかとちょっと心配になりましたが、観光地だからまあ大丈夫だろうと思い直しました。
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ニュースタンレーホテル
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ソーンツリー・レストラン
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ソーンツリー
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円筒形ビルがヒルトンホテル
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ニューアベニューホテルの跡地
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ニューアベニューホテルの跡地からウフルパークを望む

続く

東アフリカ周遊(4)

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☆ザンジバルへ

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ナイロビに2泊したあと、今回の旅行の最終目的地であるザンジバルに航空機で向かいました。

利用したのはFly 540というケニアのLCCの便。

LCCといっても料金はそれほど安くはなく、往きの飛行時間2時間のナイロビ・ザンジバル間のチケットが日本円で2万円近く、帰りの飛行時間40分のザンジバル・モンバサ間のチケットが1万5000円近くしました。
出発時間は朝の9時半ということで早起きして空港に向かいましたが、ターミナルを間違えて空港に着いてからまた別のターミナルに移動するためにタクシーに乗る羽目に。

Fly540のカウンタ―でチェックインして搭乗ゲートの待合室へ。しかし出発予定時間の9時半の30分前にFly 540のザンジバル行きの便が2時間遅れるとのアナウンスが。
待合室には15人ほどの乗客がいましたが出発遅延のアナウンスを聴いても平然としていて誰も文句を言いません。
と思ったら、次のジュバ行きの搭乗アナウンスがあったら、彼らの殆どがそれに乗って行ってしまいました。


残ったのは、わたしと若い白人女性の二人だけ。彼女はさすがに心細くなったのか、わたしのところに寄ってきて、
「あなたもザンジバルに行かれるの?」
と訊いてきました。
そうだと答えると、「ザンジバル行きのフライトに関する情報は何かお持ち?」

「いや、2時間遅れるということ以外、何も聞いてないけど」
彼女の英語に訛りがあったので、どこから来たのかと訊くとフランスから来たといいます。
それでフランス語に切り替えて話したら、「あなたはフランス語が上手だ」と褒めてくれました。
「なぜそんなにフランス語が上手なの?」と訊くので、「若い頃、フランスに住んでたから」と答えると、納得した顔になりました。
彼女は、ザンジバルで三日間休暇を過ごしてからダルエルサラームで働くことになっているとか。
しばらくするとFly 540の女性職員2人がやってきて、わたしとフランス人の女の子に飛行機が遅れたお詫びにスナックを提供するといいました。
それでいったん通過したパスポートコントロールのブースにパスポートを預けて外に出たところにあるカフェで、フランス人の女の子はアップルパイにコーヒー、わたしはサモサにミルクティーを注文しました。
軽食を食べ終わって登場ゲートの待合室に戻ってくると、いつの間にか、待合室は迷彩服を着た白人兵士の一団でいっぱいになっています。
肩に着けている国旗のワッペンを見るとイギリスやドイツなどの多国籍部隊のようです。女性兵士もいます。
多分、現在紛争中の隣国ソマリアのモガディシオか、南スーダンのジュバに行くのでしょう。

ザンジバル行きのフライトは、2時間遅れるとのことでしたが、2時間経っても呼び出しがありません。

すると11時半頃にまたFly 540の女性職員がやってきて、飛行機はエルドレッドを出発したけれど、離陸後30分で燃料漏れが見つかり、またエルドレッドに引き返したといいます。

エルドレッドってどこや?と思ったけど、帰国後ネットで調べたらナイロビの北300キロのところにあるマラソン選手を多数輩出していることで知られる町だそうです。

ザンジバル行きの飛行機はそのエルドレッドを出発して、ナイロビ、モンバサを経由してザンジバルに行く飛行ルートになっているそうで、当初の2時間の遅れはエルドレッドを出発するとき機体に故障が見つかったからだといいます。

その故障を2時間で修理し、いったんエルドレッドを飛び立ったものの離陸後30分で燃料漏れが見つかったので、またエルドレッドの空港に引き返し、現在、エルドレッドの空港で修理中だといいます。

予定では、ナイロビには1時半から2時の間に着くとか。

ほかの航空会社のザンジバル行きの便に振り替えてもらえないかと訊くと、2時にケニア航空のザンジバル行きの便があるけれど、2時にはFly 540の飛行機がエルドレッドから着いているだろうからその必要はないといいます。

「で、もし2時に着かなかったら?」

苦笑して、

「そんなことは絶対、ありません」

ホンマかいな?

やがて兵士たちの一行もチャーター便で出発し、わたしとフランス人の女の子がまた二人だけ取り残されました。

そしてタイムリミットの2時になると、女性職員がやってきて、

「飛行機は1時半にエルドレッドを出発したそうです。もうじきナイロビに着く予定で、ナイロビ出発は2時20分になります」

と告げました。

どうやら今日中にザンジバルに到着できそうです。

2時30分を過ぎてやっと搭乗アナウンスがあり、わたしとフランス人の女の子を乗せたバスは駐機しているFly 540の飛行機に向かいました。

飛行機はBombardier CRJというカナダ製の小型ジェット機で、機内に入るとエルドレッドからやって来た乗客が10人くらいいて、CAは自由席だから好きなところに座ってくださいといいます。

座席は通路を挟んで両側に一列ずつ。一列が9席あるので全部で18席。

このフライトを予約したとき、通路側の座席を指定したんだけど、なんのことはない。全席通路側です。

愈々、離陸かと思ったら、飛行機はエンジンを吹かすばかりでいっこうにかかりません。

そのうち、エンジンが不調なのでいったん飛行機から降りてください、というアナウンスがありました。

乗客はみんな呆れて笑っています。

ところが乗客が座席を立って降りかけたところにまたアナウンスがあって「故障が直ったのでまた座席に戻ってください」

その後、飛行機はヨタヨタしながらもなんとか離陸し、途中、失速して墜落するのではないかと心配しましたが、なんとかモンバサ空港に到着。

乗客の3分の2が降り、新たな乗客が5人ほど乗ってきました。

モンバサから乗ってきた乗客は全員、白人でしたが、彼らも5時間以上、待たされたのでしょうか。

モンバサを出発した飛行機は小一時間でザンジバルに到着。上空から見えるザンジバルはけっこう大きな島で(沖縄ほどの大きさだそうです)、マンゴーや椰子の林に囲まれた土地に小さな家がびっしりと建ち並んでいるのが見えます。

ザンジバルの空港に降り立った途端、南の島に特有の何とも言えないのんびりした空気に包まれ、ホッとしました。

この島では絶対に癒されるという確信みたいのが湧いてきて、すぐにここが好きになりました。

ちっぽけな空港ビルで50ドル払ってアライバルビザを取得し、両替してから空港の建物の外に出ると「タクシー、タクシー?」と客引きが寄ってきます。

実はザンジバルのホテルは日本から予約してあって、空港への出迎えを頼んでいたのですが、5時間以上、遅れたから誰も待っていないだろうと思っていました。

ところが、わたしの名前を書いた紙をもって立っているタクシーの運転手がいるではありませんか。

彼の名前はムスターファ、後でわかったのですが、彼はホテルから送られてきた運転手ではなく、

ホテルから送られてきた運転手はいくら待っても飛行機が到着しないのでウンザリして帰ることに決め、そのときわたしの名前を書いた紙をムスターファに譲ったのだそうです。

いずれにせよ、わたしとしては払う金額には変わりがないので、問題はなかったのです。

空港からザンジバルの町の中心のストーンタウンまでの道の両側は、こんもりと葉が生い茂ったマンゴーの木と椰子の木が並んでいて、それがなんとなく南インドを思い出させました。

わたしが予約したのはストーンタウンの北端の港の近くのPrincess Salme Innという一泊4500円ほどのホテル。

ホテル代の高いザンジバルでは下の上か、中の下クラスですが、HPに掲載されているホテルの内装や部屋の調度品がザンジバル風というかスワヒリ風のテイストが溢れるもので、値段のわりに雰囲気があると思って予約したのです。

実際にホテルに着いて見てみると、写真と違ってかなり古ぼけているというか、劣化していましたが、エアコンとホットシャワー、セーフティボックスなどの最低限の設備が付いて、
部屋代に含まれている朝食のブッフェがかなり充実していたので、まあいいかなと思いました。

この程度の値段のホテルでも若いバックパッカーには手が出ないようで、宿泊客が落ち着いた感じの欧米人の中年カップルが多かったのも良かったです。

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Princess Salme Innの入り口

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Princess Salme Innの部屋


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屋上の食堂

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屋上からの眺め

続き

東アフリカ周遊(5)

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☆ ストーンタウン逍遥(1)
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旧英国領事館


わたしがザンジバルに興味をもったのは、白ナイルの源流を発見するためにアフリカを探検
したイギリス人探検家たちの愛と憎しみのドラマを描いた、

オーストラリア人のノンフィクション作家、アラン・ムーアヘッドの『白ナイル』を読んだことがきっかけです。

エチオピアに存在する青ナイルの源流は早くから知られていたものの、白ナイルの源流は19世紀後半になってもまだ発見されていませんでした。

そのため主としてイギリス人から成る探検家が競って白ナイルの源流を発見するための探検に乗り出したのですが、彼らの探検旅行の基地になったのがザンジバルだったのです。

なぜザンジバルだったのかというと、当時、ザンジバルは奴隷貿易の拠点として栄えていたからです。

その頃のアフリカ探検は2年も3年もかかる大旅行で、そのためには膨大な物資とそれを運ぶ何百人もの人夫や護衛を必要としました。

そしてそれらの物資や人員を調達するノウハウを持っていたのは、ザンジバルに住むアラブの奴隷商人しかいなかったのです。

イギリス人の探検家たちは、アラブの奴隷商人の助けを借りて、探検のための物資と人員を調達し、アラブ人の商人が開拓した奴隷や象牙の輸送ルートをたどって内陸部に分け入って行ったのです。

まず最初にイギリス人のバートンとスピークの二人組が1856年にザンジバルを出発します。

彼らは対岸のバガモヨからアラブ商人の交易ルートをたどってタボラを経由してタンガニーカ湖畔のウジジに到達します。

その後、二人はタボラまで引き返すのですが、このとき病気で動けなくなったバートンを置いてスピークは単独で北上します。

そして現在のタンザニアのムアンザに到着し、目の前に広がる巨大な湖(彼はこの湖をイギリス女王の名を取ってビクトリア湖と名付けます)を目にしてこれこそが白ナイルの源流であると直感するのです。

タボラに戻ったスピークはバートンにこの発見について報告しますが、バートンは信じようとはしません。バートンはタンガニーカ湖がナイルの源流だと考えていたからです。

その後、二人は探検を終えてザンジバルに戻るのですが、一足早くイギリスに帰国したスピークが探検の成果についてはバートンがイギリスに帰国するまで公表しないというバートンとの約束を破って、

白ナイルの源流を発見したと発表し、一躍、時代の寵児になっていたのをみて、バートンは憤慨し、スピークの白ナイルの源流発見はただの勘違いでしかないと激しく攻撃するようになります。

その後、1860年から63年にかけてスピークはグラントという相棒を得て再びアフリカを探検し、今度は彼が最初の旅で発見したビクトリア湖の北側まで旅行し、

湖から水が流出している滝を見つけ、これをリッポン滝と名付け、これこそが白ナイルの水源であると主張するようになります。

ただスピークの説がすぐに認められわけではなく、バートンを筆頭に彼の説を否定する人間は多く、

1864年の9月にイギリスのバースで開催された英国科学振興協会の会議にスピークとバートンの二人が出席して直接対決することになります。

しかし、討論会の前日、悲劇が襲います。

会議に出席するためにバースにきていたスピークが猟に出かけ、猟銃の暴発で死亡してしまったのです。

時が時だけにこれはただの事故死ではない、バートンを討論で負かす自信がないスピークが自殺したのではないかという噂が流れ、さらにはバートンがスピークを殺したのではないかという暗殺説まで流れたそうです。

結局、白ナイルの源流の問題の解決は、1875年のアメリカ人のジャーナリスト兼探検家のスタンレーのビクトリア湖探検まで待たなくてはなりませんでした。

スタンレーはビクトリア湖を岸伝いに一周して湖からの水の流出口がスピークが発見したリッポン滝しかないことを確認したのです。

スピークの死から12年経ってやっとスピークの直感が正しかったことが証明されたわけですが、このスピーク説の正しさを証明したスタンレーもアフリカ探検史上で極めて重要な地位を占める人物です。

彼はまず最初はジャーナリストとして長年行方不明だったリビングストン博士をタンガニーカ湖畔のウジジで発見し、単独インタビューを行ったことで一躍、有名になります。

リビングストン博士は、1858年から1864年にかけてザンベジ河を探検するのですが、1965年に英国王立地理学協会から白ナイルの水系を調査する仕事を依頼され、ザンジバルを出発します。

リビングストンはタンガニーカ湖近くのルーアラバ川を白ナイルの水源であると信じ、その水域一帯を探検するのですが、実際にはルーアラバ川はコンゴ河の支流でしかなく、これは彼の完全な勘違いでした。

その後、ザンジバルの英国領事館との連絡が途絶え、リビングストン博士行方不明の情報が世界に流れます。

ニューヨークヘラルド紙の記者だったスタンレーが編集長の命令を受けてリビングストン博士を発見するためにアフリカに赴いたのは1871年。

スタンレーは、タンガニーカ湖畔のウジジという村でリビングストン博士と出会います。

それまで何年もの間、ザンジバルのイギリス領事館からの補給が途絶えていたにも関わらず、リビングストンがウジジで生きながらえることができたのは、アラブの奴隷商人たちが彼を助けたからです。

当時、ウジジにはアラブ商人たちの中継キャンプが置かれていて、アフリカ奥地で捕獲された奴隷や象牙はいったんウジジの中継キャンプに集められ、そこから隊列を組んでバガモヨ経由でザンジバルに送られたのです。

リビングストン博士は熱心な奴隷廃止論者として知られていましたが、その彼が奴隷商人の支援を受けていたわけで、奴隷商人の助けなしにはアフリカの奥地で何年も過ごすことは不可能であったろうことは博士自身、認めています。

スタンレーはリビングストンにザンジバルに戻るように説得しますが、博士はその要請を断り、なおも探検を続け、1873年にルーアラバ川の近くで病死します。

彼の遺体はアフリカ人の従者たちによって腹を裂いて内臓が取り出され、天日に二週間ほど干したあと更紗で包まれ、全体を帆布でくるまれて遥々ザンジバルまで運ばれました。

遺体は、ザンジバルの英国領事館に一時的に安置されたあとイギリスまで運ばれ、ロンドンのウェストミンスター寺院内の墓に埋葬されました。

『白ナイル』の愛読者であるわたしとしては、ストーンタウンで真っ先に訪れたかったのは、旧英国領事館の建物でした。

バートンやスピークたち探検家は、探検の準備中はこの領事館の建物に滞在し、リビングストン博士の遺体が安置されたのもここだったからです。

旧英国領事館の建物はすぐに見つかりましたが、建物は老朽化していて、立ち入り禁止になっていました。

玄関のドアが半分、開いていたので、そっと中に入ってみましたが、門衛にすぐに見つかって出ていくようにいわれました。

一瞥したところ、建物の内部は、荒れ放題になっていて、せっかくの歴史的建造物なんだから、内部を綺麗にしてイギリス人の探検家に関する資料を展示すればよいのにと思ったのですが、ザンジバル政府にはそんな気はないようでした。

話は違いますが、この旧英国領事館の建物からそう遠くないところに、フレディーマーキュリー・ハウスという建物があります。

エイズで死亡したイギリスのロックグループ、クイーンのボーカルのフレディー・マーキュリーは、パーシーと呼ばれるイラン系インド人ですが、幼少の頃、ザンジバルで過ごしたそうで、それで彼の記念館があるのです。

個人的にはフレディー・マーキュリーよりもイギリス人探検家の方が歴史的に重要なのだから、彼らを記念する展示館を作ってほしいと思いますが、

ザンジバルの人間から見たら、イギリス人探検家たちはイギリスによるザンジバル植民地化の先兵となった連中だから、それほど好感を持てないのかもしれません。

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旧英国領事館

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旧領事館の建物の壁にはめ込まれている銘板には「この建物は1841年から1874年まで英国領事館だった。スピークやバートン、グラントはここに滞在し、リビングストン博士の遺はロンドンに送られる前にここに一時的に安置された」と記されている。

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旧英国領事館の建物の傍のボート乗り場

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続く


東アフリカ周遊(6)

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☆ ストーンタウン逍遥(2)

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からゆきさんの家

旧英国領事館を見物したあと、わたしが向かったのは、からゆきさんの家(Japanese Old Bar)でした。

かってザンジバルには、日本人の娼婦が働く娼館(Japanese Bar)が存在しました。

明治から大正にかけて「からゆきさん」と呼ばれる多くの日本女性が当時、南洋と呼ばれていた東南アジアまで行って、シンガポールなどの娼館で娼婦として働いていたのですが、
その中には、シンガポールからさらに遠方のアフリカにまで遠征して売春婦として働いた女性もいたのです。


白石顕二著、「ザンジバルの娘子軍」によると、彼女たちはケニアのモンバサ、ザンジバル島、モザンビークのベイラ、マダガスカル、モーリシャス、南アフリカのケープタウン、ヨハネスブルグ、

さらには内陸部のローデシア(現ジンバウェ)のソールスベリー(現ハラレ)などに足跡を残しているそうです。

アフリカで一番、からゆきさんが多くいたのはザンジバル島で、日清戦争が終わってまもない明治28年(1895年)には28人の日本女性が娼婦として働いていたといわれています。

当時のザンジバルは、奴隷貿易はとっくに終わっていたものの、主要産物である香辛料のクローブの輸出で景気が良く、

ザンジバルの港には世界各地から船舶が寄港し、多くの船乗りが上陸していたことから、彼ら相手に商売をすると金になったので、多くの日本人娼婦がザンジバルに集まったのだそうです。

中にはインドのボンベイの横浜正金銀行(東京銀行の前身)の支店経由で、故郷に一万円(現在の価格で一億円相当)送金した女性もいたといいます。

しかし、ストーンタウンでからゆきさんの家を見つけるのには苦労しました。

戦前の日本人娼館のことなど現地の人間が知る筈もなくOld Japanese Barといっても連れていかれるのは、ストーンタウンにある『政』という日本料理店ばかり。

それでもあちこち歩いているうちに見つけました!

ガイドブックに掲載されている写真の建物と同じなので、間違いないでしょう。

現在は、一般の住居になっているようですが、ここで過去、多くの日本女性が娼婦として働いたのかと思うと感慨深いものがありました。

上記の『ザンジバルの娘子軍』の作者は、からゆきさんを自分の意志に反して娼婦として売られていったカワイソーな女性として書いていますが、わたしはそうは思いません。
戦時中の慰安婦と同様、当時は貧しい女性が娼婦になって家族を助けるのはよくあったことで、それをことさら悲劇として語る傾向が出てきたのはずっと後世のことだという気がします。
天草、島原の女たちは付近に大工場がなく、仕事に困っていたので、親たちが進んで、海外出稼ぎに出した。本人達も、外国に出て稼げば、美しい衣物も着られる。金の指輪は嵌められる。そのうえ、一家に送金して、親兄弟はいうに及ばず、親戚の誰彼までが、彼女一人のお蔭をこうむって、遊んでくらす。代わりに頭があがらず、むしろ、近隣のほめものになるので彼女たちは、争って国を出る傾向さえあった」(金子光晴「マレー蘭印紀行」より) 
上記の本に描かれている「おまきさん」というからゆきさんも、10代半ばで自分の意思でからゆきさんになることを決心して叔母のいるシンガポールに渡り、さらにはアフリカのザンジバルまで出稼ぎにいき、 ザンジバルでは30歳の若さで娼館の女将になり、それ以外にも日本からの輸入品を販売する雑貨店を経営したり、 女だてらに男の仕事であるといわれていた港に寄港する商船に日用品や食料品を納入するシップ・チャンドラーという仕事に就いたりと行動力とバイタリティーに溢れた人生を送ってきた女性で、とても「カワイソーな人」と同情されるようなタイプではありません。

からゆきさんの家を見たあと、近くのローマ・カトリック教会を覗き(日曜日のミサが執り行われていました)、

海を望む場所にあるオールド・アラブ砦を見て、隣のサルタンの宮殿のひとつだった「驚嘆の家」(The House of Wonder)に行きましたが、改修中とのことで中に入ることはできません。

「驚嘆の家」の前のパレス博物館は、昔のサルタンの宮殿で、ここは開いていて、300円ほどの入場料を払って中に入ることができました。

サルタンの謁見の間や寝室、浴室などを見ましたが、海に面したベランダからの眺めが素晴らしかった。

パレス博物館の隣のフォロダニ公園は地元住民の憩いの場所になっているそうですが、わたしが行ったときは、白人の中年女性と地元の若者らしい黒人の若い男がいちゃつきながら写真を撮り合っていました。

前日の夜、ホテルの近くの港の見えるレストランで食事したときにも、『旅情』のキャサリン・ヘップバーンのような身体全体から「男が欲しい」オーラを発散させている白人の中年女性が一人寂しく食事をしている光景を目にしましたが、

ここザンジバルは、インドネシアのバリ島などと同様、そういう寂しい先進国の女性が現地の若い男を求めてやってくる場所のひとつになっているのだそうです。

女性の相手をする若い男がいるということは、当然、ホモの相手をする若い男もいるということで、一度、夕方にフォロダニ公園を歩いていたら、ベンチに座っている若い男から露骨なながし目を送られたことがあります。

彼がマサイだったら相手にしていたかも知れません(笑)

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ローマン・カトリック教会

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オールド・アラブ砦


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驚嘆の家
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パレス博物館

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パレスのベランダから海を眺める

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フォロダニ公園
続く


東アフリカ周遊(7)

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☆ ストーンタウン逍遥(3)
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大聖堂
その後、かっての奴隷市場の跡に建てられたという英国国教会の大聖堂を見に行きました。
なぜ奴隷市場の跡にキリスト教の教会が建てられたかというと、アラブ人が行っていた野蛮な奴隷貿易を廃止させたのは我々文明人であるキリスト教徒ですよ、とアピールする目的があったみたいです。

わたしは気が付きませんでしたが、教会の中には「悪名高いアラブ人による黒人奴隷貿易はイギリスの努力によって廃止された」と麗々しく書かれた銘板が掲げられているといいます。

イギリス自身、18世紀まで大西洋をまたぐ奴隷貿易の重要な担い手だったのですが、19世紀初めに様々な理由により、奴隷貿易を禁止する法律がイギリスで制定されると、

自分達が過去において奴隷貿易をやっていたことを棚にあげて、東アフリカでアラブ人によって行われていた奴隷貿易を非人道的であると非難し始めたのです。

そして、当時、黒人奴隷の積み出し港があったザンジバルを支配していたアラブのサルタンに黒人奴隷貿易を停止するように圧力をかけ始めるたのですが、

昔、自分たち自身、捕鯨を行っておきながら、クジラを捕獲してクジラの肉を食べる日本人は野蛮であると非難するのと同じ偽善的な行為で、ダブスタもいいところです。

実際、イギリスは、アラブ人による非人道的な奴隷貿易をやめさせるという大義名分の下に、

当時、奴隷狩りが活発に行われていたスーダンに軍を派遣して占領し、さらには現在のウガンダ、ケニア、タンザニアを含む東アフリカ一帯を「平定」して、イギリスの植民地にしたのです。

いずれにせよ、東アフリカでアラブ人が行った奴隷貿易は、西アフリカでヨーロッパ人が行った奴隷貿易と比較してずっと規模が小さく、

西アフリカから新大陸に連れて行かれた黒人奴隷がサトウキビ農場などのプランテーションで酷使されたのにひきかえ、

アラブ人によって奴隷にされた黒人は主としてアラブ人の家内奴隷、つまり召使いや使用人になり、女奴隷の場合は、彼女達を買ったアラブ人男性の愛人になったケースが多く、

あくまでも財産としてですが、大切に扱われ、主人が亡くなったときには、遺言で自由の身になった奴隷も少なくなかったといいます。

ただしすべてのイギリス人が東アフリカでのアラブ人による黒人奴隷貿易を非難していたわけではありません。

スピークと一緒に白ナイルの源流発見のための探険を行ったリチャード・バートンは、アラブ人による黒人奴隷貿易は、本国のイギリス人が考えているほど非人道的ではないし、

いずれにせよ、アラブ世界で起っている事柄にヨーロッパの価値観をあてはめて判断するのは無意味であるという意見でした。

もうひとり、アラブ人による黒人奴隷貿易を擁護した著名なイギリス人がいます。

ほかでもないアラブ人による黒人奴隷貿易をやめさせるという名目で、エジプト総督、イスマーイール・パシャの命を受けて、スーダンに派遣されたゴードン将軍です。

ゴードン将軍はアヘン戦争やクリミヤ戦争で活躍したイギリスの軍人で、彼のスーダンでの任務は、

多くのアラブ系有力部族が群雄割拠するスーダンを平定してエジプトの植民地にし、アラブ人による黒人奴隷貿易をやめさせることでした。

スーダンの有力な部族の長は、例外なく奴隷商人でもあったので、ゴードン将軍率いるエジプト軍に抵抗しますが、ゴードン将軍は彼らをすべて打ち破り、

スーダンにおけるエジプトの主権を確立し、奴隷貿易をやめさせるために、有名な部族の長=奴隷商人を見せしめとして打ち首にしたりしました。

しかし、ゴードン将軍が任期を終えて帰国したあと、マハディと呼ばれる宗教指導者の反乱が起り、ゴードン将軍の後任のエジプト人総督が殺害されたため、

ゴードン将軍は英国政府の要請を受けて、現地に残っているエジプト守備隊を救出するために再びスーダンの地に赴きます。

結局、ゴードン将軍もマハディの軍によって倒れるのですが、この2回目のスーダン滞在では、ゴードン将軍は、マハディに対立する各地の部族を味方に引き入れるために、彼らに奴隷貿易を行う許可を与えるのです。

彼がそうしたのは主として戦略的な理由ですが、同時にゴードン自身、総督として何年間かスーダンに滞在して、奴隷貿易にたいする認識を改めたせいもあるといわれています。

バートンが指摘したように、黒人奴隷はアラブ人によって大切に扱われており、黒人にとっても故郷のアフリカの原始的な村落で生活するよりも、文明の発達したアラブ社会で暮らす方が幸せではないか、と考えるようになったというのです。

1850年にエジプトとスーダンを旅行したあるイギリス人の旅行者はナイル川のアスワン近くで遭遇したカイロに送られる女奴隷の一団の様子を次のように書き記しています。

「船に乗り込むところで、われわれはカイロに下る途中の女奴隷の大部隊に出会った。彼女らは、カイロにおける奴隷市場で、抽選で決められる新しい主人に引き渡されるのである。そのほとんどは、十二歳から十六歳までの少女であって、これ以上に賑やかな連中には、またと会えないだろうと思われる。森じゅうに、彼女たちの楽しげな笑い声が響き渡っている。彼女らは今、奴隷市場にいるのではなく、むしろ奴隷的境遇を彼女らの国に棄て去ってきたのだとさえ思えるほどであった。。。」(アラン・ムアヘッド『青ナイル』より
この文章を読む限り、奴隷というよりも修学旅行の女学生の一団といった方がふさわしい感じがします。
大聖堂には旧英国領事館の横のボート乗り場の前にたむろしているオートバイタクシーを使って行きました。
聖堂の尖塔が見えるところで降ろしてもらったのに、道が曲がりくねっていて中々、たどり着けません。
途中で話しかけた男に連れて行ってやるといわれて、彼の後に付いて行ってなんとか教会の敷地に入ることができたのですが、
その案内役の男はわたしを教会の建物ではなく、その手前にあるザンジバルの奴隷貿易に関する展示会場に誘導し、
わたしはいわれるままに1万1500シリング(約600円)の入場料を払って中に入ったのですが、展示されている写真パネルに記載されている説明文は、

これまでわたしがネットや書籍から入手した情報とさして変わりなく、わざわざ金を払ってまで見るほどの価値はありませんでした。

教会では、ローマン・カトリック教会と同様、日曜日のミサが執り行われていましたが、この英国国教会の教会は、アラブ人による奴隷貿易の残酷さをアピールするプロパガンダ施設として利用されているらしく、

わたしは見なかったのですが、教会の横にはスウェーデン人の彫刻家が制作したという奴隷の像が設置されているそうです。

わたしにいわせれば、そんなもんは中韓が世界中に建てまくっている慰安婦像と同じで、もし本当に奴隷貿易について反省しているのであれば、

18世紀から19世紀にかけて大西洋をまたぐ奴隷交易の主要な担い手であったイギリスやアフリカからの黒人奴隷を大量に受け入れたアメリカにこそ、そのような像を設置すべきだと思うのですが、

このような黒人奴隷の像がアメリカやイギリスで建てられたという話は寡聞にして聞きません。

わたしは欧米人が日本軍の慰安婦を性奴隷と呼ぶのも、かって実際に奴隷貿易に携わったり、奴隷を所有していたことに負い目を感じている彼らが、

日本人もまた奴隷を使っていたと信じることで少しでも罪の意識を軽減するためにやっているのではないかと疑っています。

その後、大聖堂を出てすぐのところにある市営市場を見物してから歩いてホテルまで戻り、ホテルの近くにあるカフェでランチを取りました。

ラマダンで 現地人用の安食堂は全部閉まっていて、このカフェのように気取った雰囲気の外国人旅行者用の飲食店しか開いていなかったのですが、メニューにはビールはありませんでした。

ザンジバルは物価の高いところなのですが、ケニアでは日本円で200円ほどで飲めたTuskerビールがザンジバルでは300円ほどもして、のん兵衛としては不満でしたね。

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大聖堂の近くの市営市場

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同じく市場

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市場の前の道路に駐車してあったマイクロバス

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続く

東アフリカ周遊(8)

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☆ パジェ

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パジェのビーチ

ザンジバルでは、主としてストーンタウンに滞在していたのですが、ザンジバル島には美しいビーチが島の各所にあると聞いて、一応、ビーチも見ておこうという気持ちになりました。

それでストーンタウンから30キロほど離れた島の南東部にあるパジェというビーチに行って、そこにあるパラダイス・ビーチ・バンガローズという日本人経営のゲストハウスに一泊しました。

ザンジバル島内の主要な公共交通機関は、ダラダラと呼ばれる小型バス(大半は日本製の中古マイクロバス)で、パジェまでの所要時間は2時間。

最初はこのダラダラに乗ってパジェまで行くつもりだったのですが、ホテルのフロントの女性にパジェに行くといったら、タクシーで行くことを勧められました。

ダラダラは混むし、乗り心地は良くないし、疲れるというのです。

それで彼女の勧めるまま、25ドル払ってタクシーで行くことにしました。


出発当日、朝の10時にやってきたのは、モハメッドという中年の運転手。パラダイス・ビーチ・バンガローズには一時間半ほどで着くといいます。

車がストーンハウスの市街地を抜けると、道の両側にはマンゴーと椰子の木のプランテーションが広がります。

道路の状態は悪く、一応、舗装されているものの穴ぼこだらけです。

現在は雨期なので、明け方降った雨のためにあちこち水溜まりができています。

雨期といってもナイロビでもザンジバルでも雨が降るのは、夜中か早朝で、昼間は晴れていることが多いのですが、

それでも雨期は旅行のオフシーズンなので観光客は少なく、パラダイス・ビーチ・バンガローズの日本人の女主人も現在、日本に帰省中だといいます。

彼女はもう20年間もザンジバルに住んでいるそうですが、ほかにもザンジバル人の男性と結婚してザンジバルに住んでいる日本女性や、

ザンジバル人の男性と結婚して子供を作り、家族で日本に移住した日本女性もいるそうです。

そんな話をしていると、突然、驟雨が降り始めました。しかし15分もすると雨は止み、青空が見えてきました。

そうこうしているうちにパラダイス・ビーチ・バンガローズに到着。

入り口の鉄製のゲートを開けてくれたのはマサイの青年でした。

このゲストハウスに雇われているそうです。

ザンジバルではマサイの姿をけっこう見かけるのですが、マサイはザンジバルで何をしているんだと運転手のモハメッドに訊くと、

伝統的なマサイの薬を売ったり、ホテル専属の観光ガイドをしているといいます。

マサイは現在でも伝統的な民族衣装を着ているので、観光客の間で人気があるのだそうです。

フロントと食堂から成るメインのバンガローに行って、そこにいた従業員の青年に宿泊の予約をしてきた旨を告げるとバンガローに案内してくれました。

バンガローの内部は広いけど、設備はかなりボロイく、エアコンはぶっ壊れていて、天井のファンはガーガーと煩い音を立てます。

オフシーズンのせいで滞在客はわたしと隣のバンガローにいた若い東洋人のカップルだけみたいでした。 その東洋人のカップルは男は北朝鮮の兵士風、女はサングラスをかけた姿が水っぽかったので韓国人ではないかと思いましたが、

昼食を取りに食堂に行ったら、隣のテーブルに彼らが座っていてやはり韓国語で話をしていました。

彼らはこのビーチバンガローが日本人経営であることを知っているのでしょうか?

知っているとしたら、なぜ自分たちが大嫌いな日本人経営の宿に泊まることに決めたのでしょうか。パジェにはほかに宿泊施設はいくらでもあるのです。

日本でも最近よく韓国人の観光客の姿を見かけますが、なにしに日本に来ているのでしょうね? 本当に気色の悪いストーカー民族です。

昼食は、このブログの読者でよくザンジバルに遊びに行くという日本人がこのバンガローに行ったら食べるようにと勧めてくれた冷麺(Cold Noodle)を注文しましたが、中々、旨かったです。

夕食はイカの天ぷら定食を食べましたが、これもまずまずでした。ただし米のご飯は不味いアフリカ米で、美味しくて安いカリフォルニア米でも輸入すればよいのにと思いました。
昼食後は、人気のないサンゴ礁の真っ白なビーチを散歩したり、数キロ歩いて雑貨店などの店舗が10軒ほどあるパジェの村の中心の広場に行ったりしました。

何もしないでのんびりするには良いところですが、このパラダイス・ビーチ・バンガローズはボロい宿であるにもかかわらず、一泊55ドルもします。

ホテル代の高いザンジバルでも、かなりのボッタくり料金ですが、これはオフシーズンの料金の料金で、ハイシーズンになると更に15ドルが加算されるそうです。

このゲストハウスの売りは日本料理が食べられることだそうですが、ストーンタウンにも日本料理店ができている今、ストーンタウンからわざわざ2時間もかけて、ここまで食事をしにくる価値はないと思われます。

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ここで働いていたマサイの青年

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ビーチにいた少年たち

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パジェの村まで歩いていく途中にみかけたマサイ

続く

東アフリカ周遊(9)

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☆ 再びストーンタウンへ

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翌朝10時にまたモハメッドが迎えに来てくれて、彼の車でストーンタウンに戻りました。

バンガローで煩くガーガー音を立てる天井ファンをつけっぱなしにして寝たせいか、朝からお腹の調子が良くありません。

ベッドには身体を覆うのにペラペラのシーツ一枚しかなくて、多分、それでお腹を壊してしまったのでしょう。

途中、ガソリンスタンドに寄って、トイレを借りなくてはなりませんでした。

車の中では、昨日の続きでザンジバルに沢山、日本人女性が住んでいるという話になりました。

なぜそんなに多くの日本女性がザンジバルにいるのかと訊くと、モハメッドは「性格のせいだ」といいます。

「性格?」

「日本人は欧米人とは違うでしょ」

ザンジバル人は欧米人とは気が合わないが、日本人とは気が合うというのです。

わたし自身は、日本人がザンジバル人と特別、気が合うとは思わないのですが。。。

わたしのザンジバルの人間にたいする印象はとにかくガメツイということ。観光地だから仕方がないのかもしれませんが、寄って来る人間が全員、わたしの懐を狙っているような気がします。

たとえばストーンタウンのホテルのフロントの女性は、わたしにたいしていつも非常に愛想が良かったのですが、それはわたしが空港の送迎やパジェの送迎の車の手配を彼女に頼み、
ホテルのコミッションを含んだ割高のタクシー代をドルで支払っていたことと無関係とは思えません。

この日もわたしはホテルに戻ってホテル代を一泊分ドルで支払ったのですが、ザンジバル人はドルでの支払いをことのほか好むようで、彼女は大層、ご機嫌でした。

というようなわけで、彼女がわたしに愛想を振り撒くのは、ドル札のためだとわかっていたので、それでわたしのザンジバル人の人間性にたいする評価が上がることもなかったのです。

たとえば、今回、帰国前の最後の夜はナイロビのINKS HOTELに泊まったのですが、朝、チェックアウトを済ませて飛行場に行くまでの間、ホテルの食堂で地元の新聞を読んで時間を潰していたら、

フロントの男性が話しかけてきて、「もしよければ空港に行く時間が来るまで、あなたが無料で部屋に滞在できるようにマネージャーに頼んでみるが」といってくれました。

その必要はないと断りましたが、こういうのが本物の親切というのであって、そのような親切には、わたしはザンジバル滞在中には一度も出会うことはありませんでした。

この運転手のモハメッドだって、昨日の朝、はじめて会ったときに、やれスパイスツアーに行かないかとか、プリズンアイランドのツアーに行かないかとかしつこく誘ってきて、わたしを金儲けの対象としてしか見ていなかったのは明らかです。

空港でわたしを待っていたムスタファというタクシーの運転手も同じで、わたしにたかる気、満々で、自分の名刺をわたしに渡して「いつでも連絡してください」と熱心に売り込んできました。

お陰で、わたしはザンジバル滞在中は歩くATMになったような気分でいたのですが、ザンジバル人のがめつさに辟易することはあっても、ザンジバル人と気が合うなどとはまったく感じませんでした。

モハメッドのいうザンジバルに住んでいるという日本女性たちは、そういう観光客にたかる連中とは違う親切なザンジバル人と出会って恋に落ちたのかもしれませんが。。。

いずれにせよ、自分の意志でザンジバル人の男性と結婚してザンジバルに住む決心をした彼女たちの人生を赤の他人であるわたしがあげつらうのは不謹慎かつ僭越だと思ったので、それ以上は何も言いませんでした。

ストーンタウンに昼前に戻り、お腹の調子が悪かったのでラマダンに付き合って昼食は抜きにして、午後はストーンタウンの土産物店を覗いたりして過ごしました。

迷路のように入り組んだ小路が続くストーンタウンを歩き回るのは楽しいですが、同じような迷路の多いモロッコのフェズやマラケシュの町と異なるのは、街を作ったのはアラブ人でも住んでいるのは黒人だということです。

つまりこの町に住んでいるのはアラブ化したアフリカの黒人なのですが、わたしがこのストーンタウンを魅力的に感じるのもまさにその点、この町がわたしの好きなアラブ文化と黒人アフリカ文化が融合した場所だからです。

あとストーンタウンの寂れた雰囲気も良かったです。

昔は栄えたけれど、今は落ちぶれてしまった町に特有の過去の歴史の廃墟に立ち会っているような気分を味わえる場所がわたしは好きなのです。

そういえば、わたしがこよなく愛した改修前のシンガポールのラッフルズホテルも過去の歴史を偲ばせる風情のあるホテルで、

修復を重ねた建物の痛み具合が、過去、このホテルで繰り広げられた様々なドラマを物語ってくれるような気がしたものです。

その後、このホテルは大規模な改築工事が行われて、「ペンキ塗りたて」みたいになって一挙にその魅力を失くしてしまいましたが。

夜、オフシーズンで宿泊客が少ないために、わたしの貸し切り状態になっていたホテルの屋上テラスに置かれたソファに寝そべってビールをちびちび飲んでいると、アザーンが聴こえてきました。

わたしはイスラム教徒ではありませんが、アザーンの調べは好きで、聴いていると恍惚としてきます。

特に今はラマダン中で、夕刻のアザーンもいつもより長く、丁寧が気がするのですが、それに耳を傾けていると、

「ああ、自分は今、イスラム世界にいるのだ」

としみじみ感じ、無理してでもザンジバルに来た甲斐があったと思ったのでした。


ストーンタウン

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港の周辺
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続く

東アフリカ周遊(10)

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☆ マダラカ・エクスプレス
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ザンジバルに5泊したあと、またFly 540のフライトでモンバサに向かいました。
モンバサは前回、ケニアに滞在した時に何度か訪れています。
特別、面白い町ではなく、見所も少ないところですが、ナイロビに直接、向かわずにモンバサに立ち寄ったのは、
中国企業によって建設され、2017年6月に開通したモンバサ・ナイロビ間の新しい鉄道を走るマダラカ・エクスプレスに乗るのが目的です。
モンバサからナイロビ、キスムを結ぶウガンダ鉄道が建設されたのは、イギリス植民地時代の19世紀後半のことで、それ以後、ずっとこの路線は運行されていたものの、メンテナンス不足もあって最近は老朽化し、
旅客列車については、週に2、3回、夜行列車がナイロビ・モンバサ間を走るだけになっていました。
それがこのマダラカ・エクスプレスができたお陰で、これまでのナイロビ・モンバサ間の所要時間が10時間から半分の5時間に短縮され、列車も一日2回、午前と午後に発着するようになったのです。

わたしは特別、鉄道ファンというほどではないのですが、鉄道の旅は好きで、これまでオリエント急行やスーダン鉄道、シベリア鉄道、泰緬鉄道、アンデス高山鉄道など世界各地の鉄道に乗っています。
それでこの新しい列車が開通したというニュースを聞いたとき、ケニアに行く機会があれば是非、乗ってみたいと思ったのです。
しかし問題がひとつありました。ナイロビからザンジバルに飛んだとき、利用したFly 540のフライトが大幅に遅延したことです。
帰路のザンジバル⇒モンバサのフライトのモンバサ到着予定時間は12時30分で、マダラカ・エクスプレスのモンバサ発車時間は15時15分。
飛行機が定刻どおりに到着すれば、モンバサ空港から鉄道ターミナルまでの移動時間を考慮に入れても、列車への乗り継ぎに問題はありません。
しかしFly 540のフライトのモンバサ到着が2時間以上、遅れた場合、モンバサ駅15時15分発の列車への乗り継ぎが間に合わなくなる可能性があり、その場合は、翌朝7時15分の列車に乗ることになります。

この朝7時15分の列車は各駅停車のためナイロビ到着が13時05分。この日の午後4時半には帰国便のドバイ行きエミレーツ航空に乗る予定になっているので、

万一、列車のナイロビ到着が2時間以上遅れた場合、帰国便に間に合わなくなる可能性があるのです。

そういうわけでで、今日は飛行機はちゃんと飛ぶやろかと心配しながら、朝10時にホテルに迎えにきたモハメッドの車に乗って空港へ向かったのでした。

空港に着いて、Fly540のチェックインカウンターの女性に、

「ナイロビからの飛行機は遅れてないか?」

と訊くと、

「遅れてません」
といいます。
「ナイロビから来るとき5時間も遅れたんだけど」

「今日は遅れません!」

きっぱり答えます。

ホンマかいな?と思いながら、搭乗ゲートに向かうと、なんとこの日は本当にフライトの遅れはなく、定刻どおり11時50分に出発し、12時半にモンバサ空港に到着したのでした。

空港から鉄道のターミナルまでタクシーで行きましたが、事前に調べていたところではモンバサのダウンタウンまで1000シリングで行く筈が、

タクシーの運転手は、新しい鉄道ターミナルは郊外にできて、以前のモンバサ駅よりも遠くなったから1500シリングだといいます。

それを1200に値切って鉄道ターミナルに向かいましたが、運転手は列車の座席を予約したかと訊き、予約してないと答えると、満席で買えないときがあるから、

その場合は、モンバサの町に引き返し、良いホテルに案内する。ついでに市内の見物にも連れて行くなどと言い出します。

どうやら1200シリングは払いすぎで、いいカモだと思われたみたいです。

わたしの事前の調査では一等席は当日でも買えると聞いていたので、その点については心配していませんでしたが。

空港のターミナルと見まがうような巨大な新築の鉄道ターミナルに着いたとき、運転手が念のために荷物を車に置いていけというのを振り切って、荷物をもって切符売り場に向かいました。

一等の切符売り場の前には少し列ができていましたが、チケットは問題なく購入することができました。

隣の2等座席の切符売り場の前にも列ができていて、当日チケットを販売しているようでした。

チケットの価格は、一等で3000シリング(約3300円)。モンバサ・ナイロビ間の距離が480キロでこの価格は、日本の新幹線などと較べるとかなり安いといえます。

二等チケットはさらに安く、たったの1000シリング(約1100円)だそうです。

一等の車内は、通路を挟んで2列ずつ座席が配列されていて、座席はかなり広くゆったりしています。

ナイロビまで大体時速100キロちょっとで走行するようです。

この新しくナイロビ・モンバサを結ぶ鉄道は中国企業が建設し、運行サービスも請け負っているようですが、中国企業は最近、サハラ以南のアフリカで鉄道をどんどん建設しています。

エチオピアでは、アディスアベバ・ジプチを結ぶ老朽化した鉄道の大規模改築工事を中国企業が受注し、首都のアディスアベバでは、ライトレールと呼ばれる都市型鉄道の建設工事をやはり中国企業が請け負って完成させています。

中国のアフリカ進出については賛否両論がありますが、わたしは基本的には歓迎すべきことだと考えています。

サハラ以南のアフリカでは、インフラ、特に輸送インフラが絶望的なまでに不足しているのですが、中国企業はこれらの地域で積極的に橋や自動車道路、鉄道を建設しているのです。

ナイロビで読んだ英字新聞でも、ナミビアで中国企業が経営している鉱山が現地労働者の雇用を促進しているとか、掘り出した鉱石を輸出するためのターミナルをやはり中国企業が建設しているとか、

モザンビークの首都マプトでは、ランドマーク的な大型のつり橋を中国企業が建設しているとか、ケニアの孔子学院で中国語を学ぶ学生が増えているとか、アフリカにおける中国のプレゼンスの増大を示す記事が多数、載っていました。

中国はアフリカを植民地化しようとしていると非難する向きもあるようですが、これまでサハラ以南のアフリカに投じられた欧米先進国の膨大な援助資金が、

独裁者である大統領やその手下のスイス銀行の隠し口座の残高を増やすだけの結果に終わったことを思えば、

少なくとも、中国の援助は橋や自動車道路、鉄道などの目に見える形をとって現れていて、その国の国民の役に立っているのです。

ナイロビ・モンバサ間の鉄道は、ツァボ国立公園を横切って走るのですが、これまでは夜行列車だったので、動物の姿を見ることができませんでした。

新しい鉄道は昼間、走るので動物の姿を見ることができるのではないかと期待していたのですが、残念ながら動物は見ることはできませんでした。

それでもバオバブやソーンツリーが点在する広大なサバンナを眺めながら、ゆったりした座席に座ってくつろいで旅行するのは、飛行機やバスの旅では味わえない快適さで、やはりこの鉄道に乗って良かったと思いました。

列車は20時14分の定刻きっかりにナイロビに到着。

電車を降りたら、駅員が旧ナイロビ駅をつなぐコミュータートレインに乗るように案内します。

それは本当にボロい電車で、発車したと思ったら停車を繰り返し、旧ナイロビ駅まで一時間もかかってしまいました。

折角、ナイロビ・モンバサ間を5時間まで短縮したのに新旧ナイロビ駅間の移動に一時間もかかってたらどうしようもないと思いましたが、これもその内、改善されるでしょう。

新ターミナルから到着した旧ナイロビ駅の駅舎は、植民地時代のものをそのまま十分な手入れもせずにずっと使ってきたという感じの本当にボロい駅舎でした。

駅舎の前にタクシーがたむろしていて、そのうちの一台に「リバーロード、500シリング?」と訊いたらあっさりOK。

夜でもなお車が溢れているナイロビの街の雑踏を通って、その夜の宿であるINSK HOTELにたどり着いたのでした。

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モンバサの鉄道ターミナル

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沿線の風景

続く

東アフリカ周遊(11)

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☆ 帰国の途へ

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今回の旅行でわたしはひとつ非常に馬鹿な失敗をしてしまいました。

ザンジバルからモンバサに飛行機で飛んでケニアに再入国したとき、空港の両替所で、残っていた手持ちのドルをすべてケニアシリングに両替したのですが、

それだけでは翌日、ナイロビ空港から帰国便に乗るまでの間の費用を全額、賄うのは無理ではないかと考えて、日本円も少し両替しようとしました。

しかしその両替所では、日本円は両替できないとのこと。

それで隣の両替所にいったら、そこでは日本円を両替できるというので、そこで6000円両替したのですが、両替レートは最悪で6000円が3000シリングにしかなりませんでした。

ネットで掲載されている日本円とケニアシリングの交換レートは、1ケニアシリング=1.1円なのに、その両替所での交換レートは、1ケニアシリング=2円だったことになります。

そのため、これからケニアに行かれる方には、日本円をケニアに持っていって、現地通貨に両替することはお奨めできません。

ATMを使って金を降ろせばよかったのにといわれるかも知れませんが、そのときモンバサ空港にはATMが見あたらなかったのです。

で、非常に馬鹿なことにわたしはその最悪のレートで両替した3000シリングの札を両替所のカウンタ―に忘れてきてしまったのです!

あとで財布を調べたら、財布に入っているシリングの札がわたしが考えているより3000シリングほど少ないことに気がつき、両替所で忘れたに違いないと思い当たったのです。

「そんな馬鹿なことってあるの?」といわれるかもしれませんが、わたしの場合は十分にあり得るのです。

日本でも店でなにか買って、金を支払ってお釣りをもらって、そのまま買った商品をレジのカウンタ―に置いたまま、店を出ようとして、店員に「お客様、お忘れですよ」と注意されることがよくあるのです。

今回の件も日本だったら誰かが気づいて注意してくれただろうけど、ブースにいたアラブ系の男は黙ってその3000シリングを自分の懐に入れたものと思われます。

というわけで、翌朝、ナイロビの銀行のATMで、あらためて3000シリングのキャッシングをして、手持ちの金の不足分を補ったのですが、旅も終盤に差しかかって疲れが出てきて、頭がぼんやりしていたのかもしれません。

46年ぶりに訪れたナイロビは、昔、わたしが知っていたナイロビとはまったく異なる完全に別の都市になっていましたが、個人的には昔の小奇麗だったナイロビよりも、現在の活気溢れるナイロビの方がアフリカらしくて好きです。

前回、訪れたエチオピアと較べると、ケニアはずっと発展していて、ケニア人は近代社会に適応しているように思えます。

これはケニアが元イギリス植民地であったことと関係があるのではないかという気がします。

同じブラックアフリカでも、イギリスの植民地だった国は、フランスその他の植民地だったと国と較べて発展の度合いが速いような感じがするのです。

イギリスは、植民地に行政官と軍人を派遣しましたが、それ以外にイギリス人で植民地に移住する人間はそれほど多くはありませんでした。

一方、フランスの植民地にはコロンと呼ばれる多くのフランス人が入植しました。

アルジェリアやインドシナなどフランス植民地の独立戦争が泥沼化したのは、フランス人入植者のコロンたちが独立に抵抗したからです。

一方、イギリスの植民地は、ローデシアなどを例外にして、イギリス人の入植者が少なかったために、比較的スムーズに独立に移行できたました。

またイギリス植民地では、フランス植民地とは異なり、植民地在住のイギリス人が少なかったために、官吏の職をフランス人が独占したフランス植民地とは異なり、現地人を下級官吏に採用し、養成しました。

わたしが1972年にケニアに滞在していた時点で、ケニア人の警官やナショナルパークのゲームワーデン(密猟取締官)は、かなりまともだったし、

ザイール(現コンゴ民主共和国)の官吏にように露骨にワイロを要求してくることはありませんでした。

あとイギリスの植民地だった国の強みとして、教育を受けた人間が英語を話せることが挙げられます。

フツ族によるツチ族の虐殺で知られる旧ベルギー領のルワンダが公用語をフランス語から英語に代え、

ケニア、ウガンダ、タンザニアなど東アフリカの旧イギリス植民地が結成した東アフリカ共同体に加盟し、英連邦にまで加盟してしまったのも、英語圏アフリカに属する方が国の発展のために有利だと判断したからでしょう。

そもそもフツ族とツチ族の対立を裏で煽っていたのは欧米諸国で、フランス語圏アフリカの宗主国を自認するフランスがフツ族を応援し、一方で英米はツチ族を支援していたのです。

フツ族によるツチ族の虐殺直後、ウガンダに亡命していたツチ族のカガメ現大統領率いるルワンダ愛国戦線が英米の支援を受けてルワンダに侵攻し、ルワンダ全土を掌握して、ツチ族主体の新政権が成立するのですが、

カガメ大統領はフランスをフツ族に武器を供与してツチ族の虐殺を支援したと非難し、公用語をフランス語から英語に代え、旧イギリス植民地諸国で構成される東アフリカ共同体に加盟し、

フランス語圏アフリカから完全に脱却し、英語圏アフリカに入ってしまったのです。

INKS HOTELに一泊し、翌日、タクシーでジョモ・ケニヤッタ空港に向かいましたが、46年前、帰国するわたしを空港まで送ってくれたのは、日航職員のHさんだったことを思い出しました。

当時、日航はナイロビ路線に就航していなかったのですが、ナイロビに支店は置いていました。

支店長は山崎豊子の小説『沈まぬ太陽』のモデルになったOさんで、彼は東大卒のエリートであったにも関わらず、組合運動を熱心にやりすぎて、日航が就航していないナイロビに左遷されてしまったのです。

わたしを空港まで送ってくれたHさんは、そのナイロビの日航支店でOさんの下で働く唯一の日本人職員でした。

このHさんは、知る人ぞ知る名家のご出身で、本来ならばわたしのような馬の骨など相手にされないのですが、偶々、日航職員と日本のテレビ局の取材チームの一員ということで関係ができて、

わたしが帰国便に乗るために空港に行くといったら、

「ボクもちょうど空港に行く用事があるから、送っていってあげる」

といってくださったのです。

Hさんの運転する車に乗って、道路の両側に広がる草原を眺めながら、早ければ翌年にでもケニアに戻って来ようとわたしは考えていました。

しかし、その翌年に西アフリカに行って、その次の年には北アフリカに行ってとアフリカとの縁は切れなかったものの、その後、ケニアに戻る機会はありませんでした。
そして気がつけば46年の歳月が過ぎていたのです。

「アフリカの水を飲んだ人間はアフリカに戻る」という言い伝えがありますが、わたしはケニアの水を飲んでから46年ぶりにやっとケニアに戻ってくることができたのです。

この年齢でアフリカを旅行できるだけの体力が残っていたことを神に感謝します。

おわり

2018 東アフリカの旅

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● 東アフリカ周遊(1):出発
● 東アフリカ周遊(2):ナイロビ到着
● 東アフリカ周遊(3):懐かしのナイロビは今
● 東アフリカ周遊(4):ザンジバルへ
● 東アフリカ周遊(5):ストーンタウン逍遥(1)
● 東アフリカ周遊(6):ストーンタウン逍遥(2)
● 東アフリカ周遊(7):ストーンタウン逍遥(3)
● 東アフリカ周遊(8):パジェ
● 東アフリカ周遊(9):再びストーンタウンへ
● 東アフリカ周遊(10):マダラカ・エクスプレス
● 東アフリカ周遊(11):帰国の途へ

イスタンブールの休日(1)

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☆ 出発

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一週間ほどイスタンブールに遊びに行ってきました。

イスタンブールには過去、何回か行っているのですが、わたしの大好きな都市で、もういっぺん行きたいという気持ちになったのです。

利用したのは大韓航空です。

関空からイスタンブールまで直行便はなく、韓国の仁川空港を経由する大韓航空のフライトが一番、接続の便が良いのです。

過去、大韓航空は二度、利用したことがあります。

初めて利用したのは、たしか1978年頃、ヨーロッパに行ったとき。当時、大韓航空のヨーロッパ行きの格安航空券が安かったのです。

ただ乗り継いだ金浦空港の雰囲気は悪かった。

空港のビル自体、お粗末で暗いところだったのに加えて、空港にいる人間がアロハシャツなどを着たガラの悪そうな白人と一目でその種の女性とわかる韓国人女性のカップルや、
妓生観光にやってきた日本の中年男のグループばかりで、ちょっと異様な雰囲気でしたね。

二回目に利用したのは、1994年頃、インドのボンベイに行ったとき、このときも金浦空港でしたが、改装されて見違えるほど綺麗になっていました。
空港で働く男性職員は相変わらずニンニク臭い息を吐いていましたが。
で、今回は三回目で仁川空港でしたが、この空港を利用するのはこれが初めてです。
広いスペースを取った大きな空港でしたが、以前、テレビのワイドショーで、羽田空港の拡張工事が話題になったとき、
ある在日タレントが羽田をケチョンケチョンに貶して、仁川の代わりに羽田がハブ空港になるなんて無理だ。仁川と競争しても絶対に勝てないと熱心に主張していたことを覚えています。
しかしハブ空港というのは、アムステルダムのスキポール空港やシンガポールのチャンギ空港を見ればわかるように小国で作られるものなのです。
小国では、国民の数が少ないことから、自国民に頼るだけでは、空港を運営していけません。そのために他国からの乗り継ぎ便を増やして他国の利用客を呼び込む必要があるのです。
韓国も人口は5000万くらいで、そう多くはないので、仁川をハブ空港化するという方針は間違っていません。

しかし人口が1億人を超える日本の場合、日本人の乗客だけで空港を運営できてしまうので仁川のようなハブ空港は必要なく、

羽田空港をハブ化するというというのは、羽田を日本の国内線の拠点空港にするということであって、仁川のハブ空港化とは意味合いが異なるのです。
実際、2016年の統計をみれば、羽田空港の旅客取扱数は、7969万人で世界5位、5784万人で19位の仁川空港を大きく引き離しています。

日本のテレビ局は、何かにつけて日本と韓国を比較して韓国を持ち上げて日本を貶したがるのですが、このような偏向報道には毎回、ウンザリさせられます。

大韓航空ですが、ナッツリターンのナッツ姫とか、会議中に怒って部下に水をかけたその妹とか、社員に暴行を加えた姉妹の母親とか創業者一族の横暴な振舞いが話題になっていますが、

サービスや機内食、座席の幅とピッチなどについては、全体的にいって悪くなかったです。

少なくとも、先月、関空・ナイロビ間で利用したエミレーツ空港よりはマシでした。
仁川・イスタンブール間の飛行時間は10時間30分。
イスタンブール行きのフライトのせいか、モニターで見られる映画の中にシドニールメット監督の『オリエント急行殺人事件』があったので、それを見ながら長時間のフライトに耐えていました。
イスタンブールのアタチュルク国際空港に到着したのは、現地時間の午後7時40分。
ターミナルビルを出たところにあるタクシー乗り場まで行って、最前列で客待ちしていたタクシーの運転手に予約していた市内のホテルの名前を告げて、「いくらか?」と訊くと、「メーターで行く」と答えます。

タクシーに乗り込んでから「メーターはどこだ?」と訊くと、「これだ」と正面のパネルを指さします。

そこには88.2 Mhzとの表示がありましたが、これは今、車内に流れているトルコポップスを放送しているFMラジオの周波数ではないのか?

そもそもガイドブックによると、空港から市内へのタクシー運賃は25リラから30リラで、88リラもする筈はないし、いずれにせよ、初乗り運転としては高すぎます。

「これはラジオの周波数だろう」といってやったら、バツの悪そうな顔になって、上の方に吊り下がっている小さな四角形の表示パネルを指さしました。

しかしそのメーターの数字、カシャ、カシャと音を立てて早いスピードで増えて行きます。
外はまだ明るいけれど、時刻はもう夜の8時、割増の夜間料金になっているのかも知れませんが。

結局、ホテルに着いたときのメーター料金は70リラ(1リラ=25円の換算レートで1750円)になっていました。

ガイドブックの記載料金と大きく異なっていましたが、私が持っていたガイドブックは古いバージョンで、最近、トルコはインフレで物価上昇が激しく、現地の価格はこのガイドブックの表示価格の大体2倍になっていました。

この運転手はメーターの嘘をわたしに見抜かれたためか、最後まで機嫌が悪かったですが、FMの周波数をメーターの数字と見間違えるだろうと考える彼の方がおかしいと思いますけどね。

イスタンブールでは、メトロや路面電車の路線は発達していないし、バスも地元の人間でないと乗りにくいのでタクシーをよく利用したのですが、イスタンブールのタクシーの運転手の質はかなり悪くメキシコに匹敵すると思いました。

予約していたのは、新市街ベイオウル地区にあるグランドホテル・デ・ロンドレ(Grand Hotel de Londres)

大層な名前のホテルですが、一泊6000円ほどの中の下クラスのホテルです。

このホテルにしたのは、19世紀に建てられた古いホテルで、ウェブサイトの写真を見る限り、クラシックな外観とインテリアが魅力的に思えたからです。

実際に訪れてみると、かなり古ぼけたシャビ―な感じのホテルで、まあ値段的にはこんなもんかなと思いました。

部屋はエアコンとホットシャワー、テレビが付いていて、道路に面してベランダが付いてました。

従業員は中年のオッサンばかりでしたが、大変フレンドリーで、テキパキ仕事する姿が好感を持てました。

ちなみに『オリエント急行殺人事件』の作者であるアガサ・クリスティが泊まったことで知られているペラパレスホテルは、つい目と鼻の先でした。

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ペラパレスホテル

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グランドホテル・デ・ロンドレ

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グランドホテル・デ・ロンドレのロビー、写真で見る分には豪華だけど、実際はそこら中に骨董品が置いてあるアンティークショップの中にでもいる感じ。奥のバーには、夜は売春婦が常駐している。

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朝食を取るための地下のレストラン



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簡素な部屋

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ベランダから外を見る

続く

イスタンブールの休日(2)

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エミノーニュ波止場

☆ ウシュクダラ&シルケジ

翌日、時差の関係か午前2時というとんでもない時間に目が覚めてしまい、もっと寝るために睡眠薬を飲んだら、今度は睡眠薬が効きすぎて、目が覚めたのは10時ちょっと前。

この日はボスフォラス海峡クルーズに乗る予定だったのですが、出航時刻は10時15分で到底、間に合いません。

ただ夏季は午後1時15分にもう一回、フェリーが出るそうで、この午後に出発するフェリーに乗ることに決めました。

ホテルからフェリーが出るエミノーニュ波止場まで地図でみると近そうだったので、徒歩で30分も歩けば行けるだろうと軽く考えて、午後12時半にホテルをでました。

急な坂を下りていくと、新市街と旧市街を結ぶ金角湾に架かるガラタ橋に出ました。

しかしガラタ橋は昔のイメージとは異なっていました。
昔からあるガラタ橋の隣に新しいガラタ橋が架かっていて、新旧ガラタ橋の中間には線路が敷設されて電車が走れるようになっていたのです。

ガラタ橋名物の橋の上から釣り糸を垂らしている人の姿は相変わらず見かけましたが、昔のような独特の旅情を誘う雰囲気はなくなっていました。

背のびして見る海峡を、今日も汽笛が遠ざかる♪

以前は、ガラタ橋のたもとに立つと、必ずこの森進一の『港町ブルース』の歌詞が蘇ってきたけれど、そんな情緒がなくなっているのです。

あれほど沢山、飛んでいたカモメも消えています。

多分、自動車の大気汚染で、カモメは寄りつかなくなったのでしょう。

そのガラタ橋を渡って対岸のエミノーニュ波止場に出て、ボスフォラスクルーズのフェリー乗り場を探したのですが、エミノーニュ波止場は非常に広く、

多くの路線のフェリー乗り場の中からボスフォラス海峡クルーズのフェリー乗り場を見つけるのに時間がかかり、切符売り場にたどりついたのは午後1時20分。フェリーは出航したあとでした。

それでしょうがなく、ボスフォラス海峡クルーズは翌日にすることにして、アジア側のウシュクダラの波止場に行くフェリーに乗ることにしました。

このイスタンブールのアジア側とヨーロッパ側を結ぶフェリーは主として通勤に利用されているそうですが、

50年前、ウシュクダルからエミノーニュまでフェリーに乗ってヨーロッパに上陸したときの思い出の波止場であるウシュクダルに行ってみようと考えたのです。「昨日の旅(35)」を参照。

昔、江利チエミという歌手が日本で「ウスクダラ」というトルコの歌を唄ってヒットしたことがあり、ウシュクダルの名前は年配の日本人には馴染みがあります。

わたしもまだ子供でしたが、ウシュクダーラー・ギーレギッチェン・アウドロミリアンブー♪という歌詞は覚えています。

江利チエミは、高倉健の奥さんだった人で、若い頃、二丁目のバーで居合わせてビールを奢ってもらったことがあります。

ウシュクダル行きのフェリーは昔、私が乗ったフェリーと較べて大型になっていました。

ウシュクダルに着いてみると、フェリー乗り場の前の広場で、大音量の音楽を流し、選挙の演説会みたいなものをやっていました。

トルコでは、6月24日に大統領選挙があるそうで、そのためかイスタンブールの街の至るところで、エルドアン現大統領の巨大な選挙用ポスターを目にしました。

しかし、なぜかエルドアン大統領の対立候補のポスターは殆ど見かけませんでした。

ウシュクダルには30分ほどいただけで、すぐにまたフェリーに乗ってエミノーニュに戻り、エミノーニュから近いシルケジ駅に向かいました。

シルケジ駅はオリエント急行の終着駅で、かっては多くのヨーロッパの貴賓客を乗せた豪華寝台列車がヨーロッパ各地とイスタンブールを結んでいましたが、

第二次大戦後は、飛行機に客を取られ、ヨーロッパに出稼ぎに行くトルコ人やバルカン半島の出稼ぎ労働者が利用する移民列車になり、

最後のオリエント急行であったパリ・イスタンブール間を結ぶシンプロン急行も1977年5月に運行を終えました。

わたしはその直前の1977年3月にこのシンプロン急行に乗ってパリからイスタンブールまで3泊4日の旅をしたのですが、その頃のシンプロン急行は食堂車も寝台車もない二等客車だけのみすぼらしい列車に成り果てていました。

「オリエント急行の美女」を参照。

というわけでシルケジ駅は40年ぶりだったのですが、駅舎は改修工事が行われているらしく、すっぽりとカバーに覆われ、その宮殿のような優美な外観を拝むことはできませんでした。

駅の中に入ると、内部は記憶していたよりもずっと狭く、ターミナル駅と呼ぶにはあまりに小さい印象を受けました。

帰りは、シルケジからカバタシュという駅まで路面電車に乗って、カバタシュから地下鉄でタクシムまで出て、そこでまた地下鉄を乗り換えてホテルの近くのシシャネまで行きましたが、

随分と遠回りになり、また乗り換えのたびに5リラかかるので、合計15リラになってしまい、タクシーを使った場合と大して変わりませんでした。

イスタンブールでは、バスや路面電車、地下鉄などの交通機関などのチケットは統一されていて、

同一のチケットで各種交通期間に乗車できるようになっているのは便利なのですが、券売機の表示はトルコ語だけで、外国人が購入するのはムツカシイです。

それでシルケジでは券売機でチケットを購入するのを諦め。近くのキオスクで2回分のチケットを10リラで購入しました。

しかしその2回分のチケットはタクシムまで行ったところで使い果たしてしまい、そこから先は若いトルコ人の青年に頼んで券売機で買って貰いましたが、かなり面倒でした。

ガイドブックにはアクビルという割引料金のチケットもあると書いてありましたが、そのアクビルもトルコ語表示の券売機で購入しなければならないわけで、外国人にとって買いにくいことに変わりはありません。


☆ ヌール・ハマム(Nur Hamam)

ホテルに戻って一休みしてから、ホテルから歩いてすぐのヌール・ハマムというトルコ風呂に行きました。

ここはGay Friendly Sauna and Turkish Baths in Istanbulというサイトに記載されているイスタンブールのゲイ・ハマムの一軒です。
わたしはあっちの方は完全にあがっていて、現役引退している身なので、ハマムに行ってなんかしたいという気はないのですが、

一応、「同性愛研究家」の肩書きをもっているので(笑)、トルコのゲイ事情の視察に赴いたのです。

実際に行ってみると、ヌール・ハマムはとても小さなハマムで、平日の午後のせいか、客は老人がひとりいるだけです。

真ん中に大理石に台が置かれた浴室にしばらくいたら、30代半ばくらいの青年が入ってきました。

浴室には出入り口とは別に2箇所、ドアが付いていて、青年はそのうちのひとつのドアを開けて中に消えて行きました。

別室でもあるのかと思って、そのドアを開けて中を除くとそこはトイレ&シャワー室になっていて、右側のトイレと左側のシャワーは壁で仕切られていて、シャワーの前はビニールのカーテンがかかっていました。

青年はシャワー室の中で自分のモノをしごいていましたが、わたしが覗いているのに気がつくと止めてしまいました。

「どうも失礼!」といって浴室に戻り、大理石の台に座ってぼんやりしていたら、青年がシャワーから出てきて、そのまま浴室を出て行きました。

いつの間にか、老人の姿も消えていて、わたしひとりになって、しばらく浴室にいましたが、誰も入ってこないので、わたしも外に出て身支度をして帰りました。

ハマムの入場料は30リラ(約750円)でした。

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ガラタ橋

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ウシュクダラに向かうフェリー

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シルケジ駅

続く

イスタンブールの休日(3)

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☆ ボスフォラス海峡クルーズ

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ボスフォラス海峡に架かる橋

翌日、前日に遅刻して乗れなかったボスフォラズ海峡クルーズのフェリーに乗るためにエミノーニュ波止場へ。

この日もホテルからエミノーニュ波止場に歩いて向かったのですが、方向音痴のわたしは真っすぐたどりつけず、自動車道路に出てしまい、そこからバスでエミノーニュに出る羽目に。

エミノーニュに着いてからも、前日、確認したボスフォラズ海峡クルーズのフェリー乗り場を中々、見つけることができず、1時15分の出航間近にようやくたどり着いてチケットを購入、乗船したのでした。

ボスフォラズ海峡クルーズは、エミノーニュを出発して、黒海近くの折り返し地点であるアナドル・カヴァウまで北上し、

アナドル・カヴァウに上陸して数時間滞在したあと、またエミノーニュに戻ってくるというコースで、

フェリーの乗船時間は片道1時間半、往復3時間で、アナドル・カヴァウでの滞在時間を含めると所要時間は4時間半くらいになります。

エミノーニュの埠頭を出たフェリーは、ゆっくりと海峡を進んでいきます。

海峡の両岸にはオスマン朝時代のサルタンが建てたドルマバフチェ宮殿やベイレルベイ宮殿や貴族の別荘が建ち並んでいます。

建物の正面は海に面していて、かっては海から上陸していたことがわかります。

フェリーはボスフォラス海峡に架かる最初の橋、第一ボスフォラス橋を通り過ぎて、日本企業によって建設された二番目の橋、ファーティフ・スルタン・メフメト橋に近づいていきます。

この二番目の橋に近づいて行くと、コンスタンチノープルを攻落したオスマン帝国のメフメット2世が1452年に建造した砦であるルメリ・ヒサルが左手、ヨーロッパ側に見えてきます。

二番目の橋のすぐ近くにルメリ・ヒサルの砦があるのは偶然ではありません。

ここがボスフォラス海峡の幅が一番狭くなっているところだからです。

ルメリ・ヒサル砦のアジア側の対岸には、アナドル・ヒサルという砦がずっと前に建造されていて、メフメット2世は、ここで地中海貿易で覇を競っていたベネティアとジェノヴァの艦隊を挟み撃ちにしたのです。

ボスフォラス海峡に架かる橋は二つだけだと思っていたのですが、折り返し地点のアナドル・カヴァウに近づくにつれて三番目の橋が見えてきました。

この橋は2016年に交通渋滞の緩和を目指して黒海入り口に建設されたボスフォラス海峡の第三の橋、ヤヴズ・スルタン・セリム橋です。

ボスフォラス海峡は昔からヨーロッパ側とアジア側を結ぶ交通の障害になっていて、それを解決するためにこれらの橋が架けられているのですが、

これら三本の橋に加えて、2013年には、ボスフォラス海峡の両岸を結ぶ地下トンネルが日本企業によって建設され、2016年には韓国企業が二本目の地下トンネルを建設しています。

トルコは親日的な国として知られていますが、最近では中国への接近が目立っているそうです。

トルコはEU加盟を悲願としていて10年以上にわたってEUと加盟交渉を続けているのですが、EU側はなんだかんだと口実をつけてトルコの加盟を拒否してきました。

キリスト教国家の共同体であるEUにイスラム国であるトルコを加盟させたくないというのが、EUの本音らしいですが、

ギリシャがEUに加盟できているのにトルコが加盟できないのはそれ以外の理由は考えられません。

業を煮やしたトルコ政府は「なにがなんでもEUに加盟したいとは思わない」と言い出しているそうですが、

最近のイギリスのEU離脱などを見ているとEUが崩壊する可能性も無きにしも非ずで、トルコ側もEU加盟に便々とする気はなくなってきているようです。

EU加盟を阻止された意趣返しか、トルコは中国が主催する多国間の協力機構である上海条約機構に加盟する可能性を仄めかしています。

ソ連の崩壊によって中央アジアにカザフスタンやウズベキスタンなど語尾に「スタン」が付くスタン国がいくつか生まれたのですが、これらスタン国の国民の大半を占めるトルコ系の民族は、トルコ語系の言語を話し、

トルコ人と会話するのに支障ないそうで、これらの国々からトルコへの留学生も増え、トルコは今やこれら中央アジアのスタン国の宗主国的な存在になっているそうです。

そのため、トルコとしては上海条約機構のパートナーになることで、中国の一帯一路政策に便乗して、これらスタン国のインフラ設備を中国にやらせたいという意向があるといいます。

また最近、トルコはイランやロシアと共にシリア和平会談の当事者になってますが、シリアを含むすべてのアラブ諸国は、かってはオスマントルコの領土だったわけで、

現在でもトルコは元宗主国としてアラブ諸国にたいして隠然たる影響力を保持しているといわれています。

つまり、トルコとしては今更EUに加盟してヨーロッパの一国として認めてもらわなくとも、中東の大国として十分にやっていけるという自信を深めているということらしいです。

アナドル・カヴァウに上陸してみたら、観光客向けのレストランと土産物店しかないところで、サンドウィッチを売る屋台などはなく、嫌でも高いツーリストプライスのレストランで食事をしなければならない仕組みになっていました。

というわけで海に面したレストランで割高の食事を済ませて戻りのフェリーに乗り込んだのですが、フェリーはまっすぐエミノーニュに向かわずにあちこちの埠頭に立ち寄りながら進んでいったので、

わたしは間違えてエミノーニュのひとつ手前のヨーロッパ側の埠頭で船を降りてしまいました。

そこはなんという埠頭か知りませんが、埠頭の前の広場はバスターミナルになっていて、広場に面した屋台の兄ちゃんにエミノーニュに行くにはどのバスに乗ったらよいかと訊くと、 28番バスに乗れば、エミノーニュ経由でカバタシュまで行けると教えてくれました。

前日、シルケジから路面電車に乗ってカバタシュまで行って、タクシム経由でホテルの近くの地下鉄のシシャネまで行ってホテルに戻ったので、その28番バスに乗ってカバタシュまで行くことにしたのですが、

バス停の表示は、路面電車の表示と違ってわかりにくく、カバタシュを乗り過ごしてしまい、結局、途中でバスを降りてタクシーでホテルに戻ったのでした。


というわけで行きも帰りも道に迷って大変だったのですが、ボスフォラス海峡クルーズそれ自体は、とても楽しかったので、イスタンブールに行かれた際は是非、参加されることをお勧めします。


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フェリーの窓から撮った外の光景
窓越しに撮ったのでピンボケになってしまった。空に浮かんでる空飛ぶ円盤みたいなのはフェリー室内の照明が反射されたもの。なぜデッキに出て写真を撮らなかったのかと思うが、ようするにそれだけ写真に関心がないのです。


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アナドル・カヴァウのフェリー乗り場

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アナドル・カヴァウのレストラン

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アナドル・カヴァウの埠頭


続く




イスタンブールの休日(4)

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☆ スレイマニエ・モスク

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スレイマニエ・モスク

翌日は、エルミーニョに隣接するイェニ・ジャーミー、エジプト市場、ルステムパシャ・モスク、スレイマニエ・モスクを回りました。

また道に迷うのは嫌だったので、タクシーで直接、イェニ・ジャーミーに向かったのですが、
このモスクの周辺はエジプト市場と呼ばれる屋根付きのバザールや野菜、果物、日用品などを売る露店が立ち並び、入り組んだ路地が続くのでやっぱり迷ってしまいました。

イェニ・ジャーミーは当初、メフメット三世の母后、サフィエ・スルタンが建設を開始したものの、メフメット三世の没後、資金が続かなくなり、未完成のまま放置されていたのが大火で焼失。

その後、メフメット四世の母后、トゥルハン・ヴァリデが再建したモスクです。
この二人の女性が建立に関わったモスクの建物は比較的小さく、中では何人かの男が昼寝していました。

隣接するエジプト市場は、このモスクの運営費を賄うために作られたそうで、主としてインドやエジプトから輸入された商品を扱っていることからエジプト市場と呼ばれるようになったそうです。

商品の中では、特に香辛料が多く、スパイスマーケットとも呼ばれているそうですが、香辛料のほかに食品を売る店もあって、庶民的な雰囲気が漂っていました。

エジプト市場を見たあと、近くのリュステム・パシャ・モスクへ。このモスクはスレイマン一世の娘婿で大宰相を務めたリュステム・パシャのために造られたもので、

内装、外装に使われているタイルが素晴らしいとガイドブックに書いてあったので見に行ったのですが、入り口がなかなか見つからず、散々、探しまわって、やっとたどりついたら、なんと「外国人お断り」。

それでこのモスクの見物を諦めて、そこから遠くないスレイマニエ・モスクへ。

スレイマニエ・モスクは、スレイマン一世が建設したモスクで、このスレイマン一世の治世でオスマン帝国は最盛期を迎え、その領土は北はバルカン半島からハンガリーまで、

南はエジプトと紅海沿岸、メディナとメッカを含むアラビア半島沿岸、西はアルジェリアまでの北アフリカの地中海沿岸、東はシリアおよびイラク地方にカスピ海沿岸まで達しました。

そのため彼はスレイマン大帝と呼ばれたのですが、そのスレイマン大帝が建てたスレイマニエ・モスクは質実剛健な外観をもつモスクで、内部もわりとあっさりした感じでした。

過去、三回のイスタンブール訪問では、モスクはブルーモスクとアヤソフィア(現在は博物館になっています)しか見なかったので、今回は、イェニ・ジャーミーやこのスレイマン・モスクを見物したわけですが、

結論をいうと、イスラム建築やモスクに特別な関心を持つ人を除けば、イスタンブールでは、ブルーモスクとアヤソフィア以外のモスクは見る必要はないのではないかという気がします。

その規模と壮麗さにおいてこの二つのモスクは飛びぬけているからです。


☆ フィルザガ・ハマム(Firuzagha Hamam)

この日は、フィルザガ・ハマムに行きました。

このハマムは、新市街の目抜き通りであるイスティカール通りの真ん中のガラタサライ広場からイエニ通りに入り、急な坂道を降りて行ってククルクマ通りと交差するところにあります。

ここもいわゆるゲイハマムで、入場料は前回、行ったヌール・ハマムは30リラだったけど、ここは40リラ。

内部はヌール・ハマムと較べると広く、メインの浴室の両側に補助的な小さな浴室が二つありました。

平日の午後4時頃でしたが、20人くらいの客が入っていて、客層は30代、40代、50代の中年層が主流で、

熊系というか、顔が髭に覆われていて、身体も毛深いタイプが多く、そういうのが趣味な人には堪らないと思うけど、わたしの趣味であるほっそりした美少年は皆無でした。

まあ、ヤルことを期待して行ったのではなく、あくまでもイスタンブールのゲイハマムがどんなところかを知るために見にいっただけなので、それで別にかまわなかったのですが。

メインの浴室の隣にある狭い浴室の壁際のベンチに腰かけていると、向かい側に座っていた熊男がしきりと目で誘ってきます。

目くばせして一緒にここを出ようと合図するので、全然、趣味じゃなかったけれど、どこに行こうとしているのか興味があったので立ち上がって一緒にそこを出たのですが、連れて行かれたのは個室トイレが並ぶ一画。

このハマムでは気の合った客同士で個室トイレに入ってコトをいたすことになっているようでした。

一緒にトイレに入ることを断って、メインの広い浴室に戻って、中央の台に腰かけていたら、このハマムにはめずらしい20代とおぼしきそこそこイケメンの若い男が寄ってきて、
短刀直入にSEXしようと言い出しました。

You fuck me ? or I fuck you ?

と訊いてくるので、

No money ?

と訊き返したら、トルコ語で吐き出すような口調でなにやらいい返しました。

「金なんか欲しいと思ってないよ。馬鹿にすんな!」

といったのか、

「お前みたいなジジイとタダでやるわけないだろ!」

といったのか、よくわかりませんが、多分、後者だと思い、黙っていたら諦めたのか立ち去っていきました。

わたしは過去3回の訪イスタンブールでは、イギリス国王がトルコを訪問したときに訪れたという豪華な観光客向けのハマムや一般庶民が利用するフツーのハマムにはいきましたが、
いわゆるゲイハマムには、行ったことはありませんでした。

そもそもそのようなものが存在すること自体、知らなかったのですが、その後、ネットでホモが集まるハマムの情報に接するようになり、再度、イスタンブールに行く機会があれば、訪れてみたいと思うようになったわけです。

ただネット情報では、イスタンブールのホモが集まるゲイハマムは汚いところが多く、そこで客同士が派手に盛っているとか、三助がマッサージさせろとしつこくまといついてくるとかいわれていましたが、

前回、行ったヌール・ハマムも今回のフィルザガ・ハマムも内部は清潔で、三助がしつこく絡んでくることもなかったです。

フィルザガ・ハマムでは、客の全員がホモだったと思いますが、みんな個室トイレに行ってやっているのか、人前で派手に盛るようなことはなく、ちょっと物足りなかったです。

ただこのハマムに来ている30代、40代、50代の男たちは、全体的にレベルが高く、
ラウンド髭、胸毛、ガチムチ体型、巨根と日本の熊専が見たらよだれを垂らすような男たちばかりでした。

ということで、熊専の方は是非とも、イスタンブールに行って、トルコの熊親父たちと交流されることをお勧めします。

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イェニ・ジャーミー

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エジプト市場

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スレイマニエ・モスク

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スレイマニエ・モスクの入り口

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スレイマニエ・モスクの前庭から市街を望む

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イエニ通り

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フィルザガ・ハマム

続く

イスタンブールの休日(5)

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☆ ブルーモスク

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補修工事中のブルーモスク

イスタンブール滞在5日目は、トプカピ宮殿、アヤソフィア、ブルーモスクを回ることにしました。

これら三つにグランドバザールを追加したものがイスタンブールの定番観光スポットで、過去、三回のイスタンブール訪問では毎回、訪れていて、今回はパスしてもよかったのですが、

折角、イスタンブールに来ながら、これらの場所をパスするのは、カイロに行ってピラミッドを無視するようなもので、やっぱり行っておくべきだと思ったのです。

午前中、タクシーでトプカピ宮殿まで行ったら、朝9時半から入場できる筈なのにラマダンのせいで午後1時半からしか開かないとのこと。

それでトプカピ宮殿の後方に聳えるアヤソフィアに行くと、ここもラマダンのせいで午後1時からしかオープンしないといいます。

それで更に後方にあるブルーモスクへ。

ここはオープンしていて中に入ることができたのですが、現在、補修工事中だとかで、ドーム内部には工事用の支柱が何本も立っていて、あの神秘的なドームの雰囲気をぶち壊していました。

悪い時期に来てしまったと思って外に出ましたが、時刻はまだ10時半、トプカピ宮殿やアヤソフィアが開くまで暑い中、何時間も待つのは大変なので、これらの場所は翌日の午後に行くことに決め、

翌日、行く予定だったそこからあまり遠くないグランドバザールに行くことにしました。

ところがなんとグランドバザールも行ってみると、ラマダンのために閉まっていました。

この日を含めて3日間、休みだそうで、それを知っていたら、前日のうちに来ていたのにと思ったものの、後の祭り。

しかし連続3日間休みということは、ラマダンではなく、ラマダン明けの休日だったのかもしれません。

ラマダンが始まったのはちょうど1ヶ月前、ケニアにいたときだから、今頃がラマダンの終わる時期なのです。

イスタンブールで、ラマダンのことをあまり意識しなかったのは、ラマダン中であっても、ほかのアラブ諸国みたいに昼間、レストランが閉店するようなことはなく、屋台も普通に営業していて、

レストランでは、イスラム教徒である筈のトルコ人が昼間から堂々と食事をし、ビールを飲み、煙草を吸っていたからです。

トルコではイスラム教徒であっても、ラマダンの期間中に断食をしない人間が多く、周囲の人間もそれを許容しているようなのです。

それだけトルコ人は世俗的になっているということでしょうが、アラブ圏では、国によっては、非イスラム教徒の外国人であっても人前でモノを食べたり、煙草を吸ったりすると咎められることが多いので、

このトルコの自由さは、わたしの目には新鮮に映りました。

近年、アラブ諸国では、保守化が進行しているせいか、ラマダン中でなくともアルコールを出さないレストランが増えていて、酒類を売っている店も少なく、酒を飲むのに人目を憚るような雰囲気になっていますが、

イスタンブールでは、大抵のレストランでビールが置いてあるし、街中の雑貨屋みたいなところでも、店内の冷蔵庫にはミネラルウォーターやコーラやジュースのような非アルコール飲料と共に、

缶ビールや瓶ビールが入っていて、さらにはワインやウィスキーまで売っていて、酒好きには有難かったです。

トルコのビールの銘柄で多いのは、シリアのアレッポでも飲んだことのあるトルコ製のビールであるEfesとデンマーク製ビールとして知られるTuborgとCarlesberg。

なぜトルコでデンマークの銘柄のビールが多いのかよくわかりませんが、多分、トルコでこれらのビールを委託製造しているのでしょう。

もうひとつイスタンブールで驚いたのは、若い女性。6月といっても連日30度に達する暑い日が続いていたのですが、そんな中、タンクトップにショートパンツ、キャミソールのような肌を露出した服装の若いトルコ女性が多数、歩いているのです。

過去、イスタンブールには3回、訪れているのですが、いずれも冬の寒い時期だったので、女性の夏の薄着がいつ頃から見られるようになったのかよくわかりませんが、

トルコ共和国の建国の父、ケマル・アタチュルクが政教分離の世俗主義を国是として定めた以来の伝統ではないかと思います。

一方でヒジャブという呼ばれるスカーフを被って頭を覆っている女性もいますし、頭のてっぺんからつま先まで黒衣で覆い、顔も下半分はニカブという黒い布で覆っている女性もみかけました。

もっとも露出派と較べると彼女たちは少数でしたが。

いずれにせよ、ラマダン中であるにも関わらず、イスタンブールのレストランの通りに面したテラス席に座って公然と食事をし、ビールを飲み、煙草を吹かす肌を露出した若いトルコ女性を見たとき、ある種の感動を覚えましたね。

ケマル・アタチュルクが政教分離の世俗主義を国是としたおかげで、トルコの女性はこれだけの自由を享受しているのです。

そもそも、湾岸諸国などで見かけるあの黒ずくめの衣装を「イスラムの伝統」と呼ぶのは間違っています。

あれはイスラム以前の部族の衣装に過ぎないのです。

6月24日に再選された保守的な地方を支持基盤にしているエルドアン大統領は政教分離の国是を無視して、大学のキャンパスや公務員のヒジャブの着用を認めるなどイスラム保守路線に回帰しつつあるようですが、

地方ならともかく、イスタンブールのような大都市で生まれ育って自由を享受している若者たちが、彼のいうことに素直に従うとは思えません。


☆ トルコ料理

トルコ料理は、フランス料理、中華料理と並んで世界三大料理に挙げられているそうですが、ちょっと過大評価ではないかという気がします。

たとえば日本料理やタイ料理、イタリア料理などはトルコ料理に負けないだけのブランドを獲得しているし、内容もトルコ料理を凌駕しているような気がします。

それでもトルコ料理が旨いことに変わりありません。

わたしの好物はシシカバブで、滞在していたホテルの近くの横丁にあるレストランで毎日、食べてました。

シシカバブは羊肉を串刺しにしたもので、日本ではなぜか羊の肉が美味しくないんだけど、トルコで食べた羊肉のシシカバブは本当においしかったです。

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横丁の食料品店

続く
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