Quantcast
Channel: ジャックの談話室
Viewing all 194 articles
Browse latest View live

昨日の旅(21)

$
0
0

☆ デリー
ベナレスに数日、滞在したあと、また三等列車に乗ってデリーに向かった。
夜行列車に乗ったのだが、いつものように列車は混んでいて席には座すことはできず、一晩中、立ちっぱなしだった。
列車の座席は向かい合わせになっていて、乗客がぎゅうぎゅう詰めに座っていたが、ひとつだけ16、7歳のサリーを着た美少女が独占している座席があった。
詰めれば5、6人は腰かけられるその座席のスペースを彼女はひとりで占領し、座席の上に横たわって優雅にくつろいでいたが、ほかの立っている乗客が文句をいわないのが、不思議だった。
彼女には悪びれたところはまったくなく、艶然と微笑みながら、周囲を睥睨しているその様は、貧乏人しか乗っていない三等列車に間違って乗り合わせたお姫さまのようだった。

列車は24時間かかってデリーに到着し、デリー駅からデリーのユースホステルへタクシーで向かった。
デリーはインドの首都で、妃のためにタージマハールを建てたことで知られるムガール帝国の皇帝シャージャハーンが建設したオールドデリーと、インドがイギリス植民地になってからイギリスが建設したニューデリーから成っている。
ユースホステルはイギリスが建設したそのだだっ広いニューデリーの市街地から少し離れた小高い丘の上の雑木林の中にあった。
ホステルの宿舎は、かなり広い男女共用の大部屋で、木の枠の底板部分に縄で編んだ敷き布が張られている簡易ベッドが並び、宿泊客はその上に寝袋を敷いて寝るようになっていた。
宿舎は建てられてから一度も掃除されたことがないようで、床に溜まった埃は、10センチくらいの厚さになっていた。
朝、このホステルに長逗留しているらしいイギリス人の青年が「チャ~イ!」と叫ぶと、ホステルの管理人兼小遣いの初老のインド人がみんなのためにミルクティーを作ってもってくる。
ミルクティーと一緒にわれわれがモンキーバナナと呼んでいた短小のバナナが一房、付いてきて、それが朝食だった。
朝食の値段は、チャイが25パイサで、バナナが1ルピー、締めて1ルピー25パイサで、ホステルの一日の宿泊料は1ルピーだったので、朝食の料金の方が宿泊費よりも高かったことになる。

当時、公定レートで1ドルは7.5ルピー­、1ドル=360円で計算すると、1ルピーは50円ほどになる。闇レートでは1ドル9ルピーほどで1ルピーは約40円だったので、当然のことながら、両替は闇でおこなっていた。

昨今の1ルピー=1.8円などという為替レートを聞くと、この間の円高、ルピー安の進展の凄まじさに驚かされる。

毎朝、みんなのためにチャイを注文してくれるイギリス人の青年は、ガールフレンドと一緒にホステルに泊まっていたが、夜は全裸で寝袋に入って寝る習慣で、朝、起きると寝袋から全裸ではい出てきて、白いパンツを穿くのだが、
そのパンツはボロボロに破れていて原型をとどめておらず、穿いても腰の周りにボロ切れが垂れ下がっているだけの状態だった。

本来、布地で包まれるべき股間のモノも丸出しで、パンツの役目はまったく果たしていなかったのだが、それでも毎朝、律儀にそのボロ切れと化したパンツを穿く彼の姿にイギリス人の躾の良さのようなものを感じた。

わたしはデリーに着いてから、しばらくこの殺風景なホステルに引きこもってぼーっと過ごしていた。

情けない話だが、一人で外出するのが怖くなったのだ。

カトマンズからこっちずっと一人で旅してきたが、混みあった三等列車での移動に体力と神経をすり減らし、

デリー駅からユースホステルに向かうために乗ったタクシーでは、頭にターバンを巻いたシーク教徒の運転手に料金をボッタくられるという目に遭い、インド人の顔を見るのも嫌になった。

そんなわたしをユースホステルから連れ出してくれたのが、同じホステルに泊まっていたドイツ人のハンスだった。

彼は年の頃、20代半ば、ヤマハの360ccのオートバイを持っていて、そのオートバイに乗ってドイツからインドまでやってきたという。

彼の最終目的地は日本で、1年か2年滞在して茶の湯と柔道を習いたいといっていた。

「君は日本では毎日、家でティーセレモニーをやってるのかい?」

と訊かれて、高校の家庭科の時間に学校の和室で茶の湯の真似事を経験しただけのわたしは答えに窮した。

「日本では茶の湯なんて一部の人間しか嗜まないよ」

といいたかったけど、せっかくの彼の夢を壊すのも気の毒な気がして黙っていた。

ハンスはわたしをオートバイの後部座席に乗せて、デリーのあちこちの観光名所に連れていってくれた。

しかし、どんなところに行ったのか、殆ど覚えていない。

このときだけでなく、その後の旅行の経験からいっても、車をチャーターして何ヶ所かの名所旧跡を短時間に効率よく回ると印象が散漫になり、あとから思い出そうとしてもよく記憶していないことが多いのだ。

このとき行った場所で、今でも覚えているのは、下から見上げるとピサの斜塔みたいに傾いて見えるクトゥブ・ミナールという塔だけである。

それでもわたしをあちこち連れまわしたハンスには感謝している。

彼のお陰で、わたしの引きこもりは重症にならず、比較的早期に治ったからだ。

続く

昨日の旅(22)

$
0
0

☆ デリー(続き)
デリーのユースホステルに宿泊していた中で、ひどく落ち込んでいた人間がいた。
アンドリューというイギリス人の青年で、3週間前に所持していたトラベラーズ・チェックを全額、盗まれたのだという。
トラベラーズ・チェックは盗まれても、番号を控えておけば、再発行を受けることができる。
ただ、再発行を受けるためには、そのトラベラーズ・チェックを発行したイギリスの銀行の支店にまで出向く必要があるという。
アンドリューは、今、インドにいるからイギリスに行くことができない。
それでイギリスにいる両親に手紙を書いて、トラベラーズ・チェックを発行した銀行の支店に行って再発行の手続きをして、再発行されたトラベラーズ・チェックをその銀行のデリーの支店で受け取れるようにして欲しいと頼んだという。

「今朝、お父さんが玄関の郵便受けに郵便物を取りにいったとき、突然、お父さんの大きな叫び声が聞こえました。そのとき、私はすぐにあなたの身になにか起こったのだと直感しました。。。。再発行の手続きはすぐにします。。。」
アンドリューが見せてくれた彼の母親の手紙にはこう書いてあったが、母親から再発行の手続きをしたという手紙が届いたにもかかわらず、新しいトラベラーズ・チェックが中々、デリーの銀行の支店に届かないのだという。
新しいトラベラーズ・チェックが届くまでは、金を遣うことができないので、アンドリューはやることがなく、ユースホステルに閉じこもって、悶々と時を過ごしていたのだが、 彼の母親の手紙を読んで、国籍に関係なく、海外貧乏旅行に出かけた息子を想う母親の気持ちは同じだなと思った。

当時のインドでは、アンドリューのようなイギリス人の若者の旅行者を多数、みかけた。

イギリスの中流の下くらいの階級の人間が多かったように思うが、そのほとんどがヒッピーみたいな汚いなりをした貧乏旅行者であったにも関わらず、

インド人にたいしては非常に横柄な態度で、ちょっとでも気に食わないことがあると怒鳴り散らしていた。 そして不思議なことにインド人たちは、彼らに怒鳴られても反論せず、卑屈な態度で応対していた。

インドがイギリスから独立して20年も経っているにも関わらず、イギリス人の若者がインドでまだ植民地の宗主国の人間であるかのように振舞い、

インド人がそれにたいして反抗的な態度を見せずに受け入れているのが、わたしには不思議でならなかった。

もっとも現地の人間にたいして傲慢な態度を示すのは、イギリス人だけでなく、すべての白人旅行者に共通していたことで、旅行中には白人旅行者による理不尽な行為を目にする機会が多かった。

たとえば、アフガニスタンを白人旅行者のグループと一緒にバスで旅行していたときのことである。

わたしたちのグループは、最後にバスに乗り込んだので、バスは後部座席しか空いていなかった。

それで仕方なく、みんな後部座席に座ったのだが、後部座席は座り心地がよくない。

ところが、途中でトイレ休憩があってバスに戻ってきたとき、わたし以外の白人の旅行者たちは、ほかの乗客への断りなしに、前の方の座り心地のよい座席に移ってしまったのだ。

それらの座席はすでに現地人の乗客が座っていた座席で、当然のことながら、彼らは自分たちの座席を占拠している白人旅行者に文句をいったのだが、

白人旅行者たちはその苦情を無視して、座席に居座り続けたのだった。

わたしはインドからトルコまで陸路で旅している間によく現地人の若者から親しみを込めて話しかけられることがあったが、そういうとき、彼らはわたしと一緒にいる白人旅行者の存在は完全に無視していた。

いまから思うと現地の若者の間には、自分たちの国に来て傍若無人に振舞う白人旅行者にたいする反感があったのかもしれない。

幸いなことに、現在では発展途上国を旅行する白人ツーリストの間で、このような人種差別的な行動を取る人間をみかけることは少なくなった。

まったくいないわけではないが、昔と比べると随分と減ってきている。

それだけ白人旅行者のマナーが向上してきているということだが、逆にいえば、白人たちはほんの50年ほど前までは、平気で人種差別をやっていたのである。

アンドリューの待ちに待ったトラベラーズ・チェックが届き、アンドリューは、そのお祝いだといって、わたしをコンノート・プレースの高級レストランに連れていってくれた。

白いリネンのテーブルクロスのかかったテーブルに、銀の食器が並んでいるレストランで、白い制服を着て頭に白いターバンを巻いて、立派な髭を生やした中年のインド人の給仕がサービスしてくれた。

食事料金は一人頭、5ルピーくらい、アンドリューが気前よく1ルピーのチップをはずむと、インド人の給仕は最敬礼して受け取った。

レストランの帰途、アンドリューが、

「しまった! もう銀行が閉まる時間だ。ブラックマーケットで両替しなければならない」

といいだしたので、何をいってるのか意味がわからず、彼の顔をみてしまった。

インドでは、安い公定レートでしか両替できない銀行を避けて、街中のブラックマーケットで両替するのが旅行者の常識だったので、ブラックマーケットでしか両替できないという彼の言葉が理解できなかったのだ。

実はこの時期、1ポンド=1008円だったイギリスポンドが864円にまで大幅に切り下げられたのだった。

イギリスは昔、七つの海を支配するといわれた帝国だったが、第二次大戦後は、植民地が次々と独立したために、かってのように植民地から富を得られなくなっていた。

その結果、戦後、イギリス経済は急速に衰退していったのだが、その衰退がはっきりと目に見える形で現れたのが、このときのポンド切り下げだった。

この急速かつ大幅なポンドの切り下げによって、ブラックマーケットのポンドの交換レートが銀行の公定レートを下回るという逆転現象が起こってしまったのである。

この後、イギリスは、70年代後半にサッチャー首相が現れるまで、「イギリス病」と呼ばれた長期の経済低迷に悩むことになる。

続く

昨日の旅(23)

$
0
0

☆ インドを旅行するということ

デリーでしばらく骨休みをしたあとアグラにいって、インドという巨大なゴミ溜めに落ちている一粒の真珠といった風情のタージ・マハールを見物し、アグラからそのまま鉄道でパキスタンに向かった。

当初は、インドにもっと滞在し、南インドを回る計画だったが、その気はなくなっていた。
カルカッタから始めて2週間ほどインドを旅行しただけで、インドはもう懲り懲りという気分になったのだ。

カルカッタで目撃した凄まじい貧困、インド・ネパールの国境からベナレスまでの鉄道での移動の大変さ、デリーで出会った悪質なタクシー運転手、どれをとってもインドを好きになる理由などなかった。

実際、このときの初インド旅行を後から振り返ると、大変な災難に遭遇して命からがら逃げ出したという心境だった。

現実にインド旅行中になんらかの災難に出会ったわけではないのだが、わたしにとってはインドという国自体が災難のようなもので、インドを旅行すること自体が大変な困難を伴ったのだ。
インドに来るまでは、この世界にインドのような国が存在するとは想像もしていなかったし、
インドを旅行したあとも、インドについて思い出すたびに、もしかしたら自分はインドというこの世には存在しない別の宇宙に迷い込んだのかもしれないと思ったりした。



こんな風にインドの初印象が大変悪かったことから、当然のことながら、またインドを旅行しようなどという気には中々、なれなかった。
それでも、わたしはその10年後にまたインドに行った。
ヨーロッパで仕事をした帰りで、日程に余裕があったので、会社から支給されたパリ・東京間の北回りの航空チケットを南回りのチケットに変更し、ローマ、ボンベイ、バンコクに数日ずつ途中降機しながら帰国する計画を立てたのだ。

仕事帰りで懐に余裕があったことから、ボンベイでは一流ホテルに泊まり、ボンベイからアウランガバードに飛行機で飛んで、アウランガバードを拠点にインドの有名観光地であるアジャンタの壁画とエローラの石窟寺院を見てまわった。

アウランガバードでも一流ホテルのアショカホテルに滞在したが、その結果、分かったのは、インドという国は、金さえ使えば快適に旅行できる国であるということだった。

インド旅行というと貧乏旅行のイメージが強いが、わたしはインドを旅行するときこそ、贅沢を味わうべきだと考えている。

全体的に物価が安いので、少々贅沢しても日本円に換算すると大したことがないし、マハラジャの宮殿を改造した豪華な宮殿ホテルに泊まったり、

各地の一流レストランで食事をして、その土地のグルメを味わうのは、インドならではの楽しみで、インドが貧しいだけの国ではないことがよくわかる。

その後、40代はじめに仕事の面で行き詰まりを感じ、三年間続けて毎年、3週間ほどインドを旅行したことがある。

一年目は、スリランカとコヴァラムビーチのある南インドのケララ州を回り、二年目は、ラージプートのマハラジャたちが建てた豪華な宮殿や城砦が残っているラジャスタン州を回り、三年目はボンベイを起点にぐるっと南インドを一周した。

このときのインド旅行では、若いときのような貧乏旅行ではなく、そこそこ金を遣ったので、快適に旅行することができた。

都市間の移動は、もっぱらエアコン付きの二等寝台列車を利用した。三等のように貧しいインド人の乗客は乗っていないので物を盗られる心配はなく、乗客は英語に堪能な中産階級以上のインド人ばかりだったので、彼らと興味深い会話を楽しむことができた。

訪れた各都市では、インドの国産車、アンバサダーのタクシーをチャーターして、観光地をまわった。タクシーは一日8時間チャーターしても日本円で3000円ほどで済んだ。

各都市に滞在中は、昼食は、その都市の一番の高級ホテルのビュッフェランチに行った。日本円で1500円ほどで一流ホテルのシェフが作る料理を味わうことができるのだ。

ホテルは主として中級ホテルに泊まったが、時々、気分転換でボンベイのタージ・マハールホテルの旧館や映画『007オクトパス』の舞台になったウダイプールの湖上に浮かぶレイク・パレス・ホテルなどの高級ホテルにも泊まった。

この時期の旅行では特に南インドの魅力にハマった。南インドは北インドと較べて生活水準が高く、北にはウジャウジャいる乞食は少なく、人間は人懐っこくて温厚で、素晴らしいヒンズー建築が沢山残っている魅力的なところだった。

インドを旅行してインド嫌いになる人が多いのは、一つには最初に旅行するのがヒンズー教の聖地のベナレスやタージ・マハールがあるアグラなどの北インドが中心になるためではないかと思う。

北インドでは、観光客目当ての乞食が数多くいて、行く先々で付きまとわれるし、乞食以外でも観光客にたかる悪質な自称ガイドや土産物屋の客引きなどにしつこく付きまとわれるので、それでインドが嫌いになる人も多いのではないかと思う。

若いバックパッカーの場合は、インドでの貧乏旅行に特有の不潔さ、不便さ、不快さが加わるので尚更である。

ただインドという国はそんなに簡単に嫌いになってしまうのはもったいない国であるのも事実で、貧乏旅行に徹するのではなく、もう少し金を遣って快適さを求めて旅行をした方がいいと思うのだ。

結局、わたしはこれまで6回くらいインドに行っているが、それでもカルカッタにだけは二度と足を踏み入れていない。

カルカッタでの体験はいまだにわたしの心にトラウマとなって残っていて消えていないし、「カルカッタは行かなければそれに越したことはないところだ」というわたしの印象はいまも変わっていないのだ。

続く

昨日の旅(24)

$
0
0

☆ ペシャワールへ

デリーからアグラへ行って、タージマハールを見物したあと、そのまま鉄道でパキスタンのラホールに向かった。

たしかフェロスポールというインド側の鉄道の駅を通って国境を越えたと覚えている。

ラホールは、ムガール帝国の古都として栄えたところだが、私の記憶に残っているラホールは、舗装されていない泥んこ道に馬糞が散らばっている汚い町だった。

馬糞が目立ったのは馬車が多いせいで、パキスタンでは、自動車も走っていたが、馬車もまだ現役の輸送手段として活躍していたのだ。

ラホールには泊まらずに、そのままアフガニスタンとの国境の町、ペシャワール行きの夜行列車に乗り継いだ。

列車は、ラッシュアワーの日本の通勤電車並みの混みようで、一晩中、立ちっぱなしだった。


わたしの前に田舎の伊達男といった感じの三つ揃いのスーツを着た若い男が立っていて、わたしの身体に触ってくる。

Don’t touch me ! と叫んだが効き目がない。

You arebeautiful ! などといいながら平気で触ってくる。

周囲の男たちは、好色そうな目つきで、ニヤニヤ笑いながら見ている。
普通だったら離れた場所に移動するのだが、満員電車並みの混み具合なのでそれもできない。
パキスタンは、日本人バックパッカーの間ではホモの国として知られているそうだが、この国を旅している間中、男たちのセクハラに悩まされた。
朝、ペシャワールに着いて、リュックを駅に預けて身軽になって町に出た。
ペシャワールの町では、大柄で背が高く頭にターバンを巻いて顎鬚を生やした精悍な顔つきのパシュトゥーン人をよく見かけた。
彼らは、ライフルを肩から吊るし、銃弾ベルトをけさ掛けにして通りを歩いていて、まるで西部劇だった。
パシュトゥーン人は、アフガニスタンにも住んでいて、現在、タリバンの主力を構成しているが、銃の名手として知られている。
崖の上から下の道を通るトラックをめがけて撃って、トラックの運転手が咥えているタバコの先端だけを撃ち落とすことができるといわれている。
パシュトゥーン人が持っている銃はすべてペシャワールの町の工場で作られている。
町工場で作られているのはすべて欧米製の銃器の模造品で、町には銃器店が何軒もあり、それら模造品が堂々と売られていた。
そんな銃器店の一つを見つけ、めずらしいのでショーウィンドウを覗いていたら、店の中にいた恰幅の良い親父が手招きして中に入って来いという。
親父に日本人かと訊かれ、そうだというと、自分は昔、神戸に行ったことがある。日本は大好きだと歓迎してくれた。
親父は店内に陳列してある様々な銃をみせてくれ、有名なコルト45(これも模造品だったが)を手にとって触らせてくれたりした。
今晩はどこに泊まるのか、と訊くので、ユースホステルに泊まる予定だというと、ユースホステルはやめとけ、汚いし、床に直接、寝なければならない、ユースホステルに泊まるくらいなら、俺の家に泊めてやるから来ないか、という。
親父は親切そうな人間に見えたが、インドを旅行したあとだったので、親切なことをいって近づいてくる人間には注意しなければならないことは知っていた。
それでとりあえずひとりになって考えようと思い、親父に駅に預けたリュックを取りに行くといってその店を離れた。
駅に戻ってリュックを受け取り、待合室のベンチに座ってどうしようかと考えた。
散々、考えたあげく、あの親父に悪意はなく、純粋に親切心から家に泊まれといってくれているのだという結論に達した。
なにより、ユースホステルでは床の上に直接、寝なければならないといわれたのが大きかった。前の晩、夜行列車で一睡もできなかったので、今夜くらいまともなベッドで寝たかったのだ。
しかしあとから考えてみたら、床に直接、寝なければならないというのは親父の言葉であって、それが本当だったかどうかはわからない。わたしを自分の家に泊まる気持ちにさせるためにわざとそう言った可能性もあるのだ。
実際、親父はわたしにたいして悪気はなかったと思うが、別の下心はあったのだ。
だいぶ時間が経ってから銃器店に戻ると、親父が駆け寄ってきて、「どうしたんだ。中々、戻って来ないから心配したよ」といった。
昨夜、寝ていないといったら、夕方、店を閉めるまで二階の部屋で寝ていろといって、ベッドのある部屋に案内してくれた。
そこで夕方まで休んで、店を閉じた親父と一緒に近くの屋台のような食堂に行って、馬糞みたいな大きさの羊肉のハンバーグを食べた。付け合わせはスライスした生の玉ねぎだった。
この野趣溢れる夕食をとったあと、親父と一緒にオートリキシャで、町の郊外にあるという親父の家に向かった。
いつのまにか、親父の弟という中年男も一緒に乗ってきて、わたしは大男二人に挟まれた形で座ることになった。
親父は家はすぐ近くだといったが、中々、着かない。もう夜になっていたが、月は出ていず、あたりは真っ暗闇だ。
行けども行けども車は停まる気配はない。
わたしはだんだんと心細くなってきた。
こんなところで殺されて金品を盗られて死体を捨てられても、絶対にわからないだろう。
親父の甘言につられて付いてきてしまった自分の軽率が悔やまれた。
「まだ着かないの?」と何度も尋ねたが、親父は「もう少しだ」というだけである。
そのうち、You are very cute ! などと言い出して、わたしの身体を抱くので怖くなり、ペシャワールの町に帰りたい!と言い出したら、親父はびっくりして、「大丈夫だよ。心配ないよ」と子供をあやすようにいう。
わたしはベソをかいて、何度もペシャワールの町に戻ってくれと哀願し、そんなわたしを親父が必死でなだめているうちに、車は突然、停まった。
鼻をつままれてもわからないほどの完全な真っ暗闇で、周囲になにがあるかまったくわからない。
「ここで殺される」

とわたしは思った。

続く

昨日の旅(25)

$
0
0

☆ ペシャワールの恐怖の一夜

ペシャワールの町で銃器店の親父と知り合って、彼の家に泊めてもらうことになった。

親父は人の良さそうな人間で、悪い奴には見えなかったので、好意に甘えることにしたのだ。

親父の仕事が終わって店のシャッターを降ろし、近くの食堂で羊肉のハンバーグの夕食をとってから、オートリキシャに乗って親父の家に向かった。

しかし「すぐ近く」にあるという親父の家に走っても走っても着かない。

その夜は、月の出ていない完全な闇夜だった。

こんな人里離れたところで殺されて金品を奪われ、死体を捨てられても誰にも見つからないだろう、と思うと、だんだん怖くなった。

そのうち親父は You are very cute ! などと言い出してわたしの身体に触ってきたので、わたしはパニックに陥った。


「ペシャワールの町に戻る」と言い出したわたしを親父が必死になだめているうちに車は突然、停まった。

鼻をつままれても分からないような真っ暗闇で、周囲に家があるように見えない。

わたしは、てっきりここで「殺される」と思った。

しかし、わたしは殺されなかった。

実際にオートリキシャが停まったところに親父の家があったのだ。

そこはたぶん、母屋から離れた客を泊めるための独立した棟で、中は20畳ほどの広さで、土間の上に質素なベッドが二つ置いてあった。

わたしは片方のベッドで寝て、親父はもう片方のベッドで寝たが、疲れていたわたしはすぐに寝入ってしまった。

夜中に手の指先がなにかぶよぶよしたものに触れる感触で目が覚めた。

見ると親父がわたしの横に添い寝していた。

ぶよぶよした感触は、親父の太鼓腹だったのだ!

なぜ親父がわたしのベッドにいるのか!

咄嗟にわたしが思ったのは、親父がわたしの金を盗みにきたのではないか、ということだった。

わたしはトラベラーズチェックや現金、パスポートなどの貴重品は、貴重品袋に収めて腹巻に入れていた。

慌てて腹巻に手をやると、貴重品袋は腹巻の中にたしかに納まっている。

ホッとすると同時に金目的でないなら、なぜ親父がわたしのベッドにいて、わたしに添い寝しているのだろう?という疑問が湧いてきた。

なんともいえない気味悪さと恐怖が襲ってきた。

わたしは半分、寝ぼけながらも、必死で親父にベッドから出ていくように哀願し、親父は「よしよし、わかった」という感じで、わたしの肩をポンポンと叩いて、そのままベッドを出ていった。

親父がベッドから出ていったことを確認したわたしは安堵し、また寝入ってしまった。

目が覚めたらもう朝だった。

親父がミルクティーとビスケットという簡単な朝食を盆に載せてもってきた。

ベッドの前の小さなテーブルに向かい合って座ってそれを食べたが、親父は前夜の出来事についてなにもいわなかったし、わたしもなにも訊かなかった。

お互い無言のままで一言も口を効かず、黙々と朝食を食べたが、親父はかなり気まずそうな顔をしていた。

朝食を食べ終わって、ペシャワールの町に帰りたいと親父にいうと、家の前を通る乗り合い馬車に乗れば帰れるという。

家を出るとすぐに乗り合い馬車がやってきた。

馬車の荷台には、ペシャワールの町に働きに行くらしい男たちが乗っている。

もう11月も半ばをすぎていて早朝の空気は肌寒く、男たちはみんな身体にショールを巻いていて、吐く息は白かった。

馬車に乗ったわたしは、馬車を牽く馬のポカポカという蹄の音を聴きながら、

「昨夜のアレはいったいなんだったんだろう」

とぼんやり考えていた。

その期に及んで、わたしはまだ親父の意図するところを計りかねていた。

二十歳のわたしはそれだけ純情だったのだ。

続く

昨日の旅(26)

$
0
0

☆ カイバル峠を越えて

ペシャワールの町に戻ると、カブール行きのバスチケットを買うために、真っすぐバスターミナルに向かった。

男たちからセクハラばかり受けるパキスタンからは一刻も早く逃げ出したかった。

バスターミナルでカブール行きのチケットを買ったあと、近くのアフガニスタン領事館で、2週間のアフガニスタンのトランジットビザを取った。

本来ならば、まずアフガニスタンのビザを取ってからバスチケットを買うべきだったのだろうが、バスターミナルで、近くの領事館で30分もあればビザを取得できるといわれたのだ。

実際には、ビザを取るのに30分ではなく40分かかり、バスターミナルに戻ってみると、わたしが乗る予定だったカブール行きのバスは出発したあとだった。

慌てて近くにいた車をもっている地元の人間に頼んで、バスを追いかけてもらい、町の出口のところでようやくバスに追いついて、やっとバスに乗り込むことができた。

現在、観光目的でアフガニスタンのビザを取得することは事実上、不可能である。

それを考えると30分の予定が40分に延びたといっても、国境で簡単にアフガニスタンのビザが取れたのは今では考えられないことだ。


当時、この地域を旅行するのは今よりずっと簡単だった。

パキスタンとイランは、日本と相互ビザ免除協定を結んでいたので、日本人旅行者はこれらの国に入国するのにビザを取得する必要がなかった。

この状態は長く続いたが、80年代半ばに日本がバブル景気になって、ビザが不要なのをいいことに大量のイラン人とパキスタン人が日本にやってきて、上野公園がイラン人で溢れるという事態になって、

慌てた日本政府は、両国とのビザ相互免除協定を廃止し、互いの国民は、相手国を訪問するのにビザの取得を義務付けられるようになった。

お陰で日本の街角からイラン人やパキスタン人は姿を消したが、日本人がこれらの国を旅行しようと思えば、ビザを取得しなければならなくなったのだ。

バスは、カイバル峠を通って、アフガニスタンに入っていった。

カイバル峠は、古来より文明の交差点として重要な役割を果たし、北インドと中央アジアを結ぶ交通の要衝になっている。

ヒマラヤ山脈とタール砂漠という天然の要塞に守られた北インドは、外部から侵入するのが容易ではなく、唯一、この峠を通って侵入するしかない。

そのため、紀元前1500年のアーリア人、紀元前4世紀のアレキサンダー大王、さらに北部インドにいくつものイスラム王朝を打ち立てた中央アジアのイスラム勢力もすべてこのカイバル峠を通ってインドに侵入した。

イスラム王朝の中で一番有名なムガール帝国も、中央アジアを追われた開祖バーブルがカイバル峠を越えて北インドに侵入して建てたものである。

更に19世紀のアフガン戦争では、アフガニスタン征服を目論んだイギリスもこのカイバル峠を越えてアフガニスタンに侵入している。

そのほか、ジンギスカンやマルコポーロ、西遊記で知られる三蔵法師もこのカイバル峠を越えたといわれている。

このように古来から幾多の征服者や交易者が往来した結果、現在のアフガニスタンの民族構成は複雑多様になっている。

たとえば、アレキサンダー大王に率いられてこの地にやってきたギリシャ軍の兵士はそのまま住み着いた者も多く、その末裔は今もアフガニスタンに住んでいるという。

バスでわたしの隣の窓側の座席に座っていたアフガニスタン人の少年は、純朴な雰囲気を漂わせていたが、整ったギリシャ系の顔立ちをしていて、もしかしたら、彼の祖先はギリシャ人ではないかと思った。

反対側の通路側の座席に座っていたバスで知り合ったオーストラリア人旅行者のジムに、

「ほら、彼を見てごらん。ギリシャっぽい顔立ちだと思わないかい? きっと彼の先祖はアレキサンダーの兵士だったんだよ」

といったら、ジムは面白がって、その少年に向かって、

「おい、お前のご先祖さまはギリシャからやってきたのかい?」

とからかうように訊いたが、英語が理解できない少年は困惑した表情を浮かべるだけだった。

そのほかにアフガニスタンには、ハザラ族という、外見は日本人と変わらないモンゴロイド系の民族も住んでいて、彼らは蒙古の末裔だといわれている。

バスがカイバル峠を越えると、一面の荒野が広がっていて、右手はるかにヒンズークシ山脈が聳え、ラクダの隊商が悠々と歩を進めているのが見えた。

わたしのイメージするシルクロードそのままの風景で、過去、この道を通った多くの旅人と同様、自分もまたこの歴史的に有名なルートを通って、カブールに向かっているのだと思うと、あらためて感慨が湧いてきたのだった。

f0107398_18072768.jpg
カイバル峠

続く

昨日の旅(27)

$
0
0

☆ カブール

バスがカブールに着いたのは夕刻だった。

1800メートルの高地にあるせいか、11月下旬のカブールはかなり寒く、町ゆく人は外套を着て、一見して、ロシアや東欧の町のようだった。

町は思っていたよりもずっと清潔で、市場には、リンゴやブドウ、イチジクやザクロ、柿などの果物が山盛りにして売られていて、辺りには甘い香りが漂っていた。

インド、パキスタンと追われるように旅してきたわたしは、このカブールに着いて、やっと静かなやすらぎを味わうことができた。

現在、アフガニスタンではタリバンと政府軍の間で戦闘が続いていて、いっこうに収まる気配がないが、この頃のアフガニスタンは平和そのもので、桃源郷のようなところだった。

現在と違って国際ニュースを賑わせることもなく、世界の動きから完全に取り残されていたが、滞在するには快適だった。


当時、アフガニスタンは王国で、商店などに王様の肖像写真が掲げられていたが、欧米人旅行者の間では、この王様がイギリスのコメディ俳優のピーター・セラーズに似ていると評判だった。

1973年のクーデターで王政は廃止され、王様はイタリアに亡命することになるのだが、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロの報復として、

アメリカがアフガニスタンを空爆、タリバン政権を倒して傀儡政権を樹立したとき、テレビのニュースで、ローマに亡命していた王様の姿を久しぶりに見る機会があった。

「まだ生きていたのか!」というのが正直な感想だったが、齢はとっていたものの、ピーセラの面影はまだ残っていて、懐かしかった。

アフガニスタンでは1973年の王政を倒したこのクーデターのあと、1978年に再びクーデターが起こり、親ソ政権が樹立された。

しかし、これに反発するイスラム原理主義ゲリラ、ムジャヒディーンとの政府軍の間で戦闘が激化し、親ソ政権を支援するためにソ連がアフガニスタンに侵攻する事態になった。

ソ連のアフガン侵攻は国際的に非難され、1980年に開催されたモスクワオリンピックは、日本を含む多くの西側諸国がボイコットしたが、

ソ連軍は、アフガニスタンでイスラム原理主義ゲリラ、ムジャヒディーンの激しい抵抗に遭い、戦闘は泥沼化し、成果を挙げることなく10年後に撤退せざるを得なくなった。

このアフガン侵攻の失敗がソ連崩壊の一因になったといわれているが、このとき反政府ゲリラのムジャヒディーンを支援したのがアメリカで、

この反政府ゲリラから後のタリバンやアルカイダなどのイスラム原理主義勢力が生まれ、アルカイダは9.11テロを引き起こすに至る。

簡単にいうと、アメリカは自分が育てた飼い犬に手を噛まれたのである。

元々、アフガン戦士は質実剛健で、勇猛をもって聞こえている。

19世紀から20世紀初頭にかけて戦われたイギリスとの三次にわたるアフガン戦争でも、最後はイギリス領インドに攻め込んで、イギリスを撤退させている。

ソ連によるアフガン侵攻も結局、失敗に終わったし、アメリカによるアフガン空爆で殲滅された筈のタリバン勢力もいつの間にか息を吹き返し、現在では国土の7割を支配下に置いているという。

アフガン人というのはかように手強い相手なのだが、中世の雰囲気をまだ残している平和で素朴な中東の小国だったアフガニスタンが、

その後、世界情勢に大きな影響を与えるイスラム原理主義テロリストの揺籃の地になるとは、当時は想像もしていなかった。

ただカブールにいたとき、街中にレーニンなど社会主義ソ連関係の書籍を売る本屋があったことは覚えている。

おそらくソ連政府直属の機関が運営していたのだろうが、ソ連のアフガン侵攻のニュースを耳にしたときその本屋のことを思い出し、当時からすでにソ連の影響力が強い国であったのだと納得した。

いずれにせよ、わたしがいた当時のカブールはとても治安が良く、欧米人のヒッピーが沢山、集まって、ハッシーシを吸って楽しんでいた穴場的な町だった。

ヒッピー達が好んで集まってくる場所には共通点がある。

まず物価が安いこと。そしてヒッピー達の異文化指向を満足させるだけの異国情緒に溢れていること。マリファナやハッシーシが安く簡単に手が入ること、そして住民がヒッピーをはじめ外国人に友好的なことである。

そのような条件を満たすヒッピーお気に入りの場所は、アジアに3ヶ所あった。

ネパールの首都のカトマンズ(Kathmandu)、バリ島のクタ(Kuta)ビーチ、そしてカブール(Kabul)の3ヶ所で、その頭文字をとって3Kと呼ばれていた。

なにより大切なことは、Love and Peaceがスローガンのヒッピー達にとって、これらの場所が、平和に穏やかに暮らせるところだったことだ。

戦火の続くアフガニスタンがかっては、ヒッピー達に愛された平和な桃源郷であったことを覚えている人は、今では殆どいないだろう。

続く


昨日の旅(28)

$
0
0

☆ バーミヤン・ホテル

カブールでは、一泊100円ほどのバーミヤン・ホテルというバックパッカーご用達の安宿に泊まった。

このバーミヤン・ホテルのトイレは汲み取り式で、わたしたち日本人は子供の頃に経験していたので驚かなかったが、欧米人の宿泊客には相当、カルチャーショックだったようだ。

あるオランダ人の青年は、トイレで大の用を足していたときお釣りを貰ったといって大騒ぎしていた。

バーミヤン・ホテルの部屋は、50人くらいは収容できる大部屋で、部屋の両側にベッドがずらっと並んでいて、男女関係なく、好きなベッドで寝ることができた。

わたしのベッドの両隣は、ペシャワールからカブールに移動するバスで知り合ったオーストラリア人のジムとカブールに来てから仲良くなったスコットランド人のジェーンだった。

ジムはどこで手に入れるのか知らないが、ハッシーシを持っていて、夜になると煙草の葉と混ぜてジョイントを作った。

それを三人で順に回して吸うのだが、暫くしてハッシーシが効いてくると、互いに顔を見合わせてクスクス笑い合った。ハッシーシをやると陽気になるのである。

大部屋は男女混合だったので、泊まっているカップルの中には、隣り合わせのベッドをくっつけて、頭から毛布を被ってコトに及ぶ大胆なカップルがいて、

女性の喘ぎ声が漏れはじめると50人はいる大部屋は緊張した静寂に包まれ、全員が耳を澄ましていたことを覚えている。

☆ レストラン・カイバル

わたしたち貧乏旅行者のカブールにおける溜まり場は、バーミヤン・ホテルの近くのレストラン・カイバルだった。

レストラン・カイバルは、玄関に門衛が立っている立派な門構えのカブール一の高級レストランだった。

なぜそんな高級レストランがわたしたち貧乏旅行者の溜まり場になっていたかというと、全体に物価が安いので、高級レストランといっても、わたしたちにとってはそれほど高く思えなかったのだ。

レストラン・カイバルで食事を取ると一食200円くらいしたが、

カブールの街中の食堂では、羊の肉と干しブドウを混ぜたピラフとスープと生野菜のサラダにナンと呼ばれる楕円形の大きな平たいパンを半分に切ったものが付いた定食が50円から80円で食べられた。

それでレストラン・カイバルでは食事を取ることはめったになく、もっぱら一杯50円のコーヒーを飲んでいた。

街中のチャイハナでは、お茶が一杯10円くらいで飲めたので、50円のコーヒーも高いと言えば高いのだが、清潔で広々した店内で、コーヒー一杯で何時間もねばることができたのでコスパは悪くなかった。

ちなみにレストラン・カイバルはセルフサービス方式だった。

なぜアフガニスタン一の高級レストランがセルフサービス方式だったのか、よく分からないが、おそらく当時のアフガニスタン人にとって、

セルフサービス方式のレストランが西洋風の最新式のレストランに映ったからではないかという気がする。

実際、カウンターにトレイを載せてカウンターの向こう側にいる料理人に料理を注文してトレイに載せてもらう方式は、アフガニスタンでやると新鮮で、ハイカラな感じがしたものだ。

店内には外国人の客だけでなく、アフガニスタン人の客もいたが、アフガニスタン人の客は中流以上のパリッとした三つ揃いのスーツを着こなした男性が多かった。
女性の客はまったく見かけなかった。

アフガニスタンは現在でもそうだが、当時からイスラム圏の中でも特に保守的な土地柄で、たとえ家族同伴であっても、女性がレストランに入ることはなかった。

通りでみかける女性たちは身体だけでなく、顔もすっぽり覆うブルカというテルテル坊主みたいな衣装を身に着けて歩いていた。

ほかのイスラム圏では、ベールを被っていても、少なくとも目は露出しているが、ブルカは顔面を完全に覆ってしまう。

顔の前の部分は網目状の布でできているので、網目を通して中から外を覗くことができるらしいが、外からはブルカを着ているのがどのような女性であるかまったく分からない。

そもそも男性がブルカを着ていても、外見からでは分からないのではないかと思う。

というような訳で、レストラン・カイバルの現地人の客は男性しかいなかったのだが、 わたしたち外国人の貧乏旅行者と現地の中流以上のアフガニスタン人男性が交流するというある意味、めずらしい光景がこのレストランで見られたのだ。

レストラン・カイバルに来るアフガニスタン人はなぜかみんな切手を欲しがった。

彼らはアフガニスタンの切手をもっていて、それをわたしたち外国人が持っている外国の切手と交換したがるのだ。

わたしもレストランで知り合ったアフガニスタン人に日本の切手は持ってないかと訊かれ、持っていた日本の切手を見せると興味を示して、アフガニスタンの切手と交換してくれといわれた。

ただ問題は交換レートで、彼らは、アフガニスタンの切手一枚を日本の切手5枚くらいと交換したがるのだ。

まさか商売でやっていたとは思えないが、その厚かましい態度にうんざりして、そのうち彼らと切手交換するのを辞めてしまった。

彼らは身なりからしてそれほど貧しい階層の人間には見えなかったが、その駆け引きにみられるがめつさはやはり中東人だった。

それでもアフガニスタン国内をバスで移動中にチャイハナで休憩してお茶を飲んでいるときに話しかけてくる現地の若者たちは、

何の下心もなく、純粋に日本人であるわたしと話ができるのを喜んでいるみたいで、そういう若者たちと話をするのは楽しかった。

続く

昨日の旅(29)

$
0
0

☆ カンダハール

カブールに一週間ほど滞在したあと、カブールから500キロほど離れたアフガニスタン第二の都市、カンダハールにバスで移動した。

アフガニスタンに入ってからは、一人ではなく、ほかの旅行者と一緒にグループで旅行するようになっていた。

旅行者同士、話し合って一緒に旅行することに決めたわけでなく、行き先が同じ人間が自然とグループになって一緒に移動するようになったのだが、

インド、パキスタンと一人で旅して散々、怖い目に遭ったあとだったので、仲間がいるのは心強かった。

一緒に旅行していた仲間には、ペシャワール=カブール間のバスで知り合ったオーストラリア人のジムにもうひとりのオーストラリア人のネッド、ドイツ人のカップルなどがいた。


この地域を旅する旅行者がグループで移動することが多かったのは、ひとつには貧乏旅行者の移動ルートが大体、決まっていたからだ。

当時は、東京は新宿の風月堂からイスタンブールのジャムショップまでヒッピーロードともいうべき移動ルートができていて、

アフガニスタンから西は、この移動ルート上にあるアジアンハイウェイと呼ばれる幹線道路をバスで移動し、500キロくらいの間隔で存在する宿場町とも呼ぶべき町に着いたら、

その町にあるバックパッカーご用達の安宿に泊まって旅行するというのが大半のバックパッカーの旅のスタイルで、同じルートを移動する旅行者が自然とグループになったのだ。

この標準ルートを外れない限り、移動は非常に簡単で、若い女性でも一人で旅をすることができた。

ヘラートの安宿でプラチナブロンドの長い髪が美しいフィンランドから来た女の子に出会ったことがある。

彼女は、ちょっと大きめの手提げ鞄だけをもって旅行していて、そのあまりに身軽な装いに驚いたが、

話を聞いてみると、彼女は最初はギリシャを旅行したいと思って故郷のヘルシンキを出たという。

そしてギリシャのアテネまで行って、そこで知り合った旅仲間についでにイスタンブールに行かないかと誘われてトルコまで行き、そのままズルズルとアフガニスタンまで来てしまったというのだ。

当時はトルコ、イラン、アフガニスタンを旅行するのは、それほど簡単で容易なことだった。

このアジアとヨーロッパを結ぶ移動ルートは、ヨーロッパから南回りで日本に帰国する日本人旅行者とわたしのような日本から南回りでヨーロッパに行く旅行者の出会いの場にもなっていた。

当時はまだ日本人の旅行者が少なかったので、現在のように日本人宿と呼ばれる日本人ばかりが宿泊する安宿は存在しなかったが、それでも大抵の安宿には少なくとも一人は日本人旅行者が泊まっていて、

その日本人旅行者がヨーロッパから南下してきた場合は、ヨーロッパ、特にわたしがこれから行って働くつもりにしていたスウェーデンの情報を入手することができた。

しかし彼らから聞くスウェーデンの状況は芳しくなかった。彼らは異口同音に現在、スウェーデンは不景気で、仕事を見つけるのは難しいというのだ。

中には、スウェーデンで働くつもりでスウェーデンに行ったにも関わらず、仕事を見つけることができず、諦めてそのまま日本に帰ることにしたという日本人もいた。

わたしは日本を出るときに、スウェーデンで働くことを前提にして片道の旅費しか持って出なかった。

もしスウェーデンまで行って仕事が見つからなければ、一文無しで路頭に迷うことになる。

そのため、スウェーデンで仕事を見つけるのは難しいという情報に接して、かなり悩んでしまった。

そんな悩みを抱えながらも、カンダハールでは楽しく過ごした。

カンダハールは、アフガニスタン第二の都会だが、その名前はアレキサンダー大王の中東読みであるイスカンダールから来ているらしかった。

実際、アレキサンダー大王は、東西の交易路をつなぐ要衝であるこの町を通過して、インドに向かったのだ。

アフガニスタン第二の都会といっても、カンダハールで電気が供給されるのは週に三日だけ、それ以外の夜は人々はランプを使って生活していた。

通りに面した工房の中で、靴職人がランプの灯の下で靴を修理している姿を目にしたことがあるが、おそらくそれは何百年も変わらぬ中世そのままの光景だっただろう。

カンダハールでは、オーストラリア人のジムと一緒にモスクに入ったことがある。

アフガニスタンでは、異教徒はモスクに入れなかったのだが、ジムもわたしもアフガンコートと呼ばれる刺繍の入った民族衣装を着ていたので、もしかしてアフガン人で通るのではないかと思ったのだ。

ちなみに当時の貧乏旅行者の間では、ネパールのカトマンズで赤い縞模様の布のずた袋、アフガニスタンでアフガンコート、イスタンブールで知恵の輪みたいな三連リングを買うのが約束事だった。

モスクに忍び込んだジムとわたしは、座ってお祈りをしている現地の男性たちの列の後ろに神妙に座っていたが、そのうち「外国人がいる」と囁きがさざ波のように広がり、これはヤバいと思ってすぐに逃げ出した。

そんな失敗もあったけど、カンダハールは本当に平和で穏やかなところだった。

続く

昨日の旅(30)

$
0
0

☆ ヘラートの麻薬市場

カンダハールのあと、アフガニスタン第3の都市、ヘラートに移動した。

ヘラートもカンダハールと同様、中央アジアや西アジアとインドを結ぶ重要な交易路上にあって古来より栄えてきた町である。

ヘラートの市場では、アフガンコートと呼ばれている民族模様の刺繍の入った羊の毛皮のコートを買った。

季節はもう12月に入ろうとしていたが、これから先、冬のヨーロッパを旅するには防寒具が必要だと思ったからだ。

アフガンコートを買った市場の一部は、ハッシーシを売る麻薬市場になっていた。

もう時効になっていると思うのでいうが、わたしはここでハッシーシを1キロ買った。 ヨーロッパに持っていって売るためである。

わたしが買ったハッシーシは、アフガニスタン製のアップルジャムのラベルが貼られた缶詰で、中味はジャムではなくハッシーシが入っているといわれた。

値段は10ドル(3600円)だった。


そのときのわたしにとって10ドルは大金だったが、ヨーロッパに持ち込めばその100倍の値段で売れると聞いて買う気になったのだ。

一緒に旅行していた仲間もみんなこの麻薬市場でハッシーシを買っていた。

わたしはジャムの缶詰を買ったが、ほかの連中はもっと工夫を凝らして、オーストラリア人のネッドは、ハッシーシをバックパックのフレームのパイプに詰めてはんだ付けで蓋をしていた。

ヨーロッパの玄関口であるトルコ・ギリシャの税関で見つからずにうまくヨーロッパに持ち込めば高値で売れるというので、みんな真剣だった。

このヘラートでわたしはオーストラリアからの出稼ぎの帰りだという、あご髭を生やした精悍な顔つきのユーゴ人のクリスと色男のドイツ人のマーティン、小柄で大人しいオーストリア人のステファンのヨーロッパ人三人組に出会った。

彼らは出稼ぎ中にオーストラリアで仲良くなり、東南アジアからインドを経由してヨーロッパまで陸路で旅行する計画を立て、一緒にアフガニスタンまでやってきたとのことだった。

三人はお揃いのシープスキンのコートを着ていたが、どこで買ったのか知らないが、わたしが買ったアフガンコートに較べるとずっと高価そうで、暖かそうだった。

彼らももちろんハッシーシを買っていた。

この麻薬市場では、ハッシーシ以外の麻薬も売っていて、麻薬商人からヘロインの塊も見せてもらった。

ヘロインはハッシーシよりもずっと高価で、たしか1キロ160ドルといっていた。それがヨーロッパまでもっていくと数万ドルで売れるとのことだった。

わたしはこのアフガニスタン製のジャムの缶詰を無事にヨーロッパに持ち込むことに成功したが、いざ売る段になって困ってしまった。

当時、わたしはストックホルムで仕事が見つからなかったので、コペンハーゲンに戻って仕事探しをしていたのだが、あわよくばアフガニスタンから持ってきたハッシーシをコペンで売りたいと思っていた。

ただ1キロというのは相当の量なので、それを一度に売ろうとすれば仲買人に売るしかない。

しかしわたしは現地の仲買人の心当たりがまったくなかった。

仲買人に売れないとなると、小口にして不特定多数の人間に売らなければならなくなるが、これは危険すぎた。

そのうちデンマークでは、ハッシーシなどの麻薬を所持しているのが見つかると30年の懲役刑になると聞いて、怖気づいたわたしは、

とうとうその缶詰をそのとき滞在していたコペンハーゲンのユースホステルの裏にあった池に投げ捨ててしまった。

今となっては分からないが、もしかしたらあの缶詰の中にはハッシーシではなく、本物のジャムが入っていたのではないかという気もする。

後にトルコ旅行をしたアメリカ人の青年がハッシーシ400グラムをアメリカに持ち帰ろうとして、イスタンブールの空港の荷物検査で見つかって、

麻薬不法所持と密輸の罪で懲役30年の刑を宣告されたあと、刑務所を脱獄して無事アメリカに生還するという実話に基づいた映画『ミッドナイト・エクスプレス』を観たとき、わたしもまかり間違えばこうなっていたかもしれないと思った。

たった400グラムのハッシーシを持っていただけで30年の懲役刑とはいくらなんでも重すぎるのではないかと思ったが、この頃、アメリカとトルコの外交関係が悪化していて、見せしめに重罰を科されたのだそうだ。

わたしの知り合いの日本人もトルコでハッシーシを持っていたのが見つかり、イスタンブールの刑務所に入れられたが、彼の場合は保釈金を15万円ほど払って解放されたという。

もうひとり、ラオス号で一緒だった日本人でやはりバンコクで下船して陸路ヨーロッパまで行った仲間は、スイスからデンマークに煙草を密輸しようとして捕まった。

当時、北欧は煙草の値段が高く、反対になぜかスイスでは煙草が安かった。それで彼は仲間と共にスイスに行って有り金をはたいてマルボロを100カートン購入し、車のトランクに隠してデンマークに密輸しようとしたのだ。

ところが国境の税関で見つかってしまい、煙草は全量、没収の上、高額の罰金を科せられて、一文無しの状態で国外退去になったという。

デンマークを追い出された彼はドイツのハンブルグに行って公園で野宿をしていたが、腹が減ってたまらず、わざと車に体当たりして金を稼ぐ「当たり屋」をしようかと本気で考えたそうだ。

幸いハンブルグの日本料理店で皿洗いの仕事をみつけ、当たり屋をやらずにすんだが、当時はドイツよりもデンマークの方が賃金が高かったのでやっぱりデンマークで働きたいと思ってまたこっそりデンマークに入国したという。

しかしデンマークで仕事をみつけて働いていたところ、またもや警察に捕まり、再び強制退去になってしまった。

二回目の強制退去のときは、一回目のときよりも厳しくドイツ国境までずっと手錠をはめられていたといっていた。

続く

昨日の旅 III

$
0
0

● 昨日の旅(21):ニューデリー

● 昨日の旅(22):ニューデリー(続き)
● 昨日の旅(23):インドを旅するということ
● 昨日の旅(24):ペシャワールへ
● 昨日の旅(25):ペシャワールの恐怖の一夜
● 昨日の旅(26):カイバル峠を越えて
● 昨日の旅(27):カブール
● 昨日の旅(28):バーミヤン・ホテル
● 昨日の旅(29):カンダハール
● 昨日の旅(30):ヘラートの麻薬市場

昨日の旅(31)

$
0
0

☆ イラン入国
アフガニスタンに2週間ほど滞在したあと、バスに乗ってイランに向かった。
イラン入国後、最初に着いたのはアフガニスタンとの国境に近い町、メシェッド。
町の食堂で食事をして代金を払ったのに、食堂の親父は釣り銭をくれない。
文句を言ったら、釣り銭のコインをポーンと放って寄こした。
純朴なアフガン人と較べてイラン人はすれてるなと思った。
物価もイランはアフガニスタンより高かった。
メシェッドはイスラム教シーア派のエラいお坊さんの霊廟があることで知られているそうだが、わたしたちイスラム教徒ではない旅行者には関係ない話なので、一泊しただけでそのまま首都のテヘランに向かった。
テヘランはニューデリー以来の活気のある大都市だった。

当時のイランは現在とは異なり、西欧化していて、女性はみんなベールなど被らず、最新の西洋ファッションに身を包み、ばっちりメイクした顔を公衆に晒して颯爽と通りを歩いていた。
テヘランで面白かったのは、わたしたち旅行者を見て近づいてくる現地の若者が日本人であるわたしを完全に無視して、わたしと一緒にいる白人旅行者にばかり話しかけたことである。
インドから西、トルコまでどこの国にいっても、地元の若者はわたしが日本人であると分かると喜んで話しかけてきた。

そして一緒にいた白人旅行者は無視するのが常だった。

それがイランでは、正反対だったのだ。

それだけイラン人が親欧米だったということなのだが、それだけに1979年のホメイニ革命で、イランが親米から一挙に180度転換して反米になってしまったのには驚いた。

戦時中は「鬼畜英米」のスローガンを叫びながら、戦争に負けた途端、アメリカ一辺倒になってしまった日本の例もあるので、イランばかりをおかしいということはできないが、

なまじっか自由で西欧的な時代のイランを見た経験があるだけに、そのあまりの変わりようにショックを受けたのだ。

特に西洋式の服を着て、堂々と顔を出して歩いていたイラン女性が一転してヒジャブと呼ばれる黒い衣で全身を覆い、顔もベールで覆って目だけ出して、カラスの群れのようになっているのをみて、

あの派手なファッションを好んでいたイラン女性がこんなになってしまうなんて!と信じられない思いがした。

短期間の旅行者でしかなかったわたしには、イランという国の表面的な親米感情の陰に隠れていた反米感情が見えなかったのだ。

イランと欧米諸国の対立の背景には、イランの石油利権をめぐる英米とイランの争いがある。

1953年にイラン石油の国有化を試みたモサデク首相をCIAが倒し、モサデクに追われて亡命していた傀儡のパーレビ国王を再び王座に据えたとき、イラン国民の間では当然のことながら、反米感情が沸き起こった。
バーレビー国王は、世俗化路線を推し進め、イスラム保守勢力を弾圧したが、保守勢力は当然のことながら激しく反発し、国民の間でも貧富の格差の拡大にたいする不満が高まっていった。
そのせいで、国内各地で反政府デモが頻発し、パリに亡命していた反体制派のリーダーであるホメイニ師が帰国するに及んで反体制派が政権を握り、イラン・イスラム共和国が誕生する。
バーレビー国王は、エジプトに亡命し、その後、世界各地を転々とするが最終的にアメリカに入国を求め、アメリカはそれを受け入れる。
しかしそれに怒ったイランの学生たちは、テヘランのアメリカ大使館を占拠して52人の大使館員とその家族を人質にとって、バーレビー国王の身柄の引き渡しを要求する。
アメリカ政府は人質奪回の作戦を練り、実行に移すが、救出に向かったヘリコプターが砂漠で砂嵐に巻き込まれて墜落。カーター大統領は面目丸つぶれになる。
結局、人質はアメリカとの交渉がまとまるまで444日間、拘束された。
その結果、アメリカはイランと国交を断絶し、イランにたいして経済制裁を科すのだが、イランとの関係回復は2015年のオバマ政権での核合意まで待たなければならなかった。
しかし、トランプ大統領は、このイランとの核合意の見直しについて言及している。
イラン革命から40年近く経ってまだこれだけアメリカがイランにたいして厳しい態度を取り続けているのは、イランの石油利権を失ったことに加えて、
アメリカ大使館の人質事件と救出作戦の失敗によりメンツを潰された恨みがまだ残っているからだろう。
この1979年のイラン革命は、イスラム世界に大きな影響を与えた。
革命を成し遂げたイランは、そのイスラム原理主義思想をイラン以外のイスラム諸国に積極的に輸出したからだ。
その結果、アラブ世界にイスラム原理主義が蔓延することになった。
イスラム原理主義が急速かつ広範にイスラム世界に広まったのは、イスラム教徒、特に若者の支持を得られたからだと思う。
エジプトを例にとると、ナセル大統領の時代はソ連に接近して社会主義を導入したが経済は破綻した。次のサダト大統領は一転してアメリカに接近して自由主義経済を採用したが、貧富の格差が拡大しただけで、貧しい者はさらに貧しくなった。

ソ連式の社会主義はダメ、アメリカ流の資本主義もダメ、だったらイスラムに回帰するしかない、ということでイスラム原理主義が台頭したのではないかという気がする。

イラン革命前は当のイランも含めて、イスラム圏は大なり小なり欧米を手本にして近代化を推し進めてきた。

それが一転して西欧文明を否定して、イスラムに回帰し始めたのだから、欧米諸国がショックを受けたのは当然だろう。

そのリーダー格のイランが欧米諸国から特別な憎悪の対象になったのも理解できる。

その後、イスラム原理主義は収まるどころか、ますます拡大、先鋭化して、世界各地でイスラム過激派がテロを起こし、紛争地のイラクやシリアではISなる集団が現れて一時はイラクやシリアの国土の大きな部分を支配下に置いた。

欧米とイスラムの文明の対立は深まるばかりのような気がするが、それを打ち破る動きが出てくるとしたら、やはりイランから出てくるような気がする。

続く

昨日の旅(32)

$
0
0

☆ 進むべきか、引き返すべきか
テヘランで、ジョンとジョージという二人組のイギリス人と出会った。
彼らは、イランで車を売るために、イギリスのロンドンから二台のランドローバーを運転して陸路、テヘランまでやってきた。
目的はイランで車を売ることである。

当時、イランでは外国車は100パーセントの関税がかかるために高価だったのだが、陸路イランに車を持ち込むとその関税が免除されたそうで、

そのため、ヨーロッパから車を運転してイランに持ち込んで売るという商売が成り立っていたのだ。

ヨーロッパのユースホステルの掲示板などに「イランまでの車のドライバーを求む」という求人広告がよく出ていたのを思い出す。

ジョンとジョージは、運転してきた二台のランドローバーの内の一台をテヘランで売って、残りの一台に乗ってイギリスに戻る予定だったが、ガソリン代を浮かすためにバックパッカーの同乗者を募集していた。

テヘランからイスタンブールまで10ドル、イスタンブールからミュンヘンまで6ドルの計16ドルを払えば、ミュンヘンまで乗せていってくれるという。

ローカルのバスを使うよりも安い料金だし、彼らのランドローバーに乗り込めば黙っていてもヨーロッパまで連れていってくれるのだから便利といえば便利である。

それでアフガニスタンから一緒に旅してきたクリス、マーティン、ステファンのヨーロッパ人三人組とオーストラリア人のネッドは、彼らに16ドル払ってミュンヘンまで行くことに決めた。

ユーゴ人のクリスは「お前も一緒に行くだろ?」と訊いてきたが、わたしは即答できなかった。

実はそのとき、わたしは日本に引き返すことを考えていたのだ。

アジアンハイウェイをヨーロッパに向かって北上していく途中で、ヨーロッパから南下してくる日本人の旅行者に何人も出会ったのだが、みんな口を揃えて今、北欧で仕事を見つけるのは難しいという。

わたしは北欧のスウェーデンで仕事を見つけて働くつもりでいたが、日本からスウェーデンまで片道の旅費しかもってこなかったので、もしスウェーデンで仕事が見つからないと路頭に迷うことになる。

テヘランに着いた時点で、わたしの懐にはまだ9万円ほど残っていた。

計算すると、それだけあればぎりぎり日本まで帰ることが出来ることがわかった。

それで、いっそのことヨーロッパに行くのを諦めて、このまま日本に引き返した方がよいのではないかと考えるようになったのだ。

その考えを彼らに話すとみんな猛反対した。

ランドローバーの運転手のイギリス人のジョンは、「北欧で仕事がないなら、ロンドンに来いよ」という。

「ロンドンで仕事はあるかな?」と訊くと。「あるよ!」と太鼓判を押す。
そこにクリスが加勢して、「俺もイギリスに行くよ。一緒に仕事を探そうぜ!」といいだした。

そんなこんなでみんなに説得され、わたしは日本に引き返すという考えを捨てて、彼らと一緒にランドローバーに乗ってヨーロッパを目指すことになったのだった。

最終的に、クリスとマーティンとステファンのヨーロッパ人三人組、オーストラリア人のネッド、イギリス人のクライブ、そしてわたしの6人が16ドル払ってランドローバーのステーションワゴンに同乗することになり、

これに運転手役のイギリス人のジョンとジョージを加えて、総勢8人で旅行することになった。

一緒に旅してみてわかったが、彼らはお世辞にも上品な連中とはいえなかった。

特に言葉遣いが汚くて、まるで枕詞みたいにファックとかファッキングという言葉を使う。

わたしもすっかり影響を受けて、英語を話すときにこの四文字言葉を連発するようになったので、ヨーロッパに行ってからは随分と顰蹙を買ったものだ。

いずれにせよ、英語では苦労した。

総勢8人の内、英語ネイティブのイギリス人が3人にオーストラリア人が1人、残りの3人のヨーロッパ人もオーストラリアに出稼ぎに行っていたから、英語には不自由していなかった。

唯一、日本人であるわたしだけが英語を上手く話せなかったのだが、誰もそんなわたしに気を遣ってくれなかった。

特にイギリス人たちは平気でスラング混じりの早口の英語でわたしに話しかけてくる。

「そんな早口じゃ、理解できないよ。もっとゆっくり話してくれないと!」

わたしが癇癪を起しても、彼らはわたしがなんで怒っているのか理解できないらしく、キョトンとした顔をしていた。

イギリス人にとって、人間というのは人種や国籍に関係なく、英語を話せるのが当然で、話せないのは本人が悪いことになるらしい。

実際、イギリス人は外国人を褒めるときによく「彼は流暢な英語を話す」という。

英語をよく話すとイギリス人から文明人として認めてもらえるらしい。

もっともわたしが一緒に旅している連中は文明人とは程遠かった。

テヘランを出てタブリーズに向かって走っているときに途中でドライブインに立ち寄って食事をしたのだが、ドライブインの駐車場には多くのトラックが停まっていた。

中にロール状に巻かれた高価なペルシャ絨毯を荷台いっぱいに積んだトラックがあった。

それを見たジョンとクリスの目の色が変わり、二人の目が合った。

「やろうか?こんなに沢山あるんだから1本や2本、盗んでもわからないだろう」

彼らの目はそういっていた。

かろうじて理性が働いたらしく、二人は何もせずにドライブインのレストランに入っていったが、ヤバい連中と一緒になったもんだと思った。

続く

昨日の旅(33)

$
0
0

☆ エルズルムのハマム体験

わたしたち一行を乗せてテヘランを出発したランドローバーは、一面、白雪に覆われたザグロス山脈を右に見ながら、一路、イラン高原をトルコに向かって走った。

トルコとの国境に近い町、タブリーズを経由して、イラン・トルコ国境に着いたのは早朝で、
トルコの入国管理事務所が閉まっていて、事務所の前で車を停めてしばらく待たなければならなかった。

国境からはノアの箱舟が流れ着いたといわれる双子の富士山みたいなアララット山がよく見えた。

トルコ国境を越えて最初に着いたのがトルコ東端の町、エルズルムだった。

外国人がめずらしいのか、すぐにわたしたちの周囲に人だかりができる。

ユーゴ人のクリスは、自国がかってオスマン帝国の支配下にあったせいかトルコ人が嫌いなようで、「お前ら、あっちに行け!」と怒鳴って、彼らを追い払っていた。

町のレストランでみんなで夕食をとっていたとき、ふと顔を上げたら、窓には黒山の人だかり、みんなわたしたちが食事する様子を観察しているのだ!

なんだか見世物にでもなったような気分だった。

夕食のあと、みんなでトルコ名物の蒸気風呂、ハマムに行った。

ハマムの脱衣所で服を脱いだとき、仲間の連中の白いブリーフの前が真っ黒に汚れているのを見て驚いた。

わたしは旅行の間中、暇をみては下着を洗濯して交換していたが、彼らは一ヶ月も二ヶ月も同じ下着を穿いていたらしい。

わたしがパンツを脱いだとき、みんなの視線がいっせいにわたしの股間に集中したのは恥ずかしかった。

日本人がどのようなモノをもっているのか、みんな興味津々だったようだが、日本男児のイメージを下げてしまったのではないかと今でも気になっている。

服を脱いで裸になるとハマムの従業員が洗いざらしの木綿の布の腰巻と手ぬぐいをくれる。

客は腰巻を腰に巻いて浴室に向かうのだが、浴場に入るときにその腰巻を外して従業員に渡さなければならない。

そして浴室に入ってからは手ぬぐいで股間を隠さなければならない。

熱い蒸気が充満している浴室の真ん中には、大の男が二、三人は寝転べるくらいの広さの円形の大理石の台があって、大理石の表面は蒸気によって熱くなっていて、そこに身体を横たえると全身に熱が伝わってきて気持ちが良い。

運転手役のイギリス人のジョンとジョージがその大理石の台の上に大の字になって寝転んでいたが、白人は股間を隠す習慣がないので大股を開いて寝ていた。

浴室に入ってきたハマムの親父はそれを見て怒り、ぶつぶつ言いながら、彼らの股間に手ぬぐいをかけていた。

しかし、半分眠り込んでいる彼らは股間に手ぬぐいをかけられるのが鬱陶しいのか、すぐに手で払いのけてしまう。

それを見た親父はまた怒り、彼らが払いのけた手ぬぐいを手にとってまた彼らの股間に被せて回るのだが、彼らはまたすぐに手で払いのけてしまう。

それを見た親父がまた怒って、また手ぬぐいをかけ直すということを延々と繰り返しているのを見て笑ってしまった。

聞くところによると、イスラムの教えでは、同性にたいしてであっても、自分の局部をみだりに見せてはならないことになっているという。

そういえばイスラム圏では、公衆トイレで小便器に向かって用を足している男たちは、身体を小便器にぴったりと密着させて、股間のモノを他人の目に触れさせないようにしている。
もっとも例外もあって、同じイスラム圏でも、レバノン人とエジプト人だけはハマムの浴室の中で股間を隠さずに股間のモノをぶらぶらさせて歩いている。
ただ最近は、イスラム世界を覆う保守化の影響か、エジプトでもかってのように素っ裸で浴室に入ることは禁止され、腰巻の着用が義務づけられたり、下着のパンツを穿いて浴室に入る客が増えているという。
あとイスラム教徒の特徴として、陰毛や肛門周りの毛を剃毛する習慣がある。
これは衛生上の理由かららしいが、ハマムで三助のマッサージを受けたあと、局部を剃毛してもらう客が多い。
この局部の剃毛もエジプトあたりでは、かってはほかの客の前でおおっぴらにやっていたが、最近は、腰布やパンツで隠しながら剃っているらしい。

続く

昨日の旅(34)

$
0
0

☆ アナトリア高原の雪合戦
エルズルムを出発したあと、アナトリア高原を横切る幹線道路に入り、一路、アンカラを目指したが、生憎とイスラムの断食月であるラマダンに入っていて、途中の村で食事しようと思って食堂を探したが、どこも閉まっている。
ラマダンの間中、イスラム教徒は日の出から日没まで食事を取れない決まりで、そのため食堂も昼間は営業していないのだ。

道中、食堂が見つかるたびに車を停めて中に入ったが、どこも日没までは食事を出せないと断られる。

エルズルムのような大きな町では、非イスラム教徒である外国人のために昼間、開いているレストランもあるが、エルズルムを出たあとは、幹線道路沿いに小さな村しかなかった。
何軒目かの村の食堂で食事の提供を断られたとき、空腹で苛立っていた仲間たちは、「俺たちはイスラム教徒ではないのだから、食事を出せ」と食堂の親父に迫った。



それでもウンといわない親父に業を煮やしたオーストラリア人のネッドがカトマンズで買った三日月形のグルカ刀を引き抜いて、「これで喉を掻っ切られたくなかったら、飯を出せ!」と親父の顔に突きつけた。

すると親父は奥に入ったかと思うと、ライフルをもって出てきたので、みんな慌てて食堂を飛び出した。

食堂を飛び出して車に乗り、しばらく走ると、なぜか道の真ん中にオオカミの死体が転がっていた。

それで車を停めてオオカミの死体を検分したが、食堂の親父にライフルで脅されて逃げ出した鬱憤を晴らすためか、ネッドがオオカミのふさふさした毛の生えている尻尾をグルカ刀で切り取り、それを手にとって振り回した。

もう12月に入っていて周囲には雪が積もっていたが、どこからともなく、雪の玉が飛んできた。

見えないところにトルコ人が隠れていて、わたしたちめがけて投げてきたのだ。

雪玉の芯に石が入っていることを知った仲間たちは激怒し、自分達も雪玉を作り、雪玉が飛んできた方向に投げ始めた。

しばらくすると、それ以上、相手から雪玉が飛んで来なくなったので、今度は仲間内で雪合戦を始めた。

最初は笑いながらやっていたのが、徐々に真剣な顔つきになってきて、しまいにはイギリス人のジョンとドイツ人のマーティンが本気で雪玉を投げ合い、そのうち殴り合いに発展するのではないかと見ていてハラハラした。

ラマダンのお陰で空腹を強いられていることの苛立ちに加え、テヘランから一緒に旅行してきて早くも仲間内の人間関係にきしみが生じてきているようだった。

この人間関係のきしみは目的地のミュンヘンに着いた時に最悪の形で露呈することになった。

当初はアナトリア高原を真っすぐ横切ってアンカラまで直行する予定だったが、ラマダンのお陰で飯にありつけるのが難しいのと、雪の多さにうんざりしたのか、

一行はアンカラに通じる幹線道路を右折して黒海沿岸の町、トラブゾンを目指すことになった。

しかしトラブゾンに通じる山道はそれまで以上に雪に覆われていて、途中、雪の中で車中に一泊する羽目になった。

翌日、ようやくトラブゾンの町に着いたが、例によって町の住民が集まってきて、めずらしそうに私たちを取り囲む。

一行の中で特にトルコ人嫌いのユーゴ人のクリスが、「お前らあっちに行け!」と躍起になって追い払っていた。

クリスがわたしに、

「こいつらは人間じゃない、サルだよ!」

と悪態をつくので、わたしは、

「そんなこと言われると、ボクもサルと呼ばれているような気がする」

と抗議した。

本当のところは、トルコ人がサル呼ばわりをされたから、わたしもサルと呼ばれたように感じたわけではない。

そもそも外見からいえば、トルコ人は日本人のわたしよりも欧米人の方にずっと近い。

それでもわたしはインドからこっち、イランを除けば、トルコも含めて地元の若者からよく話しかけられた。

彼らはわたしが日本人であるとわかると例外なく特別な親近感を示してくれたのだ。

だからそんな彼らを口汚く罵るクリスを見るのは悲しかった。

しかしわたしの下手くそな英語でそのような複雑な感情を説明するのは困難で、それで「自分もサルと呼ばれているような気がする」といってしまったのだ。

それを聞いたクリスは驚いた様子で、

「あいつらがサルだといってるだけで、お前のことをサルだといってるんじゃないよ」

と必死で弁解をはじめたが、オーストラリア人のネッドが、

「人間はみんな平等だよ」

と重々しい口調でいい、その場は収まった。

実際のところ、わたしはトルコ人に喧嘩腰で接する仲間たちにウンザリはしていたが、だからといってトルコ人が自分の仲間だとは思っていなかった。

インド人や中東の人間はメンタリティーが日本人のわたしとはかけ離れていて、彼らと自分を同一視することは不可能だった。

むしろわたしは一緒に旅行しているヨーロッパ人やオーストラリア人の旅仲間の方が自分に近いと感じていた。

簡単にいうとわたしと旅仲間は同じバックパッカーであるという共通点があり、バックパッカーというはっきりした目的もなく海外を放浪する種族は、先進国の人間にしかいないという現実があった。

現在はイスラエル人や韓国人のバックパッカーも増えているそうだが、当時はアジア人のバックパッカーは日本人しかいなかった。

つまり、当時、アジアの先進国は日本だけだったということである。

現在でもなお日本はアジアで一番の先進国といえるが、そういう意味では日本はほかのアジア諸国とは異なり、どちらかといえば西欧に近いとわたしは考えている。

続く


昨日の旅(35)

$
0
0

☆ イスタンブールへ

アナトリア高原から黒海沿岸の町、トラブゾンに抜けて、そのままトラブゾンからサムソンまで黒海沿岸の道路を走ったが、

黒海沿岸は、雪に埋もれていたアナトリア山地とは打って変わって気候が温暖で、風光明媚なところだった。

黒海は、実際は黒い色でなく紺碧で、明るい陽光が降り注ぐ中、ドライブするのは快適だった。

もっともわたしの仲間たちは相変わらず、トルコ人と喧嘩ばかりしていた。

あるドライブインの駐車場では、駐車スペースをめぐってトルコ人のトラック運転手とイギリス人のクライブが言い争いになった。

トルコ人の運転手は身長190センチくらいの大男で、いかにも強そうに見えたが、クライブに向かって、

「お前、俺とやる気か?」

といわんばかりに肩をそびやかして近づいてきたとき、なんとクライブはその大男の運転手を一発でノックアウトしてしまったのだ。

クライブはイギリス人としては小柄で身長も170センチそこそこしかなかったが、いかにもジョンブルといった感じの向こう意気の強そうな顔をしていた。

彼は、ビンボー旅行者のわたし達の中でも特別、金がなかったみたいで、ほかの仲間たちがシープスキンのコートやアフガンコートを着ている中、厚手のセーターしか着ていなかった。

食堂でもスープだけを注文し、無料でついてくるパンをスープに浸して食べていた。

それでも金に困っていることに関して、一言も愚痴をいわなかったのは流石だった。

そんなクライブが大男のトルコ人運転手を一発でノックアウトしたのを見て、わたしはイギリス人の“野蛮さ”を見せつけられた気がした。

そしてイギリス人が七つの海を支配することができたのは、もしかして喧嘩に強かったからではないかと思った。

その5年後、わたしはアフリカに行くことになったのだが、アフリカに行ってみて、白人がアフリカで威張っているのは、黒人と較べて体力が優れていることが一因ではないかと考えるようになった。

黒人だって白人に劣らない大柄な体力のある人間はいる。

しかし黒人は“野蛮さ”で白人に劣るのだ。

黒人がなぜアラブ人や白人の奴隷にされたのか?

彼らは獰猛なアラブ人や白人と較べて大人しすぎたからだ。

だからアラブ人や白人の奴隷にされても文句をいわずに黙々と働いたのだ。

サムソンから先の黒海沿岸には、ちゃんとした自動車道路が通っていなかったので、わたしたち一行は再びアナトリア山地に入り、アンカラを目指した。

アンカラには夜中に着いたが、一行はアンカラには泊まらず、そのまま夜を徹してイスタンブールまで夜道をひた走った。

昼間はイギリス人のジョンとジョージが車を運転していたが、夜になるとオーストラリア人のネッドが代わって運転した。

仲間たちがそれほど急いだのは、クリスマスまでに故国に帰りたいと願っていたからだ。 カトマンズでカルロッテと別れたのは、彼女がクリスマスまでにスウェーデンに帰りたがったからで、

特に急いでいなかったわたしは、もっと時間をかけてゆっくりとヨーロッパまで行きたいという理由で、カルロッテと別行動をとることにしたのだが、

テヘランでジョンとジョージの運転するランドローバーに乗ったお陰で、予定よりも早くヨーロッパに入ることになり、結局、ストックホルムには、クリスマスの翌日に着くことになったのだ。

ランドローバーでの移動中、どの道を通るか、どこに泊まるかについて、わたしは一切、相談されることはなかった。

わたしが十分に英語ができなかったからで、そういう細かいことは、わたしと関係ないところで、ほかの仲間が相談して決めていたようだった。

今思うと、わたしは彼らにとって一緒に連れているペットの子犬のような存在ではなかったかと思う。

そのようなわけで、イスタンブールには自分が考えていたより早く着いた。

それでも飛行機だと十数時間しかかからないところを2ヶ月以上かけてやってきたわけで、着いたときはさすがに感無量だった。

イスタンブールのアジア側の埠頭のウシュクダラからフェリーに乗って対岸のヨーロッパ側に渡ったが、フェリーの中で「とうとうヨーロッパに来たか。。。」と感慨に耽っていたら、

オーストラリア人のネッドがわたしを見て、からかうように、

「お前、ヨーロッパに着いたじゃないか」

といった。

彼はテヘランでわたしが日本に帰るといいだしたことを覚えていたのだ。

フェリーには30代半ばのギリシャ女優のメリナ・メルクーリによく似た赤毛の女性が乗っていた。

彼女はレインコートを着ていて、頭にはなにも被らず、海から吹き付ける風に髪の毛が乱れるにまかせていたが、そんな彼女を見てヨーロッパに着いた実感が湧いてきた。

パキスタンから西、イランの首都のテヘランを除いて、女性たちはベールやネッカチーフで頭を覆い、髪の毛を見せることはなかった。

それがここでは女性が自由に髪の毛を風になぶらせている。

それがわたしにヨーロッパに着いたという実感をもたらしたのだった。

続く

昨日の旅(36)

$
0
0

☆ イスタンブール

イスタンブールはエキゾチックで魅力的な町だった。

かってこの町は、コンスタンティノープルという名前で東ローマ帝国の首都として栄え、オスマントルコによる征服後はイスタンブールと名前を変えて、オスマントルコ帝国の首都として繁栄した歴史を持つ。

そのような歴史を経てきたお陰で、イスタンブールは東洋と西洋の文明が融合した、わたしたち東洋人にとっても、西洋人にとっても異国情緒の溢れる町になっている。

イスタンブールでは、トプカピ宮殿、アヤソフィア、ブルーモスク、グランバザールなどの定番の観光名所を回った。

街歩きに疲れると、ジャムショップというヒッピーや貧乏旅行者の溜まり場になっているカフェに立ち寄ってトルココーヒーを飲んだが、

あるときオーストラリア人のネッドと一緒にジャムショップでコーヒーを飲んだあと、店を出てしばらく歩いたら、ネッドが突然、ウォー!!と大きな叫び声を上げて、ジャムショップの方向に走り出した。

いったい何事が起ったのか、わからないまま後をついて行くと、ネッドはジャムショップに飛び込み、先ほどまでわたしたちがコーヒーを飲んでいたテーブルの椅子の上にあったショルダーバッグを見つけると、

「良かった、あった!」

と叫んだ。

彼はそのショルダーバッグを椅子の上に置き忘れたまま店を出て、しばらくして置き忘れたことに気がつき、慌てて走って戻ってきたのだ。


ネッドは年の頃、30歳くらい。大柄で太っていて顎鬚を生やし、ブラックニッカのラベルの髭面の男そっくりの風貌をしていた。

彼はとてもいい奴だったが、このエピソードが語るようにおっちょこちょいというか、ちょっと頭の足らないところがあった。

後にイギリスのロンドンに行ったときに友人になったイギリス人にネッドのことを話すと、

「それはオーストラリアの田舎によくいるタイプの人間だよ。向こうでは”ブッシュマン“と呼ばれてる」

といった。

「ブッシュマン?」

「そう、木こりとかやってて、人間的にはすれてなくて善良なんだけど、頭のめぐりはあまり良くない人間をからかってそう呼ぶんだよ」

ネッドが実際にオーストラリアで木こりをやっていたかどうかは知らないが、彼が単純な人間だったことは事実で、それが後に悲劇を生むもとになった。

イスタンブールはとても気に入ったが、3日ほどしかいなかった。

オーストラリア人のネッドとわたしを除き、仲間は全員、ヨーロッパ人で、クリスマスまでに故郷に帰ることを望んでいたからだ。

イスタンブールはその後、2回、訪れている。

特に今は亡きオリエント急行に乗ってパリからイスタンブールまで3泊4日の鉄道の旅をしたことは印象に残っている(「オリエント急行の美女」を参照)。

オリエント急行の終着駅であるイスタンブールのシルケジ駅に着いて、その晩、ガラタ塔にあるナイトクラブでベリーダンスのショーを見ていたとき、

偶々、同席した中年のイギリス人紳士にオリエント急行に乗ってイスタンブールにやってきたといったら、「それじゃ、ペラホテルに泊まってるんだね」といわれた。

そのときはすぐにいってることの意味がわからなかったが、「オリエント急行殺人事件」の著者であるイギリスのミステリー作家のアガサ・クリスティーをはじめとして、

オリエント急行でイスタンブールにやってきたヨーロッパの賓客はみんなペラホテルをイスタンブールの定宿にしていたのだそうだ。

ペラホテルは高級ホテルとしてまだ残っているそうだが、また行く機会があれば立ち寄ってコーヒーでも飲んでみたいものだ。

とにかく、イスタンブールはわたしにとって大好きな町の一つで、その魅力はもうひとつのわたしのお気に入りの町であるイタリアの首都のローマに匹敵する。

実際、イスタンブールは、東ローマ帝国の首都だった町で、東のローマと呼ぶのにふさわしいところだ。

西のローマと同様、歴史的建造物の多い町で、ローマと同じく七つの丘の上に建っている。

西のローマが『フェリーニのローマ』に描かれているような官能的な町であるのにたいして、東のローマであるイスタンブールは旅情を誘う町だった。

続く

昨日の旅(37)

$
0
0

☆ ギリシャへ

イスタンブールを出発した一行は、ギリシャを目指したが、一行のメンバーはわたしも含めて全員、ハッシーシを所持していた。

ヨーロッパにこっそり持ち込んで売るためであるが、そんなわたしたちにとって一番の関門は、トルコとギリシャの国境だった。

いったんギリシャに入ってしまうと、ヨーロッパ域内では、税関検査など殆どないに等しい。

そのため、ハッシーシの密輸を食い止めるために、トルコ出国に際しての税関検査は非常に厳しいと聞いていた。

みんなが一緒に車に乗ってトルコ国境に着いて、だれか一人がハッシーシを持っていることがバレた場合、全員が同じ仲間とみなされて逮捕されてしまう。

そのような事態を避けるために、トルコ側の国境事務所の手前、500メートルのところで、運転手役のジョンとジョージを残して、

全員、車を降りて、個人旅行者を装って、一人ひとり別々にリュックを背負ってトルコ側の国境に歩いて向かった。

トルコの国境事務所に到着し、イミグレで出国手続きをする前に税関に入って、カウンターにリュックを置いて荷物検査を受けた。

口髭を生やしたトルコ人の税官吏は、わたしをみて好色そうな薄笑いを顔に浮かべ、

Are you a boy or girl ?

と訊いてきた。

わたしはそのときアフガンコートを着て、頭にはやはりアフガニスタンで買った毛がふさふさした狐の毛皮の帽子をすっぽり被っていたので、男の子か女の子か見分けがつかなかったらしい。

I’m a boy.

と答えたら、そのままリュックを開けようともせず、「OK,行ってよし」といったので拍子抜けしてしまった。

そんなわけで、あっけなく税関を通ってしまったが、ほかの連中は徹底的に調べられ、リュックから中味をすべて取り出すようにいわれて、細かくチェックを受けたらしい。

幸い、隠し方がうまかったのか、ハッシーシを見つけられた者は一人もいなかったが、みんな検査の厳しさにぶうぶう文句を言っていた。

トルコ側で出国手続きを終えたあと、ギリシャ側の国境事務所に向かったが、両国の国境は長い橋で、橋の両側に銃をもったトルコ兵とギリシャ兵が10メートルくらいの間隔で並んで立っていた。

トルコとギリシャは仲の悪いことで知られているが、橋の上で向かい合って立っている両軍の兵士の間にも緊張感が漂っていて、

夜の闇の中、両軍の兵士に見守られながら、リュックを背負って一人黙々と橋を渡っていったことはまだ鮮明に覚えている。

ギリシャに入国したあと、わたしたちはアテネには寄らず、まっすぐ北の町、テッサロニキに向かった。

テッサロニキに向かったのは血を売るためである。

当時、ビンボー旅行者の間では、売血はよく行われていた。

どこへ行くと血が高く売れるかの情報は旅行者の間でよく知られていて、一番高く売れるのがクウェートで、クウェートでは200ccが日本円にして一万円で売れるという話だった。

しかし、クウェートへ行くにはユーラシア大陸の東西を結ぶアジアン・ハイウェイから大きく迂回しなければならず、往復の旅費を考えれば実際的ではなかった。

一方、テッサロニキはトルコからヨーロッパを北上するルート上にあったことから、テッサロニキを通過するついでに売血所に寄って売血する旅行者が多かったのだ。

テッサロニキでの売血の価格は、日本円にして200ccが二千円、クウェートの5分の一でしかなかったが、それでもビンボー旅行者にとっては、ちょっとした小遣いになった。

もっともわたしはテッサロニキの売血所で血を売ることはできなかった。

採血の前に血圧を測定するのだが、血圧が低すぎて断られてしまったのだ。

ただ断られたのは、わたしだけで、わたし以外の仲間は全員、無事に血を売ることができた。

ネッドなどは、一回では物足らないのか2回、計400CCを売っていた。金欠病のクライブもやっぱり400CCを売っていた。

このテッサロニキの売血所で、ひとりの日本人青年と出会った。

柔道でもやっているのか、がっしりした体格の大学生だったが、彼はヨーロッパから南下する途中、このテッサロニキの売血所に寄って血を売ってからトルコのイスタンブールに向かったという。

ところがイスタンブールで女郎屋をみつけ、通い詰めて散財してしまったので金が無くなり、また血を売って金を得るために戻ってきたというのだ。

彼はとても陽気で快活な人で、イスタンブールの女郎屋がいかに安く遊べるか楽しそうに話していたが、ここで血を売って稼いだ金でイスタンブールに戻ったら、

また女郎屋に入り浸って金を遣ってしまい、またテッサロニキに戻って血を売るという生活を繰り返すのではないかと思った。

いずれにせよ、彼のような体力のある健康な人間だからできることで、わたしなんかとても真似できないと思った。

続く

昨日の旅(38)

$
0
0

☆ クリスとの別れ

テッサロニキの売血所に立ち寄ったあと、そのまま国境を越えてユーゴスラビアに入り、スコピエの幹線道路に沿ったモーテルのような簡素な宿に泊まった。

翌日、ユーゴスラビアの首都のベオグラードに向かった。

ユーゴ人のクリスはわたしたちをベオグラードのホテル・モスクワに案内した。

ホテル・モスクワは格式のある重厚な石造りの建物で、真冬だったので、軒からつららが下がっていたことを覚えている。

クリスは「俺は今夜はこのホテル・モスクワに泊まる」と宣言した。

彼はオーストラリアからの出稼ぎの帰りで懐は暖かそうだったし、故国に帰ってきた記念にこの格式のあるホテルに泊まりたかったのだろう。


ホテル・モスクワの宿泊費は、社会主義国家らしく二重価格で、ユーゴ人が10ドル(3600円)、外国人が15ドル(5400円)だった。

みんな外国人がユーゴ人よりも高いのは不公平だと文句をいったので、クリスはしきりと恐縮していた。

いずれにせよ、わたしたちビンボー旅行者が一泊15ドルもするホテルに泊まれるわけはなく、結局、泊まったのはクリスと、

「今日は疲れているのでちゃんとしたベッドで寝たい」

と言い出したオーストリア人のステファンの二人だけで、残りはわたしも含めてホテル・モスクワの前に駐車したランドローバーの車内で寝た。

ベオグラードの夜は気温が低く冷え込んだが、アフガンコートを着たまま、日本から持ってきた登山用の寝袋にもぐり込むと寒さはあまり感じなかった。

翌朝、ホテル・モスクワのクリスが泊まっている部屋を訪ねると、クリスとステファンが同じダブルベッドで寝ていたので笑ってしまった。

次の宿泊地であるザグレブを目指してベオグラードの町を出発してしばらく走ったとき、突然、クリスが「自分はここで降りる」と言い出した。

近くに父親の住む村があるというのだ。

突然の別れの言葉にみんな驚いたが、彼の決心は固いようだった。

クリスは、別れるときにわたしを抱いてわたしの名前を何度も繰り返し呼んで別れを惜しんだが、わたしがあんまり悲しそうな顔をしないのでがっかりしていた。

ほかの連中にとっては、ヨーロッパは故郷なので、ヨーロッパに戻って来れて安堵しただろうが、わたしにとってヨーロッパははじめて足を踏み入れる異郷の地で、そこで仕事を見つけなければならず、

これから先のことで頭がいっぱいで、クリスと別れを惜しむ余裕などなかったのだ。

それにクリスに裏切られたという気持ちもあった。

テヘランでわたしが日本に引き返すといったとき、一番熱心に引き留めたのはクリスだった。

あのとき、ヨーロッパで仕事が見つかるかどうかわからないと不安を口にするわたしに、クリスは、

「北欧が無理ならロンドンに行けばよい。俺も一緒にロンドンに行くよ!」

といってくれたのだ。

それなのに突然、父親が住む村に帰ると言い出したのだ。

「話が違うじゃないか」

とわたしはいいたかった。

そもそもクリスに父親がいるのか、とわたしは疑っていた。

イランからトルコへ国境を越えたとき、トルコのイミグレのオフィスで入国カードを書かされたのだが、中東諸国では、入国カードやビザの申請用紙に両親の名前を書く欄があることが多い。

そのとき、クリスは父親の欄を空白にしたまま入国カードを提出したのだ。

そして入国管理の係官になぜ父親の名前を書かないのかと訊かれて、

「俺は私生児だ。父親はいない」

と答えたのだ。

それなのに突然、父親の住む村に行くと言い出したのだ。

わたしはそんなクリスの説明に釈然としないところがあって、素っ気ない態度をとってしまったのだが、今から思うともっと彼に優しくしておくべきだったと思う。

クリスはアフガニスタンで初めて会ったときから、わたしに特別な好意を示してくれた。

テヘランでわたしが日本に引き返すといったとき、一番熱心に引き留めたのはクリスだったし、わたしをそのままにしておくのが心配だったのか、

イギリス人のジョンとジョージの運転するランドローバーで一緒にミュンヘンに行こうと誘ってくれたのもクリスだった。

もしテヘランでクリスが熱心に引き留めてくれなかったら、わたしはヨーロッパに来ることもなく、日本に引き返していたかもしれない。

陰鬱な鉛色の冬空の下、殺風景な草原の中のクリスの父親が住む村につながるという一本道を米軍払い下げの円筒状のミリタリーバッグを背負って歩き去ったクリスの後ろ姿は今でも覚えている。

クリスは今、生きていたら70代後半になっている筈である。

ユーゴスラビアは1991年に解体した。

クリスは、ベオグラードの郊外で父親の村に行くといって別れたのだから、多分、セルビア人だったのだろう。

ユーゴ解体後は、セルビア人としてセルビアに住み続けたのだろうか。

それともまたどこか外国に出稼ぎに行ったのだろうか。

今となっては知るよしもない。

続く

昨日の旅(39)

$
0
0

☆ミュンヘン

クリスと別れてから、わたしたち一行は現在のクロアチアの首都であるザグレブに一泊したあと、雪に埋もれたオーストリアのザルツブルグを経由してドイツのミュンヘンに到着した。

オーストリアは通過するだけで半日しか滞在しなかったことになる。

ザルツブルグでは、オーストリア人のステファンが車を降りて、一行に別れを告げた。

その後、ミュンヘンに着いたが、ザルツブルグほどではなかったものの、かなり雪が積もっていた。

到着後、わたしたちはそこそこ良いレストランで食事をした。

わたしとオーストラリア人のネッドを除くヨーロッパ人の仲間たちは、ヨーロッパに戻って来れて嬉しいのか、浮き浮きした様子ではしゃいでいた。

レストランでは、ババリア風の民族衣装を着たブロンド美人のウェイトレスがわたしたちにサービスしてくれた。


「彼女は美人だなあ。ドイツは美人が多いね」

とイギリス人のジョンがいうと、色男のマーティンが、

「誘ってみようか?」

といった。

「誘えるのかい?」

ジョンの顔が期待に輝いた。

「まかしとけ」

マーティンは、食事が終わって勘定書きをもってきた彼女にチップをたんまり弾み、何やらドイツ語で話していた。

そして彼女が向こうに行ったあと、「OKだってよ」といったので、みんなは歓声を上げた。

そのとき初めてみんなはわたしの存在に気がついたようだった。

わたしは彼らと違って、初めてヨーロッパの都市に着いてガチガチに緊張していた。

とてもブロンド美人と一緒に遊びに行く気になれなかったが、その気持ちは仲間にも伝わったらしく、

「彼をどうしよう?」

ということになり、

「このままほってはおけないよ。みんなで遊びに行く前にユースホステルに送り届けるよりしょうがないよ」

とマーティンがいい、わたしをユースに送り届けることが決まった。

食事が終わるとレストランを出て、駐車場に停めてあったランドローバーの中でウェイトレスが出て来るのを待った。

私服に着かえた彼女がやってくると車は出発し、ユースホステルに寄ってわたしを降ろしたあと、一行は夜の巷に消えていった。

翌朝早く、ユースホステルの玄関にいたら、ジョンとジョージとクライブのイギリス人三人組がランドローバーに乗ってユースホステルにやってきた。

彼らは車から降りることなく、後部座席から、

「これをネッドに渡してくれ」

といって、ネッドのリュックを放り投げ、車を降りることなく、

「じゃあ、あばよ、元気でな」

といって、そのまま急いで走り去って行った。

その後、しばらくしてネッドが血相を変えてユースホステルに飛び込んできた。

「俺の荷物はどこだ?」

と訊くので、

「あそこだよ」

とさっきイギリス人たちが放り投げていったままの状態で玄関に転がっているリュックを指さしたら、慌てて駆け寄り、リュックを開けて中味を調べ始めた。

そして何も盗られていないことがわかったのか、大きな安堵のため息をついた。

それからしばらくすると、今度はマーティンが慌てた様子でホステルに駆け込んできた。

「俺の荷物はどこだ?」

と訊くので、

「知らないよ。イギリス人たちはネッドのリュックしか置いていかなかったよ」

といったら、

「やられた!」
とうめき声を上げた。

いったい、何が起こったのか?

マーティンの説明によると、昨晩、わたしをユースホステルに送り届けたあとみんなで美心のウェイトレスを連れてバーに飲みに行ったという。

そしてそのあとみんなでホテルに行って泊まったそうだが、金髪美人のウェイトレスをものにしたのはマーティンだったという。

「それでイギリスの連中は頭にきて、俺の荷物を持ち逃げしたんだよ」

とマーティンは悔しそうにいった。

「タイで買ったルビー、インドで買ったサンダルウッドの香料、アフガニスタンで買ったハッシーシ、イスタンブールで買った金の三連リング。。。」

マーティンは、荷物に入れていた旅の土産物を一つひとつ指折り数えて惜しんでいたが、もう遅かった。

警察に被害届を出しに行くので一緒に来てくれとマーティンがいうので、彼と共に警察に行って「証人」として証言したが、今更、被害届を出しても間に合わないだろうと思っていた。

今朝のイギリス人たちの慌てふためきようから見て、彼らは今頃、アウトバーンを猛スピードでベルギー国境に向かって走っているに違いなく、

今日中にはベルギーのオステンドの港に着いて、ドーヴァー行きのフェリーに乗るだろうと思った。

傷心のマーティンは結局、手ぶらのまま故郷のベルリンに帰っていった。

続く


Viewing all 194 articles
Browse latest View live