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Channel: ジャックの談話室
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昨日の旅(11)

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☆ バンコク到着
神戸を出て2週間後に目的地のバンコクに到着した。
船はシャム湾からメナム河に入ってゆっくりと上流のバンコクの港に向かって進んでいった。
メナム河の水は真っ茶色で、両岸にはびっしりとマングローブが生い茂り、ところどころに日本の石灯籠によく似た小さな石造りの祠が姿を覗かせていた。
香港もマニラも外国に来たという実感はなかったが、このいかにも南国的な光景を見て、はじめて異国の地にやってきたという感慨が湧いてきた。
悠々と流れるメナム河を船でゆっくりと遡っていくと、自分が映画の主人公にでもなったような高揚した気分になった。
タイにはこの後、何十回も通うことになるのだが、常に飛行機で、船で入国したのはこのときが最初で最後だった。
飛行機による入国では絶対に味わえないこのような体験をもてたのは幸運だったと思っている。

船がバンコクのクロントイ港に到着すると、タイ人の税関吏が多数、乗り込んできて、バンコクで下船する乗客の荷物検査を船上で始めた。
わたしの荷物はリュックサックひとつだったが、外国人の乗客は三等船客でも多くのトランクや旅行鞄を持ち込んでいて、税関吏はいちいちそれらを開けて検査していたので、検査がぜんぶ終了するまでかなりの時間がかかった。
荷物検査のあと、バンコクが目的地だった乗客は下船してトゥクトゥクに乗ってそれぞれの宿泊所に向かった。
当時、カオサンの安宿街はまだ存在せず、欧米人の三等船客は、中華街のヤワラーにあるタイソングリートという安宿に泊まる人間が多かった。
タイソングリートは漢字で書くと「大旅社」で、いわゆる支那宿である。
一方、日本人の乗客の多くは、わたしとカルロッテを含めて、チュラロンコン大学のキャンパス内にあるユースホステルに向かった。
ユースホステルの宿泊費は日本円で一泊100円ほど、食事は大学の学生食堂で一食50円から80円で食べることができた。
ユースホステルは大学のキャンパス内にあったので周囲はとても静かだった。
キャンパスを一歩出ると、そこはタイの庶民が暮らす住宅地で、路地裏に入るとタイの子供たちに囲まれて日本人だとわかると「スキヤキ・ソング」を歌ってくれとねだられた。
当時、坂本九の「上を向いて歩こう」が世界的にヒットしていたのだ。
バンコクの庶民が暮らす路地裏は、まだのんびりした素朴な雰囲気が残っていたが、いったん表通りに出ると、
小型の三輪タクシーのトゥクトゥクが、黒い排気ガスをモクモクと吐き出しながら走りまわる活気のある都会だった。
タイといえば、セックス・ツーリズムのイメージが強いが、この頃、すでにパッポン・ストリートは、休暇でタイにやってきたベトナム従軍のアメリカ兵相手の歓楽街として賑わっていた。
アメリカ兵だけでなく、一般のツーリストを相手にしたセックス・ツーリズムも盛んになっていて、
サイアムスクエアの隣のリージェントホテルの前を歩いていたら、まだ昼間なのにホテルから出てきた白人の男性ツーリストにタイ人の売春婦が駆け寄って話しかけるのを目撃したことがある。
ユースホステルに泊まっていた同じバンコク下船組の20代半ばの仲の良い三人組の日本人は、せっかくバンコクに来たのだから、と女を買いにいったが、
ぎりぎりの予算で旅していたわたしには、そんなことに気前よく金を使える彼らが自分とは別世界の大人に見えた。
わたしはまだ19歳で、そのようなことを考える余裕もなかったのだが、そんなわたしはバンコクで20歳の誕生日を迎えた。
「ぼくは二十歳だった。それがひとの一生で一番美しい年齢だなどと誰にも言わせない」
これはフランスの哲学者、ポール・ニザンの著書『アデン・アラビア』に出てくる有名な言葉だが、二十歳というのはわたしにとっても格別、美しい年齢ではなかった。
しかしこの二十歳の誕生日は、単に成人になったというだけでなく、その節目となる誕生日を外国で迎えたということで特別、記憶に残っている。
そしてこの誕生日をタイで迎えたことは、わたしにとって特別な意味をもつような気がする。
タイとの間に浅からぬ因縁を感じるのだ。
わたしはこれまで30回以上、タイに行っているが、特にタイ人が好きというわけでもないのに、これだけの回数、タイに行っているのは、タイとの間になんらかの縁があるとしか思えないのである。
誕生日には、ユースホステルに泊まっていた日本人と一緒に日本人クラブに行ってスキヤキを食べた。
この日はチュラロンコン大王として知られるラマ5世が崩御された記念日で、タイでは祝日になっていて、チャオプラヤ河で華麗な装飾を施した豪華な王室御座船のパレードがあると聞いて見物に行った。
バンコクでは日本大使館にも行った。
在外の日本公館は、わたしのような貧乏旅行者には冷たいので、特別な用事があるとき以外は行くのを避けていたのだが、
東京で知り合いだった女性の友人がバンコクの日本大使館勤務で、わたしがバンコクに行くというと、その友人に連絡しておくから是非、会いに行くようにといわれていたのだ。
大使館に行くと、彼女の友人の大使館員は、彼女からすでに連絡を受けていて愛想よく迎えてくれた。
フィリピンでタクシーの運転手とトラブルを起こした話をしたとき、フィリピンは反日感情が強いからそのせいではないかといったのがこの大使館員だった。
彼はまた「旅行中は水に注意するように」と忠告してくれたが、「身体を鍛えるために、毎日、ルンピニ公園の水道の蛇口から出る茶色の水を飲んでます」といったら、笑っていた。
実際、ルンピニ公園の茶色の水道水をいくら飲んでも腹を壊さなかったのだから、若さというのは大したものである。
続く

昨日の旅 I

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昨日の旅(1):神戸港 http://jack4afric.exblog.jp/28198180 昨日の旅(2):大学受験失敗 http://jack4afric.exblog.jp/28207720 昨日の旅(3):Kさんとの出会い http://jack4afric.exblog.jp/28215246 昨日の旅(4):カルロッテとの出会い http://jack4afric.exblog.jp/28224457 昨日の旅(5):出航 http://jack4afric.exblog.jp/28232048 昨日の旅(6):横浜 http://jack4afric.exblog.jp/28285851 昨日の旅(7):船の仲間たち http://jack4afric.exblog.jp/28307885 昨日の旅(8):船の生活 http://jack4afric.exblog.jp/28372902 昨日の旅(9):香港 http://jack4afric.exblog.jp/28459017 昨日の旅(10):マニラ http://jack4afric.exblog.jp/28500124

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☆ 昨日の旅(2):大学受験失敗
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☆ 昨日の旅(5):出航

☆ 昨日の旅(6):横浜

☆ 昨日の旅(7):船の仲間たち


☆ 昨日の旅(8):船の生活
○ ☆ 昨日の旅(9):香港

☆ 昨日の旅(10):マニラ




今こそ、韓国に謝るべきか

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先日、本屋に行ったときに作家の百田尚樹氏のベストセラー本、「今こそ、韓国に謝ろう」を立ち読みしました。
百田氏はこの本で、日本が朝鮮の文化や朝鮮人の民族性を無視して、朝鮮半島に巨額の投資を行って朝鮮を近代化してしまったことにたいして「すみませんでした」と謝っています。
この言葉には皮肉がこもっているのでしょうが、半ば本気でいっているのではないかという気もします。
実際、韓国人は36年間の日本統治を深く恨んでいるそうで、パク・クネ前大統領などは1000年経っても恨みは消えないといったそうです。
日本は本当に朝鮮にたいしてそれほど酷いことをしたのでしょうか?


韓国人のいう日帝36年の間に、日本は朝鮮の小学校の数を100から5000に増やして239万人が就学できるようにし、識字率を4%から61%に引き上げ、
師範学校と高等学校をあわせて1000以上つくり、京城には現在のソウル大学の前身である帝国大学まで作りました。
また病院を作ってそれまで蔓延っていたカルト的な呪術医療を禁止し、浄水場を作って上下水道を整備し、それまで泥水を啜っていた朝鮮人に安全な飲み水を供給し、入浴の習慣を広めました。
おかげで朝鮮の衛生状態は向上し、朝鮮人の平均寿命は24歳から30年以上伸び、人口は2倍に増えたといいます。
さらに道路や川や橋を整備し、鉄道を5000キロ以上敷設し、港を作り、発電所を作って電気を引いて電灯がつくようにし、ビルを作り、市外電車も走るようにしました。
また禿げ山に6億本もの樹木を植林し、ため池を造り、耕地を2倍以上に増やし、稲作ができるようにし、近代的な農業を教えて、1反辺りの収穫量を3倍に増やしました。
また階級制度を廃止し、人口の30%を占めていた奴隷を開放し、家父長制を制限し、家畜扱いだった女性に名前が付けられるようにし、幼児売春や幼児売買を禁止し、
朝鮮人官吏を積極的に登用し、警官の6割、議会議員の8割を朝鮮人が占めるようにしました。
このような投資にかかった費用の3分の2は日本政府の持ち出しで、すべて日本国民の税金によって賄われたといいます。
その結果、朝鮮はアフリカ並みの極貧国から日本と変わりない近代国家に生まれ変わったわけで、感謝されこそすれ、恨まれる筋合いはないと思うのですが、
困ったことに人間というのは、親切にされたからといって感謝するとは限らないのです。
特に朝鮮(韓国)の場合は、伝統的な小中華思想のおかげで朝鮮は日本の兄貴分であるという優越意識があるために、
植民地時代の日本の功績を評価することは、日本が朝鮮よりも優れていた事実を認める結果につながり、どうしてもそれができません。
その代わりに、韓国人は、朝鮮は日本統治時代に日本によって過酷な搾取を受けたと主張するのですが、そう思わないと、彼らのアイデンティティーは崩壊してしまうのです。
韓国人が慰安婦問題で朝鮮人慰安婦が日本軍によって強制連行されて性奴隷にされたと言い張るのも同じ文脈から理解できます。
彼らは、同胞の女が金のために喜んで日本兵に身を任せたとは信じたくないのです。
現在でも日本には5万人もの韓国人の売春婦がいて、日本の男相手に売春しているそうですが、韓国人はそういう自分たちにとって都合の悪い事実は見ないで済ますという特異な才能があるようです。
最近、韓国政府は、大韓民国の歴史は1919年に始まると主張するようになったといいます。
大韓民国というのは、日本が大東亜戦争に敗れたあと、朝鮮半島の北部をソ連が、南部をアメリカが占領する結果となり、日本の敗戦後3年目にあたる1948年8月15日にアメリカが傀儡の李承晩を擁して樹立させたものなのですが、
1919年に上海に大韓民国臨時政府なるものができていたそうで、それを根拠に大韓民国はこの年に誕生したと言い張っているのだそうです。
この上海の臨時政府なるものは殆ど活動しておらず、第二次大戦時の連合国にも認められていなかったそうですが、
戦後も韓国政府は、これを根拠に1951年に日本が連合国との間で結んだサンフランシスコ条約に連合国の一員として参加させろとゴネたといいます。
もちろんこの韓国の要求は、連合国側から一蹴されたそうですが、大日本帝国の一員として大東亜戦争を日本と共に戦い、BC級戦犯を148人も出し、
靖国神社に2万1000柱もの朝鮮人兵士・軍属が祀られている事実を完全に無視してそのような主張を行った面の皮の厚さには驚かされます。
まわりを日本、中国、ロシアといった強国に囲まれた小国が生き延びていくための知恵なのかもしれませんが、こういう恥知らずなことはやっぱり韓国人しかやらないのではないかという気がします。
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私は上の写真を初めて見たとき、この韓国人がなにをいっているのかよく理解できなかったのですが、
韓国人の脳内では、韓国は日本統治下の1919年に上海で大韓民国臨時政府を作って日本の植民地支配に抵抗し、
1941年から始まった大東亜戦争では連合国の一員としてアメリカと共に日本と戦い、日本に原爆を落として降伏させたことになっているらしいのです!
アメリカの歴史学者、エドワード・ルトワックはその著書「戦争にチャンスを与えよ」で、
「韓国がいつまでも日本を恨むのは、日本と戦争したことがないからだ。韓国人は本当は日本人ではなく日韓併合を抵抗もせずに受け入れた自分たちの先祖を恨んでいるのだ」
と述べています。
親日法なる法律を作って、日本統治時代に先祖が日本に協力していたとみなされる韓国人の子孫の財産を没収するなどという馬鹿なことをやっているのはそのためでしょう。

日本統治時代は大半の朝鮮人が日本に協力していた筈ですが、韓国人は自分たちの先祖が日本の植民地支配を唯々諾々と受けいれただけでなく、

戦時中は、男は兵隊に志願して日本兵として戦い、女は慰安婦になって戦争に協力したという事実をどうしても認めることができないでいるのです。
彼らは、そのような現実から目をそらして、朝鮮人は過酷な日本の植民地支配に対して立ち上がり、勇敢に戦ったことにしているわけで、
そのようなねつ造した歴史認識に基づいて日本に過去の植民地支配について謝罪を迫っても、
日本としては、当然のことながら、受け入れることはできないので、いつまで経っても韓国の欲求は満たされることはなく、日本を恨み続けることになるのです。
このような理不尽な要求を続ける韓国にたいして日本がすべきことは、安易に謝罪することではなく、韓国は日本のお陰で発展したという日本の言い分を粘り強く主張し続けること以外ないと思います。
韓国がそのような日本の主張を簡単に受け入れるとは思えませんが、少なくとも日本には日本の言い分があること、
日本は韓国の歴史認識を共有しないことを韓国に判らせることはできる筈で、すべてはそこから始まるのです。
関連記事:「日本人と一緒に大東亜戦争を戦った朝鮮人」



今週のイケメン
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本日のつぶやき

アジア各国の同性愛は道徳的に許容できないと考える人の割合。
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日本が31パーセントで一番低いが、トルコを除く中東イスラム圏の低さに注目(40~50%)タイやカンボジアなどインドシナ半島諸国と変わらない。フィリピンの65%は驚き。


つぶやき2

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ゲイリブには、ゲイであることはカミングアウトしても、在日であることは隠している人間が多い。「民族同一性障害」の大変さを思う。


つぶやき3
久保 勝‏ @Masaru615One · 6月11日 教育実習中、何度も教員が「ホモ」「おかま」と笑い飛ばす場面がありました。「知らない」だけで素敵な先生が子どもたちへの凶器になりかねない現実。悲しかった。
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「ホモ」や「おかま」は差別語だと非難しながら、提携している自治体と一緒になって「LGBTのLはレズという意味です」と書いたティッシュを配っている学生活動家。

それにしてもこの手の活動家を名乗る学生の顔面偏差値の低さには毎回、驚かされる。

ちなみに私はホモもレズも「おかま」も「おなべ」も差別語だとは思っていないので、これらの言葉をブログで自由に使っている。私が批判しているのは、ホモやおかまという言葉を聞くのは悲しいといいながら、レズという言葉を平気で使うその無神経さとダブスタである。


つぶやき4
ちひろっぺ(更年期☆症候群)‏ @chihiroppe3 #レインボーフェスタ和歌山 の後援をしている和歌山市に「トランスジェンダー体験ブース」に関する見解を求めたメール和歌山市 男女共生推進課から回答文書が来たのでお約束通りここに載せときます。
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LGBT関連の業務を担当する自治体の部署は「男女共生推進課」とか「男女共同参画課」が多いけど、これってゲイリブ=LGBTがフェミニズムの傘下に入っていることの明確な証拠でしょう。



つぶやき5

やまだ悦子‏ @etsuko256 ジェンダーフリーとごっちゃになってるよなぁ。
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LGBT教育というのは、ジェンフリ教育の焼き直しだから。

つぶやき6
あえてターゲティングしない「インクルーシブ・マーケティング」9/14(木) 11:02配信 Forbes Japanhttps://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170914-00017704-forbes-bus_all
いまだに飽きもせずにハセベ渋谷区長の提灯記事を書いてるやつがいる、と思ったら電通だったw松中権氏が電通を辞めてもまだ、電通とハセベ区長の腐れ縁は続いているらしい。しかし、ダイバーシティ&インクルージョンという言葉、一般に浸透する前にすでにして古雑巾みたいな使い古し感が漂っている。


つぶやき7
安倍首相、インドで大歓迎 4度目の訪印
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https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/fnn?a=20170914-00000327-fnn-int
ある中国通を自称するジャーナリストが、日本は最早、経済力でも軍事力でも中国に太刀打ちできないから、中国のいうことをよく聞いて中国と仲良くするしかないといっていたが、なにも日本は一国で中国に対抗する必要はない。現在、安倍さんが精力的に推し進めている日米印豪の中国包囲網が完成すれば、中国は手も足も出なくなる。エドワード・ルトワックは、アメリカがアジアから手を引いた場合でも、日本、ベトナム、インドが手を組めば、人口、経済力、軍事力で中国を上回ることができるといっている。


つぶやき8
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もうこれしかないだろうね。
あと北朝鮮の核開発停止と日本人拉致被害者全員帰国までは、日本全国すべてのパチンコ店を営業停止にすべき。


つぶやき9
BOKU&A™㈱‏ @Iandsomebody · 15時間15時間前【LGBTコミュニティこの20年の歩み】―司法とメディアの移り変わりー
素朴な疑問そもそも「LGBTコミュニティ」ってどこにあるんですか?(2丁目や特定団体以外で)

https://twitter.com/Iandsomebody/status/908482143134744576ユーザーからの次のツイート
そもそもLGBTという言葉自体、20年前には存在しなかった。


つぶやき10

水原希子出演のCMに「日本人を使え」など差別ツイート 

http://www.huffingtonpost.jp/2017/09/13/kiko-mizuhara-suntory-cm_a_23208289/
日本人になりすまして利益を得ながら、あちこちで日本の悪口をふりまく。それを批判されると「人種差別ニダー」と被害者ポジションを取る。日本人に一番嫌われる韓国人の行動パターン。


つぶやき11
志位和夫‏認証済みアカウント@shiikazuo · 9月16日 北朝鮮に核兵器を放棄させるには、「この道を進めば未来はない」ことを理解させるだけでなく、「核放棄の方向に転換してこそ、安全が保障され、豊かな未来が開かれる」と実感・確信させなければならない。そのためには、制裁強化だけでなく、対話と交渉のプロセスがどうしても必要だ。
あんたが平壌に行って、対話と交渉をやってくればいい。
交渉が成立するまで、帰ってこなくていいから。


つぶやき12
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在日というだけで、こんなブスでもサントリーのCMに出れるんだから、そりゃ居心地よくて日本から出ていく気にはなれないだろうね。文句いう人間はレイシスト呼ばわりすれば黙らせることができるし。

ユーザーからの次のツイート

いつのまにか大国になったドイツ

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ドイツのメルケル首相が、北朝鮮が核やミサイルの実験を繰り返し緊迫する朝鮮半島情勢について「われわれに交渉参加の要請があれば、即座に応じる」と述べ、仲介外交に意欲を示しているそうです。
https://www.nikkei.com/article/DGXLAS0040004_Q7A910C1000000
彼女は、以前から、「この問題は、平和的な外交による解決しかありえない」と主張して、北朝鮮にたいする軍事力行使をちらつかせるアメリカのトランプ大統領を牽制しているのですが、
現在、西側諸国で、トランプ大統領にたいしてこれだけはっきりと意見をいえる首脳はほかにいないでしょう。

フランスのマクロン大統領やイギリスのメイ首相は、ヨーロッパで一人勝ち状態にあるドイツに対抗するためにトランプ大統領にすり寄っているし、
北朝鮮のミサイル問題や中国との間で尖閣諸島の問題を抱えている日本は、安全保障の面でかってないほどアメリカ依存を強めています。
そんな中で唯一ドイツだけがアメリカに物申す立場にいるのです。
今年の5月にイタリアで開催されたG7サミットでは、地球温暖化問題や保護貿易をめぐってアメリカのトランプ大統領とメルケル首相が対立し、
サミット後、メルケル首相は、「ヨーロッパがアメリカに完全に頼れる時代は終わった。ヨーロッパは自分たちの運命を自分たちで切り拓いていくしかない」と述べたそうですが、
この発言の裏には「少なくとも、ドイツはアメリカに頼らなくともやっていける」という自負心があるわけで、いつのまにドイツはそんなに強い国になっていたのかと驚かされます。
日本とドイツは共に第二次大戦に敗戦国で、敗戦の結果、戦前の領土の多くを失いましたが、
ドイツはそれに加えて、東ドイツと西ドイツに分断され、首都であったベルリンは東ドイツの領土内に浮かぶ陸の孤島になってしまいました。
1948年にソ連がベルリンに向かうすべての道路と鉄道を封鎖したとき(ベルリン封鎖)、アメリカ軍はベルリン空輸作戦を実施して、ベルリンに物資を輸送してベルリン市民の生存を保障しました。
西ドイツがアメリカに完全に頼り切っていたこの頃と現在では隔世の感があります。
戦後、日本も西ドイツもアメリカによる復興支援を受けて順調に経済発展するのですが、経済発展の度合いは西ドイツよりも日本の方がめざましく、1968年に日本のGNPは西ドイツを抜き、世界第二の経済大国になります。
しかし、バブル崩壊後、日本経済は低迷します。
一方、ドイツは1990年に念願のドイツ統一を果たし、その後、EUの共通通貨であるユーロを導入します。
ユーロの導入は、ドイツ統一によってドイツが再び大国になることを恐れたイギリスやフランスが、ドイツ統一の交換条件として強い通貨であるマルクを放棄するように迫った結果だといわれていますが、
皮肉なことにドイツ経済はユーロ導入によってますます強くなります。
ユーロ安の影響でドイツの輸出産業は大いに潤い、ソ連の崩壊後、EUに加入した東欧諸国の優秀で安価な労働力を自由に使えるようになったからです。
そして気がついたら、ドイツはEUを牛耳っていて、フランスの歴史人口学者のエマニュエル・トッドがその著書、『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる』で予言したように、アメリカと対立するまでになっていたのです。
去る2015年にはドイツにシリア人を初めとする大量の難民が押し寄せました。
メルケル首相がドイツはすべての難民を受け入れると表明したことが引き金になったのですが、それにより難民がヨーロッパに溢れ、大混乱に陥ったのは記憶に新しいところです。
ドイツでは一度に大量の難民が押しかけたせいで収容施設が足りなくなったり、難民の若者がドイツ人女性を暴行する事件が頻発して、メルケル首相を批判する声が高まったそうですが、
あれから二年近く経った現在、メルケル首相にたいする批判は収まって支持率は回復し、このままいくと9月の総選挙で勝利して首相に再選される確率が高いといわれています。
2015年一年でドイツには90万人近くの難民が流入したそうですが、結局のところドイツ国民はメルケル首相が断行した大量の難民受け入れ政策を支持したことになるのでしょうか。
ドイツは日本と同様、少子化問題を抱えていて、2015年のドイツの出生率は1.41で日本の1.43よりも低く、人口を維持するために必要な出生率である2.07を大幅に下回っています。
出生率の低下は日本よりもドイツの方が先に顕著になり、80年代にすでに1.4の水準まで低下していて、このままいくと将来、ドイツ人はこの世から消えてなくなるといわれたものです。
この少子化を解決するためにドイツは積極的に移民を受け入れるようになります。
その結果、現在ではドイツの全人口、約8220万人の内、移民のルーツを持つ人間が約1710万人に達し、人口の約21%を占めるようになっているそうです(Statistisches Bundesamt 2016a)。
現在、ヨーロッパでは移民排斥の機運が高まっているといわれていますが、ドイツではこれだけの移民を受け入れながら、
移民制限を訴える政党AfD(ドイツのための選択肢)の支持率が伸び悩み、メルケル首相率いるCDU(キリスト教民主同盟)の支持率が堅調に推移しているといいます。
このことは、ドイツ国民が移民受け入れには犯罪の増加や治安の悪化などのマイナス面を上回るプラスの面があると考えていることを示しているのではないでしょうか。
実際、近年のドイツ経済の好調は移民の存在なくしては、語ることはできないし、ドイツの産業界は大量のシリア難民の受け入れを歓迎しているといいます。
それにしてもたった一年で90万人もの難民を受け入れることがいかに凄いことか、日本に同じ数の難民が押し寄せたときに果たして適切に対応できるか、考えてみればよくわかるでしょう。
2015年の90万人よりだいぶ減ったとはいえ、2016年にもドイツは30万人の難民を受け入れているのです。
多少の混乱はあるにしても、これだけの数の難民を受け入れてしまうドイツという国の底力は大したものであるといわざるを得ません。
ドイツは大量の難民を受けいれることで、不足している若年労働者を確保すると同時に「世界中の迫害されている難民を受け入れる人道国家」というイメージを世界に拡散し、

ヒトラー、ナチス、ホロコーストという過去の歴史に由来するネガティブなイメージを払拭することに成功しました。
さらに最近では、メルケル首相は保護主義に傾くアメリカのトランプ大統領に対抗して自由貿易のリーダーとして振舞うようになっています。
ドイツ在住のノンフィクション作家である川口マーン恵美さんによると、過去にホロコーストという大罪を犯したにもかかわらず、ドイツ国民はみずからを道徳的な国民であると信じているそうで、
日本にたいしては、ドイツは過去に犯した罪をきちんと認めて謝罪しているのに、日本は謝罪していないと上から目線でエラソーにみているといいます。
同じ第二次大戦の敗戦国でありながら、どうしてこれだけの差がついてしまったのか、日本人は真剣に考えるべきだと思いますね。



今週のイケメン
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インド、クーチビハール藩主、ジーテンドラ・ナラヤン殿下(1886~1922)
娘は有名なジャイプールのマハラニ、ガヤトリ・デヴィ(1919~2009)

本日のつぶやき
McLOVIN‏@iMcLOVIN7 日本人が普段食ってるマグロって南太平洋で獲れた冷凍物でしょ。それを旨い、旨いと言ってるわけだけど、「現地で食うとめちゃくちゃ旨いんだよ、日本のマグロなんて食えたもんじゃないよ」って言われたんだけど、それを確認する手段がない。フィジーとかで食べた人いますか?
タヒチでマグロの刺身を食べたことがあるけど大して旨くなかった。レストランのメニューではChinese Raw fish とか日本語そのままSashimiとか書いてあるけど。ちなみに値段は高級でないフツーのレストランで一人前2700円くらい。
日本のマグロ漁業の基地になっているカナリア諸島のテネリフェの日本レストランは、高級レストランって感じじゃなくて、普通の食堂みたいなところだったけれど、魚はマグロも含めてすべて非常に美味だった。


つぶやき2

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モナ夫が徴兵制を容認だって。当然、LGBTにも勧めるんだよね?


つぶやき3

山本 蘭‏ @RanYamamoto OUTIN JAPANって、企業の宣伝の片棒を担がされていて、出演者は必ずGAPの衣装や小物を何か一つでも身につけなければならないのはあまり知られていない。http://outinjapan.com

イケてないモデルばかりだから、宣伝効果がないような気がするけど。


つぶやき4
山本 蘭‏ @RanYamamoto · 9月17日 LGBはダメ、セクシュアルマイノリティもダメ、性的少数者もダメとなれば、どんな言葉で表現すればいいんだと聞かれることがあるけれど、表現しなくていいんですよ。そもそもひと塊の集団ではないし、本当に多様性を尊重するなら全部ひっくるめてまとめる必要も無い。


つぶやき5
オナベ二人組がタイと台湾に遊びに行きたいからってクラファンとやらで寄付金乞食してるけど、ちゃんと自分で働いて稼いだ金で行けや!といいたくなる。
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実はボクたち、二人とも元女子なんです。。。どう見ても女にしか見えないけどw

男から女になるのも大変みたいだけど、女から男になるのはもっとムツカシそう。特に日本人の場合は、タッパが足りなさすぎる。あとタイのニューハーフなんか並みの女なんか足元にも及ばない美人がいるけど、オナベで恰好いい男というのはお目にかかったことがない。

https://camp-fire.jp/projects/view/44478?token=3iazee39


つぶやき6

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これ例の電通の調査結果を表にしたものらしいけど、どうみてもおかしいでしょ。

まず2012年の調査だけど、Lの0.1%、Gの0.3%、Bの0.7%は妥当だとして、Tの4.1%は多すぎるでしょう。

LGBを全部足しても1.1%にしかならないからTを水増しして、合計で5.2%になるように操作したんじゃないかしら。

2015年の調査ではTの4.1%が多すぎると指摘されて0.7%に減らし、LGBを少しずつ増やしたけどそれでも合計で3.8%にしかならないから、Others(その他)のカテゴリを付け加えたみたいだけど、そもそもOthers(その他)って何なのよw

よくもまあこんないい加減なデータを発表するもんだと呆れるけど、この電通がでっち上げたデタラメの7.6%という数字が勝手に一人歩きしてるんだよね。






日本はやはり移民を受け入れる必要があるのではないか

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最近、ネットなどで欧米諸国の移民関連の記事をよく目にするようになりました。
移民の増加による犯罪率の上昇や治安の悪化、イスラム過激思想に染まったイスラム系移民二世によるテロ事件の頻発、イスラム女性のブルカの着用に関する議論、等、
移民受け入れのマイナス面を強調して、日本は欧米の現状を他山の石として移民の受け入れに慎重になるべきだという意見が多いのですが、私もそれらの意見に基本的に賛成です。
しかし、だからといって、冷静に考えて、日本がこれから移民や外国人労働者を受け入れずにやっていくのはムツカシイのではないかという気がします。
ご存じのように現在、日本では少子高齢化が問題になっています。

日本では1996 年から15~64歳の生産年齢人口が減少し始め、2008年には人口も減少しています。
このまま推移すると33年後の2048年に日本の人口は1億人を割り、2060年には8,674万人まで減少し、今後50年間で人口の約3分の1が失われるといいます。
生産年齢人口(15~64歳の人口)については、2014年には7785万人だったのが、2030年に6700万人まで減少し、総人口に対する割合は63.8%(2010年)から58.1%(2030年)に下がるそうです。
一方で高齢者人口は、「団塊の世代」が75歳以上となる2025年には3,657万人に達し、2060年には国民の約2.5人に1人が65歳以上、4人に1人が70歳以上の超高齢化社会が出現するといいます(高齢社会白書 2014)。
このような高齢化社会の到来を少しでも遅らせるために政府は出生率を上げることを目指した様々な施策を講じているようですが、妊娠可能な女性の人口が減少している状況で、その効果は限定的なものにならざるを得ないでしょう。
2020年には日本女性の2人に一人は50歳を超えるといいますから。
生産年齢人口の減少による経済成長の鈍化、高齢者の社会保険費用の増大による若い世代の負担の増額、少子化による家族機能の低下、人口減少による地域社会の衰退、等、少子高齢化社会の弊害はいうまでもありません。
バブル崩壊後の長期にわたる経済の低迷も、日本における生産年齢人口の減少とそれによる消費の萎縮とは無関係ではないでしょう。
このまま放置しておくと、日本は緩慢な自殺の道を辿ることになるのではないという気がします。
この少子高齢化の解決策は唯一、移民の受け入れしかないのではないかと、最近、思うようになりました。
日本では、移民の受け入れについては拒絶反応が強いように思えますが、日本に流入する外国人の数は着実に増えています。
最近、技能実習生という言葉をちょくちょく耳にするようになっていますが、様々な業界で「技能実習」という名目で外国人を受け入れて、低賃金でこきつかっているそうで、
特に農業実習生として農家などで働いている外国人労働者の待遇は劣悪だそうで、逃亡する外国人も多いといいます。
これら低賃金外国人労働者の実態は、偶に漏れ伝わってくるだけで、一般の国民にはよく知られていないのですが、
国民の外国人労働者にたいする無関心をいいことに、日本で外国人労働者が搾取されているとしたら問題です。
現実に日本の産業界が外国人労働者を必要とし、彼らなしにはやって行けないのであれば、国民もそれをタブー視するのではなく、
どのような形で外国人労働者あるいは移民を受け入れるのが日本にとって最善であるか、もっと議論すべきではないでしょうか。
このままなし崩し的に外国人を受け入れていって、気がついたら国中、外国人だらけになっていたというヨーロッパみたいにならないように、
今からしっかりと外国人受け入れの計画を立てて、きちんとコントロールできるようにしておいたよいのではないかと思うのです。
今や世界4位「移民受け入れ大国」日本の末路
私は日本の少子高齢化問題を解決するためには、移民を受け入れるしかないと考えていますが、どこの国からでも受け入れるのではなく、移民の送り出し国は選ぶべきだと思っています。
具体的には反日国家として世界で一、二を争う中韓からは移民を受け入れるべきではないと考えています。
中国人については、反日であることに加えて、世界中どこの国でもチャイナタウンを作って固まって住み、移住先の国に同化しようとしません。
さらに中国共産党は日本を属国にするという野望をもっているそうで、日本在住の中国人はその先兵として働く可能性があります。
韓国人も反日であることに加えて、北朝鮮の工作員が紛れ込んでくる可能性があるし、女はすぐに売春を始めるだろうし、彼らをこれ以上、日本に受け入れてもロクなことにはならないでしょう。
すでにして中国人と韓国人は、在日外国人の一位と二位を占めているわけで、在日外国人の国別のバランスを考える上でもこれ以上、彼らを受け入れるべきではないと思います。
それではどこの国の人間を移民として受け入れたらよいか、私はフィリピン人を受けいれたらよいのではないかと考えています。
フィリピン人は、出稼ぎ労働者として世界中で働いていますが、フィリピン人の出稼ぎ労働者が多いのは、フィリピン国内に仕事がないせいもありますが、
フィリピン人の社交的で陽気な性格が受け入れ国の人間に好かれているという面もあるのではないかという気がします。
二年近く前にエチオピアを旅行したとき、往路・復路ともにアラブ首長国連邦のドバイで飛行機を乗り継いだのですが、

ドバイでは出稼ぎで来ているらしいフィリピン人を多数、見かけました。
往路ではドバイに着いて空港に乗り入れているメトロを使って市内に出ようとしたとき、
チケットを改札口のパネルに当てる要領がわからずモタモタしていたら陽気なフィリピーナが二人現れて、親切にやり方を教えてくれました。
復路ではドバイの空港のスタバで、カプチーノとビーフサンドウィッチを頼んで、余っていたUAEの金を全部ポケットから取り出して、
カウンターにいたフィリピン人の男性従業員に「これで足りなかったら、残りはドルで払うから」といったら、
彼は私が出した紙幣とコインを面倒がらずに勘定して、「ちょうどぴったり合ってるよ!これ以上、払う必要ないよ」と嬉しそうに笑い、
その笑顔をみて、私も嬉しくなってしまいました。
日本では現在、介護士、看護師、保育士などの職種が不足しているそうですが、AIやロボットが取って替わることができないこれらの仕事は、親切で優しいフィリピン人に適していると思います。
もちろんフィリピン人といっても天使ばかりではないし、中には悪事を働く人間も出てくるでしょうが、
ある程度の犯罪の増加や治安の悪化は、移民受け入れの代償として引き受けるしかないと思います。
外国人労働者の労働環境が劣悪でないか監視して、彼らが犯罪に走るのを未然に防ぐことも必要になってくると思いますが、
いずれにせよ、現在の日本社会に漂う閉塞感は、少子高齢化が大きな要因になっていることに間違いありません。

ジジババばかり増えて、若者が少なくなる社会に活気が生まれる筈はないのです。




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昨日の旅(1)

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フランス郵船「ラオス号」


☆ 神戸港
今からちょうど50年前の1967年10月6日に私は神戸港にいた。
当時、就航していたフランスと極東を結ぶフランス郵船の客船ラオス号に乗るためだった。
その時、わたしは19歳だった。
フランス郵船の極東航路は1865年に就航を開始した歴史のある航路で、戦前は多くの日本人がこの郵船に乗ってフランスに渡ったという。
1969年に運航を停止したので、わたしはかろうじて間に合ったことになる。
極東航路には旧フランス領インドシナ三ヵ国の名前をとった「ベトナム号」と「カンボジア号」と「ラオス号」の三隻が就航していて、わたしが乗ったのはラオス号だった。

1964年に海外旅行が自由化されてから三年しか経っておらず、日本人の海外旅行者はまだ少なかった。
今のような格安航空券存在せず、日本からヨーロッパへ安く行こうと思うと、横浜からナホトカまで船、ナホトカからハバロフスクまで列車、
ハバロフスクからモスクワまで飛行機、モスクワからさらに列車でヨーロッパ各地へ乗り継いで行くか、
フランス郵船の定期便で横浜からマルセイユまで50日かけて行くかどちらかしかなかった。
本来、マルセイユまでは40日で行ける筈だったが、当時、スエズ運河が封鎖されていて喜望峰経由ルートをとっていたので、それだけ余計な日数がかかったのである。
いずれにせよ、モスクワ経由を使っても、フランス郵船を使ってもヨーロッパまで15万円ほどかかった。
高卒の初任給が1万8000円くらいだった時代で、その15万円を用意できなかった私は、マルセイユまでの航路の全ルートを船で行くのではなく、
バンコクで下船して、そこからカルカッタまで飛行機で飛び、カルカッタからイスタンブールまで陸路、鉄道とバスを乗り継ぎ、
イスタンブールから最終目的地のスウェーデンのストックホルムまでヒッチハイクで行くつもりだった。
神戸からバンコクまでの船賃は三等で3万5000円、バンコクからカルカッタまでは陸路で移動できないので、一番安いビルマ航空の学割で2万円、
カルカッタからイスタンブールまでの鉄道とバスを乗り継いで運賃は約1万円、イスタンブールからヒッチハイクをすれば合計6万5000円でスウェーデンまで行ける筈だった。
途中、クウェートに立ち寄って200cc売血すれば1万円になるから、実質の交通費は5万5000円で済む、と私にこの方法を教えてくれた京大生のKさんはいった。
これが当時、日本からヨーロッパに一番安く行く方法で、金のない私がヨーロッパに行こうと思ったら、この方法しかなかった。
岸壁に停泊していたラオス号は1万2000トンくらいの中型の客船で、船体は白く塗られていたが、近くで見るとかなりくたびれた感じだった。
港には、両親と母の弟である叔父さんが見送りに来た。叔父さんはわざわざ広島から見送りにきてくれていた。
当初、ラオス号は午後2時に出航する予定だったが、午後5時に延びたので、せっかちな母は「それじゃあ、帰るわ」といって、出航を待たずに父と叔父さんを促してさっさと帰ってしまった。
ほかの乗客を見送りにきていた家族は、帰らずに出航まで待っていた人が多かった。
ひとりいかにもお袋さんといった感じの初老の着物姿の女性が息子らしい若い男性を前にしてしきりと涙をぬぐっていた。
永の別れが辛くて泣いているのかと思ったら、その息子は大学生で2週間、東南アジアに旅行に行くだけだと聞いて驚いた。
たった二週間の旅行で泣いて別れを惜しむなんていかにも大げさだと思ったが、当時、海外旅行は庶民にとってまだめずらしく、そのお袋さんのような人もいたのである。
その点、わたしの両親はあっさりしたものだった。
10年は日本に帰らないと宣言していたにもかかわらず(実際は2年半で帰国した)、涙などまったく見せずに、笑ってさよならをいって帰って行った。
もっとも、わたしが海外に行くと言い出したとき、両親は猛反対した。
息子が突然、大学には行かない、外国に行くなどと言い出したのだから、反対するのは当然である。
父親は、自分が下積みの人生を送ることになったのは、学歴がないからだと信じていたので、小学校、中学校と成績が良かった長男の私には大学を卒業して欲しいいと願っていた。
わたしも当然、大学に行くつもりだったので、高校は迷うことなく進学校を選んだ。
しかし、高校に入学した途端、なぜかわたしは突然、勉強に興味を失った。
なぜ突然、勉強に興味を失ったのか、理由はわからない。
高校時代の三年間はずっと頭の中に霧がかかったような状態だった。
もしかしたら、それは性欲と関係があったのかもしれない。
続く


本日のつぶやき
これからしばらく50年前の旅行記を連載します。50年前の世界にタイムスリップしてください(笑)
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昨日の旅(12)

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☆ 夜のルンピニ公園

ルンピニ公園は、ユースホステルのあったチュラロンコン大学のキャンパスから近かったので、毎日のように行っていたが、ある晩、不思議な体験をした。

公園を歩いていると、ひとりのタイ人の若者が寄ってきてタイ語で話しかけてきた。
しかし生憎とわたしはタイ語ができない。
それでCan you speak english ?と尋ねたが、彼はクビを振る。
それではしょうがない。「会話は無理だ、残念だね」という意味を込めて肩をすくめてみせて、歩き出したが、彼はわたしの傍から離れようとせず、そのまま付いてきて、なにか言いたそうな目でわたしをじっと見ている。
年の頃は二十歳前後、森進一みたいなぽってりした唇が夜目にも赤くヌレヌレと光っていて、なにやら怪しい感じだった。
そのまま会話を交わすことなく、シーロム通りに近いラーマ6世の銅像が建っている出口まで歩いていったが、公園を出て明るい照明の下で彼の顔を見て驚いた。
唇が赤いのもどおり、彼は口紅をつけていたのである。

バンコクでは、もうひとつ面白い、というか怖い体験をした。

ある晩、大学のキャンパスを通って、泊まっているユースホステルに戻ろうとしていたとき、わたしの後ろから犬が2匹、ついてくるのに気がついた。

バンコクには野犬が多い。日本では野良犬が見つかると、保健所が捕獲して殺処分するので遭遇する確率は小さいが、バンコク市内では至るところで野犬をみかける。

聞くところによると、仏教国であるタイでは殺生を禁止する仏教の教えのお陰で、野犬は野放しになっているそうだ。

バンコク市内には、街のあちこちに屋台が出ていて、野犬たちはその残飯を食べて生きているという。

問題なのは、これら野犬の大半が狂犬病の予防接種を受けておらず、噛まれると狂犬病に罹る危険があることだ。

おまけにタイの野犬はよく噛みついてくる。

一度、バンコクの街を歩いていて、屋台の傍を通ったら、屋台の裏に隠れていた野犬にいきなり噛みつかれたことがある。

幸い、そのときは短パンではなく、チノパンを穿いていて、布の上から噛まれたので、脚に歯形はついたものの、噛まれて出血するところまではいかなかったが。

元々、犬好きでない上に、そういうタイ特有の野犬の危険さもあって、あとを追ってくる犬たちに気味悪さを感じたのだが、夜の大学のキャンパスは真っ暗で、わたし以外に人影は見当たらない。

いきなり走って逃げたりしたら、犬は追いかけてくるだろう。それで犬に気づかれぬように足を早めて歩いたが、後ろを振り向いたら、いつのまにか犬の群れは20匹くらいに増えていた。

低い唸り声を挙げながら、あとをつけてくる犬たちに恐怖を感じ、近くの校舎に駆け込んで階段を上ったが、犬たちもわたしのあとを追って校舎に入ってきて階段を上ってくる。
階段を上った2階の廊下の突き当りにトイレがあって、その中に逃げ込み、内側から扉に施錠して、トイレの窓から外に向かって大声で「Help !」と叫んだら、
声を聞きつけた、近くの小屋で寝ていたと思われる管理人らしい中年男が裸に腰布を巻きつけたままの恰好で出てきて、犬の群れを追い払ってくれた。
わたしとカルロッテが泊まっていたユースホステルに若いドイツ人の夫婦がいた。
ダンナは22歳の学生で、奥さんが2つ年上の24歳、これが新婚旅行だという。
ユースホステルは、男女別々のドミトリーしかなく、シングルルームやダブルルームはなかった。
ある昼間、カルロッテが所在なげに中庭に佇んでいるのをみて、どうしたのかと訊いたら、ドイツ人の奥さんに頼まれてドミトリーを出ているという。
そのとき、女性用ドミトリーに泊まっていたのは、カルロッテとドイツ人の奥さんだけで、奥さんがダンナと二人だけのときを過ごせるように外に出ていたのだ。
新婚カップルなんだから、夫婦一緒のときを過ごしたいと思うのは当然だが、新婚旅行でわざわざ個室のないユースホステルに泊まるというのも、かなり物好きだと思った。
小柄なダンナは若かったけれど、とてもしっかりした人で、結局、カルロッテはこのドイツ人夫婦と一緒にスウェーデンに帰ることになった。
続く

昨日の旅(13)

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☆ ラングーン
バンコクからはビルマ航空でカルカッタまで飛んだ。
タイからカルカッタまで陸路で移動できれば一番良いのだが、種々の理由によりこの区間は飛行機でしか移動できない。
この区間の飛行便は、ビルマ航空の学割が一番安く、日本円で約2万円だった。
学割の特典を得るためには、日本大使館に行って、学生であるとの証明書を書いてもらう必要があるのだが、わたしは予備校を辞めていたものの東京に住んでいたときに、
御茶ノ水のアテネフランセでフランス語を習っていて、そのときの学生証を大使館員に見せたらすんなりと証明書を発行してくれた。
おかげで学割運賃でビルマ航空に乗ることができたのだが、そのせいであとで酷い目に遭うことになるとは、そのときは想像もしていなかった。

ビルマ航空の便は、ラングーン(現ヤンゴン)でトランジットのために一泊することになっていて、
ラングーンでのホテルの部屋と食事はビルマ航空が負担することになっていたのだが、現地に着いてみると、学割運賃の乗客にはホテルの部屋も食事も提供されないことがわかったのだ。
ビルマ航空には、カルロッテとバンコクのユースホステルで一緒になったドイツ人夫婦と一緒に乗ったのだが、学割運賃で乗っていたのはわたしだけで、
ほかの3人は正規の運賃で乗っていたので、彼らは無事、ホテルの部屋と食事にありつくことができた。
ラングーンの空港では所持金を厳しくチェックされ、所持していた金を通貨別に紙に書かされ、現地では闇レートでは両替しませんという誓約書みたいなものに署名させられた。
当時、ビルマ(現ミャンマー)は社会主義体制をとっていたが、社会主義国家の常としてドルと現地通貨のチャットの正規の交換レートと闇の交換レートに大きな差があり、
ビルマ政府は旅行者が闇レートで交換しないように神経をとがらせていたのだ。
「あなたはトランジットでラングーンで一泊するだけで、ホテルと食事はビルマ航空が提供するんだから、ここではお金を遣う必要がないでしょ。だから闇で両替なんかしたら絶対だめよ」
と太った税関吏のおばちゃんにいわれて、おばちゃんのいうとおり、両替の必要はないな、と思ったのだが、
入国後、ほかの3人と一緒にバスに乗せられて、宿泊先のストランド・ホテルに連れられていかれたとき、ホテルのフロントで、わたしだけ学割で乗っているという理由で、部屋と食事の提供を断られたのだ。
ストランド・ホテルは、シンガポールのラッフルズ・ホテルを建てたことで知られているアルメニア人のサーキーズ兄弟が建てたいわゆるコロニアルホテルで、
現在は改装されて小奇麗なホテルに生まれ変わっているが、この頃はかなり老朽化していて、フロントも旅館の帳場なみの狭さだった。
ホテルに泊まることになったほかの3人と切り離されてわたしが連れていかれたのは、ストランド・ホテルの隣のビルマ航空の事務所で、
そこの板張りのベンチで寝るようにいわれ、結局、ベンチの上に寝袋を敷いて寝ることになった。
部屋と食事にありつけたほかの3人が夕食に出たパンやデザートの果物をとっておいて差し入れてくれたので、一晩中、空腹に悩まされるという事態は避けることができた。
彼らが持ってきてくれたパンと果物で空腹を満たしたあと、カルロッテと一緒に近くにあるスーレーパゴダにお参りした。
パッポンなどの繁華街がネオン煌めく不夜城の呈をなしている大都市のバンコクから来てみるとラングーンの夜は本当に暗く、
暗い夜の街で輝いているのは、このスーレーパゴダともう少し離れたところにあるシェンダゴン・パゴダの二つのパゴダだけだった。
スーレーパゴダでご本尊の仏像の前に立って手を合わせて拝み、隣で突っ立っていたカルロッテにも拝むようにいったのだが、
「あたしは仏教徒ではない。無神論者だ」
といって頑として拝もうとしない。
わたしは、彼女のこういう融通の無さというか、頑固さがどうしても好きになれなかった。
スーレーパゴダにお参りして、カルロッテをストランド・ホテルまで送り、寝場所であるビルマ航空の事務所に戻ると、二人のビルマ人の青年がやってきて散歩に出ないかと誘われた。
それで一緒に外に出たが、当時のラングーンは本当になにもないところで、真っ暗の道を歩く以外することはなにもなかった。
時折、街灯が立っていたが、蛾がびっしりと集っていて、文字通り、誘蛾灯と化していた。
青年の一人は肌の色は褐色だったが、彫りの深い顔立ちをしていて、自分のことをアングレーだといっていた。
アングレーというのはビルマ語で、イギリス人とビルマ人の混血を指す言葉だそうだ。
青年たちと別れてビルマ航空の事務所に戻り、木のベンチに寝袋を敷いて寝たが、夜中に初老のビルマ人の男性が傍によってきて、
戦争中、自分はナントカ部隊のナントカ少佐の下で日本語の通訳をしていたと覚束ない日本語でボソボソと語りはじめ、わたしはその言葉を夢うつつで聞いていた。

続く

昨日の旅(14)

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☆ カルカッタ


『インド夜想曲』というインドを舞台にした大変、ロマンチックなフランス映画を観たことがある。

ジャン=ユーグ・アングラード演じる主人公の青年がインドで失踪した友人を探してインド各地を旅する話だが、

彼は旅の最後の目的地であるゴアのリゾートホテルで、カルカッタでの撮影旅行から戻ってきたばかりのフランス人の女流カメラマンと出会い、彼女と次のような会話を交わす。

「あなた、カルカッタに行かれたことある?」

「いや、まだ行ってない」

「あそこには行かないほうがいいわ」

「どうして? 僕は死ぬまでにできるだけ多くの国や都市を旅行して回りたいと思ってるんだけど」

「 でも世界には行かないほうがいい場所もあるの。カルカッタがそうだわ」

わたしは、この女流カメラマンのいうことが実によくわかる。世界には行かなければそれに越したことはない場所がある。そしてその筆頭がカルカッタなのだ。

カルカッタの空港に着いて、バスに乗ってダウンタウンを目指したが、沿道には、段ボールや木切れを使って作った小屋とも呼べないような粗末な囲いが延々と並んでいて、

その囲いの中で蠢いている生き物が人間だとわかったとき、全身が総毛だった。

栄養失調のせいか黄色く変色した蓬髪、骨と皮に痩せて、腕や脚は極端に細く、あばら骨がくっきりと浮きでているのに腹だけが異様に膨らんでいる。

高校の美術の教科書で見た餓鬼草紙に描かれていた餓鬼そっくりの風体だったが、間近でみると、とてもそれは人間とは思えず、人間どころか動物よりも下の奇妙で醜悪な生き物にしか見えなかった。

そんな生き物が犇めくカルカッタは、自分が生きるこの地球上にある都市とはとても思えなかった。どこか別の惑星に来たような感じだった。

カルカッタでわたしたちが向かったのはハウラー駅だった。

カルカッタには、ハウラー駅とシールダー駅という二つの大きな鉄道の駅があるが、わたしたちが次に向かうことを予定していたネパール方面への列車がハウラー駅から出たからだ。

わたしたちはカルカッタではホテルに泊まらず、ハウラー駅の一等乗客用の待合室で寝起きしていた。

一等乗客用の待合室には寝袋を上に敷いて寝ることができるゆったりした大きなソファがあったし、インドでは貴重な清潔なトイレとシャワーが備わっていた。

待合室の入り口には、警備の人間が常時、立っていて、よそ者の侵入を防いでいたので盗難の心配がなく、荷物を待合室に置いたまま外に出ることができた。

わたしたちはみんな三等チケットで鉄道旅行をしていたが、外国人の特権でデカい顔をして一等の待合室を占拠していたのだ。

しかし待合室を一歩、外に出ると、そこは飢えた人々が食べ物を求めて彷徨う飢餓の世界が広がっていた。

広大なハウラー駅の構内は、飢えた人々で埋め尽くされ、足の踏み場もなかった。

売店でアイスクリームを買って食べたあと、食べ終わって空になったカップをなにげなく床にポイ捨てしたら、目にも止まらぬ早さで、肩にサルみたいな小さな弟か妹を載せた7、8歳の少年が飛び出してきて、

わたしが捨てたカップをさっと拾うと、ペロペロと底を舐め、肩に担いでいる弟か妹にも舐めさせた。

呆気に取られて眺めていると、誰かが後ろからわたしの肘を掴むので、振り返ったら、乞食の婆さんがいて、真っ黄色な乱杭歯をむき出しにして気味の悪い笑いを顔に浮かべながら、

「バブジー、バクシーシ」

と皺だらけの手を差し出してきたので、驚いて飛び上がってしまった。
この乞食の婆さんのように、立って歩けるのはまだましなほうだった。
大多数の人々は、構内のコンクリートの床に敷いた木綿の布の上に寝たきりの状態で、起き上がる力も無さそうに見えた。
構内に累々と横たわるこれら飢えに苦しむ人々の群れを見て、原爆投下直後の広島の惨状はこのようなものではなかったか、と思ったことを覚えている。
わたしがカルカッタに到着したのは1967年の11月2日だったと記憶しているが、この頃、カルカッタで何が起こっていたか、正確には知らない。
後で聞いた話だが、1967年に隣国の東パキスタン(現バングラデシュ)で飢饉が起こり、大量の難民がカルカッタに押し寄せたという。
もしかして、わたしがハウラー駅で目撃した駅の構内を埋め尽くす大量の貧民の群れは、東パキスタンからやってきた難民だったかもしれない。
ガンジス河の支流、フーグリー川の東岸に位置するカルカッタは、イギリスの植民地経営の拠点となった東インド会社が置かれた、
東パキスタンを含むベンガル地方の中心都市で、輸出用のジュートや綿花の集散地として栄えたところである。
そのため、英領インドがインドとパキスタンに分離した1947年の分離独立後であっても、飢えに苦しむ東パキスタンの難民が国境を越えてこのベンガル地方の中心都市であるカルカッタに逃れてきたことは十分に考えられる。
私はその後、1972年に西アフリカに行き、マリやニジェールのサヘルと呼ばれるサハラ周縁部の砂漠地帯で飢餓に苦しむ遊牧民と出会った。
このときの西アフリカの飢饉は世界中に宣伝され、日本でも飢えに苦しむ子供たちを救うための街頭募金が行われたが、
人口密度の低い砂漠地域に散在する遊牧民のテントの中で子供たちがひっそりと飢えていたサヘル地方の飢餓と較べて、

わたしがこのときカルカッタで目にした飢餓はもっと規模が大きく、生々しかった。

駅のプラットフォームでは、犬と乞食が食べ物を取り合って争っていた。

誰かが捨てていったらしい新聞紙に包まれたサフラン色のビリアニを大きな野良犬が食べようとしていたのだが、

そこに足が不自由な乞食がこっそりといざりよって、その新聞紙に包まれた食べ物を横取りしようとしたのだ。

乞食が自分が食べようとしているビリアニを盗ろうとしていることに気が付いた犬は、新聞紙に片足を乗せてビリアニを守りながら、低いうなり声をあげて乞食を威嚇していたが、
犬と人間が食べ物を取り合う光景が見られる都市なんて、世界広しといえどもカルカッタくらいなものだろう。

続く

昨日の旅(15)

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☆ カルカッタ(続き)

ハウラー駅を出ると、外の状況はもっと凄まじかった。

カルカッタの街には、ありとあらゆる種類の不具の乞食が溢れていた。

片腕が欠損しているとか、片脚がないとか、そういうありふれた不具では稼げないとでも思っているだろうか、

いったい、どのようにして育てたらこのような奇形ができるのか不思議に思えるような、四肢と胴体が複雑にねじれ、折れ曲がっている子供もいた。

中国人が女性の足を締め付けて纏足を作るように、見世物にするために、小さいときから特殊な装置を使って身体を歪めるのではないかと思った。

下半身がまったくない、上半身だけの乞食もいた。

彼は四隅に小さな車輪が付いた四角い板に乗って、両手で地面を押して移動していたが、わたしをみると獲物を見つけたハンターのように全速力で突進してきた。

わたしはこのエネルギーに溢れ、元気一杯な乞食をみて、驚嘆に近い感動を味わった。

もし自分がこのような不具に生まれていたら、人生を悲観して一生、引きこもりの生活をおくることになるだろう。しかし彼は障害を持つことから来る暗さを微塵も感じさせなかった。

むしろ、めずらしい不具者に生まれたことを逆手にとって、乞食として逞しく生きているという印象で、その旺盛な生命力に溢れた彼と一対一で対決したら絶対に負けると直感し、慌ててその場から逃げ出したのだった。

インドを旅していると分かるが、インドでは乞食はひとつの職業として確立している。

そのせいか、インドの乞食は堂々としている。

彼らは、道行く人に哀れみを乞うのではなく、攻撃的ともいえる態度で金銭を要求してくる。

その強圧的な態度からは、自分のような貧しい人間にめぐみを施す機会をお前に与えてやっているのだから有難く思え、といわんばかりの恩着せがましささえ感じる。

インドには乞食のカーストが存在し、その元締めである乞食の親分は、裕福な生活をおくっていると聞いたが、

カルカッタの街に溢れる夥しい数の乞食をみれば、カルカッタで物乞いが重要な生業のひとつになっていることはすぐにわかった。

それでもまだ乞食として働くことができる体力のある人間はましな方で、街中にはあちこちで生きているのか、死んでいるのかよくわからない行き倒れの人間の姿を目にした。

そしてその傍を、倒れている人間の姿が目に入らないかのように、優雅なサリーを着こなしたインド人女性が颯爽と歩いていた。

最初は、行き倒れの人間を無視して歩くインド人が多いことに驚いたものだが、その後、何度もインドを旅するうちに、

インドでは、貧民を完全に無視するか、それともマザーテレサになるか、二つに一つしかないのではないか、と思うようになった。

貧民の数はあまりに多く、個人が対応できる限界をはるかに超えている。そんな状況で、中途半端に貧民にかかわったりすると大怪我をするような気がするのだ。

リキシャワラーと呼ばれる人力車の車夫も恐ろしかった。彼らは目的地に着くと必ず乗る前に合意した料金よりも3倍くらい高い料金を要求してくる。

彼らの要求は、理不尽だったが、その要求に従うほかなかった。

リキシャの車夫は、目的地に到着すると必ず、仲間の車夫たちが屯している場所にリキシャを停め、

彼が要求するぼったくり料金を高いと抗議すると、仲間の車夫たちがぐるりと周りを取り囲んで恫喝してくるのだ。

しかしそんなリキシャの車夫にたいして怒りの気持ちは湧いてこなかった。

彼らの瘦せこけた身体をみれば、彼らもまた必死で生きていることがわかったからだ。

ある日の夕方、ハウラー駅の近くのフーグリー川にかかる巨大な鉄橋であるハウラー橋のたもとに立って、橋を忙しく行きかう無数のトラック、乗用車、荷車、リキシャ、通行人の姿を眺めていて、

このカルカッタという街では、すべての人が生きるために必死で働いているのだ、とあらためて感じた。

この街では、怠け者はすぐに飢え死にしてしまう。貧しい人間は、死にもの狂いで働かないとパンにありつけないのだ。

その理由は、若いわたしにも分かった。

人間が多すぎるのである。

インドは人間が多すぎる。どこにいっても人間がうじゃうじゃいる。

これだけの人間が全員、食べていくのは簡単でないだろうことは、容易に想像がつく。

かって森林に覆われていたというインドの大地は、人々によって樹木が刈り尽くされ、土地が肥沃性を失ったことから、そこで作られる農作物だけでは、インドの全国民を養うのに不足していた。

そのため、インドでは、各地で飢饉が頻繁に発生し、飢えた農民は難民となってカルカッタのような大都市に集まってくる。

その結果、カルカッタのようなインドの大都会は、世界でも類をみない、生きていくための壮絶な闘いが日々、繰り広げられる、熾烈な生存競争の場と化しているのだ。

わたしのこのカルカッタに関する記述は、大袈裟で誇張されていると感じる人もいるかもしれない。

実際、わたしはこれまで日本人が書いた多くのインド旅行記を読んだが、カルカッタの貧困に触れている本は意外と少ない。

たとえば、若い日本人バックパッカーからバイブル視されている沢木耕太郎の『深夜特急』でも、カルカッタの貧民の話はあまり出てこない。

それどころか、作者はカルカッタの街が気に入り、長逗留しているのである。

わたしは三日で逃げ出したというのに!

それで自分のカルカッタ体験は、かなり特殊で、例外的なものだったかもしれないと考えるようになったのだが、

前述したフランス映画『インド夜想曲』を観て、自分以外にもカルカッタでの体験がトラウマとなって心に残り、

「世界には行かないに越した場所がある。それがカルカッタだ」と考える人間がいることを知って、一種の安堵感のようなものを味わったのだった。

註:旅行記ではないが、カルカッタの貧困を描いたノンフィクション作品にドミニク・ラピエール著『歓喜の街カルカッタ』がある。

続く

昨日の旅(16)

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☆ ネパールへ
結局、カルカッタには三日しか滞在しなかった。
駅を一歩、出ると何十人もの乞食がゾロゾロあとをついてくるような状況では、観光もままならない。
さっさと次の目的地であるネパールのカトマンズを目指した方がよいと判断したのだ。
カルロッテは一足先にドイツ人夫婦と一緒にカトマンズに向けて出発していた。
それで、ネパールとの国境の町、ラクソールに向かう列車には、わたし一人で乗り込んだ。
安い三等料金のそのまた半額の学割料金で乗ったのだが、インドで列車に乗るのは一苦労である。
インドの駅にも赤帽がいて、彼らは赤い帽子の代わりに頭に赤いターバンを巻いている。
彼らの仕事は、客の荷物を列車に運ぶだけでなく、客のために列車内の席を確保することも含まれているらしく、
赤帽を雇う金のないわたしがひとりで列車に乗り込もうとすると、殺気立った彼らにこずかれたり、突き飛ばされたりして大変だった。

わたしはリュックサックを背負って旅行していたが、当時、日本で売っていたリュックサックは、両側に大きなポケットが付いている横長のもので、

それを背負って歩く若者は、その姿がカニに似ているということで、カニ族と呼ばれていた。

ちなみに当時はバックパックという名称はまだ一般的ではなく、バックパッカーという呼び名も存在しなかった。

この旅行記では便宜的にバックパッカーと呼んでいるが、当時はヒッチハイカーとか貧乏旅行者とか呼んでいたと思う。

この横長の日本製リュックサックは、列車の通路など狭いところを歩いているとすぐに人やモノにぶつかるので実に使いにくかった。

それでヨーロッパに着いたあとは、両側のポケットを切り取って使っていた。

赤帽たちに小突き回され、突き飛ばされながら必死に列車に乗り込んで、運よく座席を確保することが出来た。

向かいの座席には、ハンサムな白人の男性が座っていた。

ニューヨークで弁護士をしているという31歳のアメリカ人で、休暇でインドを旅行しているという。
三等列車で旅行するようなタイプには見えなかったが、貧乏旅行を体験したくてわざと三等に乗っていたのかもしれない。

このときの鉄道の旅は、わたしが初めて体験するインド鉄道の旅だったが、列車に乗ってみて面白いことに気づいた。

列車は鈍行で各駅に停車するのだが、列車が駅に停車するたびにプラットフォームにいたインド人の若者がわたしを見つけて駆け寄ってくるのだ。

彼らはわたしが日本人だとわかると喜び、矢継ぎ早に質問を浴びせてくる。

年は幾つ?学生なの?

インドにはいつ来たの?

インドにはどれくらい滞在するつもり?

インドは好き?

インドをどう思う?

等々。

新しい駅に着くたびに、インド人の若者がわたしを見つけて駆け寄ってきて同じような質問を繰り返す。

アメリカ人の弁護士は、わたしとインド人の若者が勢い込んで会話する様子を笑ってみていたが、内心ではショックを受けていたのではないかと思う。

インド人の若者たちはわたしにばかり話しかけて、わたしの前に座っていた彼を完全に無視していたからだ。

大東亜戦争でインド国民軍を指揮して日本軍とともにインパール作戦を戦ったインド独立の英雄、チャンドラ・ボースはベンガル人で、

そのため、ベンガル地方は特に親日的なのかもしれないと思ったが、親日的なのはベンガルの若者だけではなかった。

これ以後、イスタンブールまで、わたしは行く先々で、現地の若者に取り囲まれ、親し気に話しかけられるという経験をした。

そして彼らは全員、わたしと一緒に旅行していた欧米人の旅行者のことを無視していた。

彼らと話していてわかったのは、これらの地域では、日本は有色人種国家のチャンピオンとして見られているということだった。

日露戦争で、日本が白人の大国、ロシアを破ったとき、これらの地域の人々は熱狂したという。

インドでは、チャンドラ・ボースだけでなく、多くのインド人が極東の小国である日本の勝利を聞いて、日本にできるのであれば、自分たちにだってできる筈だ、と考えて独立運動に身を投じたといわれている。

トルコでは、バルチック艦隊を全滅させた東郷平八郎元帥の名をとって、自分の子供に「トーゴ―」と名付ける親まで出てきたという。

エジプトでは、高名な詩人が「日本の乙女」という詩を作って、日本人に捧げたという。
太平洋戦争でも、日本は敗れはしたものの、超大国アメリカとタイマンを張って戦ったわけで、その勇気と敢闘精神は、これらの地域では大いに称えられていた。
現地の若者たちが日本人であるわたしにだけ話しかけて、一緒にいる欧米人旅行者を無視したのも、彼らが抱いている白人にたいする反発心の現われだったのだろう。
国境の町、ラクソールに着いたのは、翌日の午後だった。その夜は例によってラクソールの駅の一等乗客用の待合室で寝て、
翌日早朝、徒歩で国境を越えてネパール側に入り、ネパール側の国境の町からカトマンズ行きのバスに乗った。

バスの運転手が頭にターバンを巻いた身長2メートルはある大男だったことを覚えている。
バスはカトマンズまで10時間ほどかけて山道を登り、カトマンズに着いたときは、もう日は暮れていて、町の入り口の税関事務所で書類に記入したのはランプの灯の下だった。

この日はちょうどヒンズー教のディワーリという祭りの日にあたっていて、家々の窓はローソクや豆電球の灯で美しく飾られ、まるでお伽の国に迷いこんだような気分だった。

続く


昨日の旅(17)

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☆ カトマンズ

カトマンズでは一泊70円ほどの安宿に泊まった。

大部屋で、板張りの床に畳一枚くらいの大きさの布が間隔を空けてずらーっと並べて敷いてあって、その布の上に自分の寝袋を敷いて寝ることになっていた。

カルカッタからの列車で一緒だったアメリカ人の弁護士もわたしに付き合って、この安宿に泊まったのだが、一泊しただけで根をあげて、もっとましなホテルに泊まるといって出ていった。

わたしが想像していたように、彼は別に金がないわけではなく、貧乏旅行者の気分を味わってみたかっただけのようだった。

カトマンズでは先に来ていたカルロッテとドイツ人夫婦とも再会した。

現在のカトマンズは、交通渋滞が激しく、排気ガスによる大気汚染が問題になっているそうだが、当時は通りを走っている車も少なく、わたしとカルロッテは通りの真ん中を並んでゆっくりと歩いていた。

二人で壁に大きな目玉が描かれているお寺に行ったことを覚えている。このお寺の正式な名前は知らないが、境内にサルが沢山いたので、わたしたちはモンキーテンプルと呼んでいた。

当時はヒッピー文化華やかなりし頃で、カトマンズは欧米人のヒッピーで溢れていた。

ヒッピーたちは、亡命チベット人が経営する「ブルーチベッタン」というレストラン兼コーヒーショップにたむろして、ビートルズの曲がガンガン鳴る中、日がな一日、大麻を吸っていた。

大麻には、大麻の葉を乾燥させたマリファナと樹脂を固めたハッシーシの2種類あるが、カトマンズではみんなハッシーシを吸っていたような気がする。

中には、焦点が定まらない虚ろな目をしている連中もいて、彼らはもっと強い麻薬をやっていたのではないかと思う。

日本ではマリファナが禁止薬物に指定されていて、個人的に所有しているだけで罰せられるが、日本の世論がマリファナ使用にたいして厳しいのは、ひとつには日本がアルコール文化圏に属しているせいではないかという気がする。

世界には、大別してアルコール文化圏とマリファナ文化圏の二つがあり、インド、中東、北アフリカなどのマリファナ文化圏では、日本と反対で、飲酒には厳しいが、マリファナの吸引には寛大である。

欧米は元々は日本と同じアルコール文化圏であるが、最近はマリファナが浸透してきてアルコールとマリファナの混合文化圏になっているが、

そもそも欧米でマリファナが普及し始めたのは、60年代のヒッピー文化のお陰で、当時の欧米の若者の間では、マリファナを吸うことが反体制的でカッコいいとされたのである。

カトマンズに多くの白人のヒッピーたちが集まったのも、大麻が安く手に入るという理由が大きかったと思うが、彼らを見ていて、「ヒッピーごっこ」をして遊んでいるだけではないのか、という印象をもった。

彼らを見ていると、小奇麗な服を着せられて育った子供時代がなんとなく想像できた。

そんな彼らにとって、ヒッピーになって汚い恰好をするのが楽しいのではないかと思ったのだ。

所詮、彼らは豊かな先進国で育った甘やかされた若者たちで、物価の安いネパールのような発展途上国にやってきて、現地の人々の寛容さに甘えて、好き勝手に振舞っているだけに見えた。

それでもヒッピーたちの奇抜な装いは、わたしの目を楽しませてくれた。

カトマンズ郊外のヒマラヤ連峰の見える展望台のあるナガルコットまでトレッキングしたとき、

ウェストを紐で絞っただけの丈の短い簡素な白いドレスを身にまとって裸足で歩いている金髪の妖精のように美しい少女と、
西洋の絵画でよく見るイエス・キリストそっくりの、金髪を長髪にして髭を伸ばし、白い長衣を着て、細長く畳んだ毛布を肩にかけて裸足で歩いている若い男のカップルが山道を下りてくるのに出会ったときは、
まるで絵から抜け出してきたようなその姿に感動を覚えた。
ある夜、泊まっていた安宿にサンタクロースみたいな大きな袋を担いだ中年男がやってきて、自分はチベットからやってきたチベット人だといい、袋の中から小さな仏像を取り出して売りつけようとしたことがあった。
それであらためてネパールがチベットの隣国であることを思い出したのだが、当時、チベットは外国人に開放されていなかった。
それでも日本人なら外見はチベット人と変わりないのだから、こっそり行けばチベットに入れるのではないかと、日本人なら誰でも考えるようなことを思った。

もちろん、思っただけで実行はしなかったが、その後、河口慧海の「チベット旅行記」を読んで、チベット潜入もそんなに楽ではないことがわかった。

チベットといえば、もうひとつ忘れられない本がある。中学生のときに夢中になって読み耽ったロブサン・ランパの「第三の目」である。

チベット貴族の家に生まれたロブサン・ランパは、占いによりある高僧の生まれ変わりであると認定され、7歳で仏教寺院に入って修行を積み、人の心の中が見える第三の目を授かるという話で、

チベットへの憧れを大いに掻き立てられたのだが、後にこのロブサン・ランパがチベット貴族の末裔であるというのは真っ赤な嘘で、その正体はアメリカ人であることが判明した。

わたしがカトマンズにいたときは、まだロブサン・ランパの正体は暴かれていなくて、若い欧米人旅行者の間で彼の人気は高く、誰に訊いても彼の本を読んだことがあるといっていた。

実際、デリーの本屋の店頭では、彼の本が平積みにして売られていた。

続く

昨日の旅(18)

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☆ ナガルコット

カトマンズに滞在中、カトマンズ郊外のヒマラヤ山脈を眺めることができる展望台のあるナガルコットに行った。

泊まっていた安宿で客引きをやっている若い男と仲良くなって、彼がナガルコットに案内してくれるというので一緒に行ったのだ。

カトマンズからナガルコットまでのルートは、観光客に人気のトレッキング・コースになっていて、ピクニック気分でゆっくりと歩いていった。

途中で案内の若者の実家の農家に立ち寄って、彼に頼まれて、十人以上はいた大家族の写真をたくさん撮ったのだが、残念ながら、その写真は残っていない。

わたしが持っていたカメラは、日本を出るときバイト仲間がタダでくれた、「もしかしたら故障しているかもしれない」カメラで、

カメラに興味のなかったわたしは、わざわざ高い金を出してカメラを買うよりはマシだと考えて、そのカメラを貰って旅行に出たのだが、ヨーロッパに着いてからフィルムを現像に出したら一枚も写真が写っていなかったのだ。


カメラをくれたバイト仲間がいっていたようにカメラが故障していたのか、それともわたしの撮り方が悪かったのか、よくわからないが、

お陰でこのとき撮った若者の家族の写真だけでなく、ヨーロッパまでの道中にちょくちょく撮った写真も一枚も残っていない。

ただわたしは元々、写真に興味がない人間なので、写真が写っていなかったことがわかってもそれほどがっかりはしなかった。

そもそもわたしは旅先で写真をやたらと撮りまくる日本人旅行者に批判的で、なんでもかんでもいちいち写真に撮らなければ気が済まない人間の方がおかしいのではないかと思っている。

観光地に行っても、忙しく写真を撮るのではなく、ゆっくりと自分の肉眼で景色を眺めたいと思う人間なのだ。

ナガルコットの展望台から眺めたびっくりするほど高いところに屏風のように聳え立っていた標高8,000メートル級のヒマラヤの峰々の崇高な姿も写真には残っていないものの、しっかりと目に焼き付いていて、

今でも目を閉じるとはっきりと瞼によみがえってくる。

ナガルコットには夕方に着いて、その夜は山小屋に泊まり、翌朝、日の出の時間に展望台からヒマラヤの山々を眺めたのだが、

登山には関心がないので、どの山がエベレストで、どの山がマナスルなのか、個々の山々の区別まではつかなかった。

それでもヒマラヤの山並みを眺めることができたことに満足して、一泊二日のトレッキングを終えてカトマンズに戻ったのだが、

カトマンズに戻ってから、ナガルコットに案内してくれた若者が、わたしを土産物店に連れていって、

アラジンの魔法のランプのような真鍮製のランプや勇猛で知られるネパールのグルカ族が使う三日月形のグルカ刀など店にあるガラクタを買うようにしつこく迫るのでうんざりして、しまいには彼と喧嘩別れしてしまった。

冷静になって考えると、ネパールの貧しい農家に生まれて、安宿の客引きをやっているような若者が、わざわざ仕事を休んでナガルコットまで連れていってくれたのだから、見返りを期待しない筈はない。

彼としては、わたしを土産物店に連れていってなにか買わせてコミッションを取らなければ、割があわないと思ったのだろう。

しかし彼は最初、わたしと友達になりたいといって近づいてきて、彼の方からナガルコットに案内すると言いだしたのだ。

それで、わたしは彼が純粋な好意でナガルコットに案内してくれると信じてしまったのだが、

実際、ナガルコットに行ったときには、金のことなど一切、口にしなかったし、なんらかの見返りを期待しているようにも見えなかった。

それがカトマンズに戻った途端、態度が一変し、なにかにつけてわたしにたかるようになったのだ。

このような経験はネパールだけでなく、その後に旅行したエジプトやモロッコでもした。

エジプトやモロッコでも、土地の若者が寄ってきて、親切に家に招いてくれて、お茶をご馳走してくれたり、あちこち案内してくれることがあった。

そういうとき、彼らは決まって、「これで俺たちは友達だね」と確認するようにいう。

それでわたしが「ああ友達だよ」と答えると、途端に物をねだってきたり、知り合いの絨毯屋に連れていって高い絨毯を買わそうとするのだ。

彼らにとって「友達」というのは、図々しく物をねだったり、金を稼ぐために利用できる人間のことをいうらしいが、

こちらは友達というものは、そういうものだとは思っていないので、最後はお互い裏切られた気持ちになって喧嘩別れして、後味の悪い思いをすることになる。

彼らがこの「友達作戦」を使うのをやめて、もっとビジネスライクにアプローチしてくれる方がずっと気が楽だと思ったものだ。

たとえばナガルコットに連れていってくれた若者が、最初に「これだけ払ってくれたら、あなたをナガルコットに案内できる」といって、ガイド料金を提示していたら、

それがリーズナブルな価格であれば、その料金を払ってガイドを頼んでいただろうし、後でお互い嫌な思いをしなかっただろう。

しかしネパールでも、エジプトでも、モロッコでも、観光客にたかる若者たちは絶対にそういうアプローチを取らない。

あくまでも最初に「友達」になりたがるのだ。

多分、そういう文化なんだろうが、外国人には中々、理解できない文化で、異文化理解なんて口でいうのは簡単だけど、実際には容易ではないことは、海外を旅して学んだことのひとつだった。
続く

昨日の旅(19)

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☆ カトマンズからベナレスへ
カルロッテとはカトマンズで再会したが、このあと、別行動をとることになった。
彼女は、クリスマスまでに故国、スウェーデンに帰ることを望んでいたが、わたしは時間をかけてインドを旅行したいと考えていたからだ。
それでカルロッテは、カトマンズから先は、やはりクリスマスまでにドイツに帰国することを望んでいたドイツ人夫婦と一緒に旅を続けることに決めたのだが、
頼りないわたしと一緒にいるよりも、しっかりしたドイツ人夫婦と一緒にいる方が、彼女も心強かっただろう。
わたし自身、彼女と別れることに異存はなかった。
カルロッテを紹介してくれたKさんは、わたしが英語ができないから、英語が話せるカルロッテと一緒の方が楽だろうといって、カルロッテと一緒に旅行することを勧めてくれたのだが、
旅行に出る前の半年間、NHKの教育テレビの英会話教室を視ていたこともあって、実際に旅行に出てみると、旅行に必要な簡単な英会話にはそれほど不自由しないことがわかり、カルロッテの助けを借りることもなかったのだ。


それに加えて、カルロッテは、ユーモアを解さない退屈な女の子で、一緒にいて楽しい相手でもなかったので、彼女と別れることに未練は感じなかった。
それでスウェーデンでの再会を約束してカトマンズで彼女と別れたのだが、カトマンズからの一人旅は、想像していたよりもずっと心細く、辛いものだった。
考えてみれば、日本を出てからはずっと旅仲間と一緒で、完全に一人で移動するのはこれが初めての経験だった。
神戸からバンコクまでの船旅はつねに乗客仲間と一緒だったし、ビルマ航空でバンコクからラングーンを経由してカルカッタに飛んだときは、カルロッテとドイツ人夫婦が一緒だった。
カルカッタからカトマンズまでは、アメリカ人の弁護士が一緒だったので、特別、心細さを感じることはなかった。
しかし、カトマンズからインド国境に向かうバスでは完全にひとりぼっちで、淋しさが募った。
それで一緒のバスに乗っていたドイツ人グループのリーダー格の青年によかったら仲間に入れてくれないかと頼んだのだが、無視されてしまった。
カルロッテと一緒だったドイツ人夫婦のダンナがとても頼りがいのある人で、バンコクからカルカッタに飛んだときやカルカッタやカトマンズでの滞在中、なにかと面倒をみてくれたので、
同じドイツ人なら親切にしてくれるのではないかと虫の良いことを考えたのだが、そんな甘ったれた態度が受け入れられる筈もなかった。
そもそも人に頼るような人間にひとり旅をする資格はない。
特にインドのような貧乏旅行をするのに様々な苦労が付きまとう国を、20歳になっていたというものの、
精神年齢が幼く、子供っぽいわたしがひとりで旅をするのはかなり無謀な企てであったことは、今となってみればよくわかる。
皆様、お元気ですか。今、カトマンズからヒンズー教の聖地ベナレスを経て、ニューデリーにおります。カトマンズからベナレスの旅は大変きびしく、僕はこの旅を一生忘れられないだろうと思います。カトマンズから国境の町までバスで8時間ゆられて、国境は馬車で越え、インド側の国境の町ラクソールから汽車に乗り、8時間ほどかかってプレザガートという駅に着きました。この汽車の混みようはものすごく、途中で乗り換えのときにはとうとう客車に乗れなくて、貨物車にほうり込まれてしまいました。そしてプレザガートからガンジス河を蒸気船で一時間ほど下り、そこからまた汽車に乗り、ベナレスにやっと着きました。
上の文章は、デリーから両親に宛てて出した手紙の一節である。
旅先から両親宛てに出した手紙はすべて母が保管しておいてくれたので、今回の旅行記はそれを見ながら書いている。
手紙には、「僕はこの旅を一生忘れられないだろうと思います」と書いているが、細部については殆ど忘れている。
ただ大変な旅だったことははっきりと記憶している。
特に手紙に書いているように国境の町ラクソールからプレザガートまでの汽車の旅は途中の乗り換えのときに列車を降ろされてから、
次に乗るべき列車が中々、見当たらず、ほかの乗客と一緒に延々と線路を歩いたこと、
やっと乗ることができたのが、家畜でも運ぶような貨車で、座席もなにもない車両だったことはよく覚えている。
今回の旅行記を書くにあたって、プレザガートの町を地図で探してみたが見つからなかった。英語の綴りがわかれば見つかるかもしれないが、それがわからないのだ。
プレザガートからガンジス河を船で渡ったのは、鉄道を通す橋が架かっていなかったためで、いったんプレザガートで汽車を降り、河を船で渡ったあと、対岸でまた汽車に乗り継いだのだと思う。
このときの船が外輪船であったことは覚えている。
船で河を渡った対岸の鉄道の駅は、パトナ・ジャンクションだったような気がする。
パトナ・ジャンクションはその名のとおり、カルカッタとデリーを結ぶ東西の路線とネパール国境の町ラクソールとベナレスを結ぶ南北の路線が交差するところにある大きな乗換駅で、
このパトナ・ジャンクションを経由してベナレスに向かったのではないかと思う。
ただなにぶん50年も前のことなので、このへんの記憶はかなり曖昧で、間違っている可能性もある。
いずれにせよ、ベナレスに着くまでに大変、辛い思いをしたのは事実である。
やっとたどり着いたベナレスの安宿でシャワーを浴びているときに、腕に赤く腫れあがった部分が何箇所も現れていることに気が付いた。
わたしは元々、皮膚が弱いので、最初は何かにかぶれたのかと思ったが、あとでインド名物の南京虫に咬まれた跡であることが判った。
多分、プレザガートに行く鉄道の旅の途中で放り込まれた貨車の中で喰われたのではないかと思う。
この南京虫に咬まれた跡は、それから10日以上、消えず、ずっとかゆみに悩まされることになった。
続く

昨日の旅(20)

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☆ ベナレス
ベナレスはヒンズー教最大の聖地で、毎年、夥しい数のヒンズー教徒が巡礼にやってくる。
わたしがネパール国境の町ラクソールからベナレス行きの汽車に乗ったときに、途中の乗り換え駅でわたしを含む多数の乗客が積み残されて、挙句の果てに貨物列車に放り込まれたのも、
それだけベナレスを目指すインド人の乗客が多かったせいではないかと思う。
ベナレスはガンジス河に面した町で、ガンジスの河岸はカートと呼ばれる階段状の堤ができていて、ヒンズー教徒たちは、その階段を降りて河に入り、河の水に浸かって沐浴する。
わたしはその濁った河の水をみて、とても沐浴する気になどなれなかったが、河岸には人間が寝泊まりできるような大きな船も停泊していて、
その船から河に勢いよくザブンと飛び込んで、汚い河の水を使って歯を磨いている猛者がいて、よくみると金髪碧眼のヒッピーだった。


人々が沐浴しているカートのすぐ傍には火葬場のカートもあった。
薪を井桁に組んで積み上げた上に遺体を置いて火をつけて燃やすのだが、わたしが見たときは、白髪の白い立派な髭を生やした老人の遺体が焼かれていた。
遺体は白い布で包まれ、首のまわりはマリーゴールドの花で飾られていた。
遺体を焼却して残った遺骨と遺灰はそのままガンジスに流すという。
後日、別の火葬場で、女性が竹箒を使って無造作に遺灰を河に掃き捨てている光景を目撃したが、ヒンズー教徒は日本人のように遺骨を拾って骨壺に収める習慣はないそうで、墓もないということだった。
これはなにもヒンズー教徒が死者にたいして冷たいということではなく、ヒンズー教徒にとって遺体は魂が抜けた亡骸でしかなく、そんなに大事に扱うものだとは考えられていないのだという。
それでも、ヒンズー教徒にとっての最大の幸福というのは、ヒンズー教の聖地であるベナレスのカートの火葬場で荼毘に付され、遺骨をガンジス河に流されることだそうで、
そのため、死期が近づいた老人が家族に付き添われてベナレスまでやってきて、「死を待つ者の家」というホスピスのようなところに死ぬまで滞在することも多いという。
また墓は存在しないものの、死者の命日などには家で供養の儀式が執り行われるそうだ。
ただすべての死者が火葬されるわけではなく、赤ん坊などは、そのままガンジスに流されると聞いた。
一度、小舟を借りて、ガンジスをまわったときに、この赤ん坊の水葬を目撃したことがある。
小舟には船頭と白い布に包まれた赤ん坊の遺体を抱いた父親らしい若い男性が乗っていて、赤ん坊の遺体は鉄の鎖で巻かれ、鎖の一方の端には重しの鉄の玉が付いていた。
赤ん坊の遺体を河に沈める父親の姿からは静かな悲しみが伝わってきたが、同時にわが子が赤ん坊のまま死んでしまう運命にあったことを受け入れる諦念のようなものも感じられた。
以前、北インドのラダックに長く滞在したスウェーデン女性がラダックについて書いた本を読んだことがあるが、彼女によると、ラダックの母親は子供を失ってもあまり嘆き悲しむことはないという。
もちろん悲しむことは悲しむのだが、輪廻転生を信じていているので、亡くなった子供の肉体は滅びても、魂はあの世にいって、
しばらくしてまた別の肉体に宿って、この世に生まれ変わってくると考えられているので、極端に嘆き悲しむことはないというのだ。
このチベット仏教の輪廻転生の思想は、ヒンズー教徒にも共有されていて、インド映画には主人公が死んで、また生まれ変わるという話が多いのだが、
こういう死生観は、仏教的な背景をもつ日本人にも受け入れられやすいのではないかと思う。
わたしたちは愛する家族や友人が亡くなると嘆き悲しむが、彼らは完全に消えてなくなったわけではなく、あの世に行っただけで、自分も死ねば彼らとあの世で再会できるし、
来世ではまた、彼らの家族や親友として生まれ変わることができると考えれば、哀しみもだいぶやわらぐのではないだろうか。
これまで日本人の書いたインド旅行記を沢山、読んできたが、多くの作者がベナレスに来て遺体が火葬される光景を目撃して、人生とは何かと考え、哲学的な思索に耽っている。
私はインドを旅するだけでせいいっぱいで、哲学的な思索に耽る余裕などなかったのだが、それでも今から思うと、この初めてのインド旅行で訪ねたカルカッタ、ベナレス、デリー、アグラの4都市の内、
アグラでの滞在が一番、心が落ち着くというか、ほかのインドの都市にいたときほど、心が乱されることが少なかったのは、やはりこのベナレスという町がもつ聖地としての性格ゆえではなかったかという気がする。
インド人には、とても親切な人がいる一方で、とんでもない悪い奴もいて、一口にインド人はどうだ、などと簡単にいえないのだが、
総じていえることは、インド人は物質的な中国人などと比べるととても精神的に深いところがあり、哲学的な思考が似合う国民だということだ。
観光客相手に土産物を売っているような少年でも、ときどき人の心にグサリと突き刺さるようなことをいったりするので、侮れない。
このようなインド人の国民性は、やはり宗教を抜きにしては考えられず、ベナレスにいると、インド人と宗教、すなわち、インド人とヒンズー教の関係がいかに深いものか、否応なく感じられ、
またヒンズー教という宗教がもつ非常に人間的な側面も垣間見ることができて中々、面白かった。
続く

昨日の旅 II

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● 昨日の旅(11):バンコク到着
● 昨日の旅(12):夜のルンピニ公園
● 昨日の旅(13):ラングーン

● 昨日の旅(14):カルカッタ

● 昨日の旅(15):カルカッタ(続き)
● 昨日の旅(16):ネパールへ
● 昨日の旅(17):カトマンズ
● 昨日の旅(18):ナガルコット
● 昨日の旅(19):カトマンズからベナレスへ
● 昨日の旅(20):ベナレス
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