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同性婚ゴリ押しの目的は家族制度の破壊だった??

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いわゆるLGBT活動家たちの言動が一般当事者のそれと大きくかい離していることに前々から疑問を感じていたのですが、最近、その理由がなんとなくわかってきたような気がします。
たとえばLGBT活動家たちは、「日本で同性婚の実現を!」と熱心に叫んでいますが、日本で事実上、同性婚の代替手段になっている成人の同性間の養子縁組については触れようとしません。
同性婚を日本で法制化しようと思えば、まず憲法24条を改正し、そのあと各種関連法規を改定する必要が出てくると思うのですが、
実際問題として、同性婚に冷淡な自民党政権下で、これを実現するのは殆ど不可能でしょう。
一方、養子縁組の制度はすでに存在し、比較的簡単に利用できます。
事実、自分から広言しないだけで、この養子縁組制度を利用して家族になっている同性カップルは相当数に上っている筈です。

養子縁組によって親子になれば、遺産相続の問題とか、病気になったときの面会権とか、活動家たちが主張する同性婚ができないことによる問題を殆どクリアできます。
そのため、本当に同性カップルの幸せと権利の獲得を望むのであれば、「こういう選択肢もありますよ」と養子縁組制度を紹介しても構わないと思うのですが、活動家たちは、頑なにそれを拒んでいます。
なぜでしょうか?
養子縁組制度が、現行の家族制度にすっぽり収まってしまうからではないでしょうか。
前回の記事で触れたように、私はここのところLGBT活動家の実体はフェミニストではないかと考えるようになっているのですが、ご存じのように、フェミニストは家族制度というものを敵視しています。
フェミたちは、男女差別や女性の生き辛さの根源に家族制度があるとみなし、家族制度の破壊を目指して日々、活動しているのですが、
その手段として同性婚を推進しているのではないかと思うのです。
フェミニストが主張する夫婦別姓が現行の戸籍制度の破壊を目指しているのと同じです。
国に同性婚を認めさせることは、現行の家族制度を破壊するきっかけになるけど、養子縁組制度は、現行の家族制度に組み込まれているために家族制度の破壊にはつながらない。
だから養子縁組を提案してもしかたない、と考えているのではないでしょうか。
そう考えると、フェミニスト=LGBT活動家は、同性愛者の幸せや権利の獲得のために同性婚の実現を叫んでいるのではなく、
家族制度の破壊という自分たちの目的を実現するために同性愛者を利用しているに過ぎないということになります。
私は現行の家族制度が万能だとは思っていませんが、子育ての観点に立てば、子供は、ひとり親世帯や同性カップルの世帯に育てられるよりも、父親と母親の揃った家庭で育てる方が望ましいと考えています。
そして日本人の大半が私と同様に考えていることは、下の表をみれば明らかです。
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上の「世界各国の婚外子割合」の表が示しているように、日本では、全体出生数に占める婚外子の割合は欧米諸国と較べると極端に小さいのです。
その下の「日米の婚外子(非嫡出子)割合」の表をみると、さらに日本の特異性が明らかになります。
第二次大戦が終了した1945年には、日米とも婚外子の割合は5パーセント以下だったのが、その後、アメリカでは婚外子の割合が右肩上がりに伸びていき、2015年には40パーセントに達しています。
一方、日本では戦後一貫して、婚外子の割合は小さいまま推移し、2015年の時点でもわずか2.3パーセントにとどまっているのです。
現在、アメリカでは子供の40パーセントが未婚の母から生まれ、両親が離婚している子供がやはり40パーセントいて、
両親とその間に生まれた子供によって構成されるかって標準とされた家庭は全体の5分の1、20パーセントまで減ってきているそうです。
これらのデータに見られるように、アメリカでは既存の家族制度が崩壊しつつあるのですが、アメリカで長く駐在員生活をおくられた梓弓さんというブロガーは、
アメリカで同性婚が認められたのは、アメリカで男女の結婚の価値が失われてきているからだと主張しています。
「アメリカがやってるからダメ すめらぎいやさか」を参照
実際、上記の表の婚外子の割合の大きい国では、例外なく同性婚が認められていて、婚外子の多さと同性婚合法化の間に相関関係があることがわかります。
保守派は(そしてフェミたちも)、同性婚を導入すると伝統的な家族制度が崩壊すると危惧(フェミの場合は期待)しているようですが、
現実はその反対で、まず婚外子の増加に象徴される伝統的な家族制度の崩壊が先に起こり、そのあとで同性婚が認められるようになったというのです。
この仮説が正しいとすると、婚外子の割合がきわめて小さい日本では、家族制度は、欧米諸国のように崩壊しておらず、それゆえ、同性婚が合法化される可能性きわめて低いということになります。
日本でも最近は離婚が増えて、シングルマザーの家庭が増えているといわれるかもしれません。
実際、下の表をみると日本における母子・父子家庭の割合は確かに増えています。
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日本では全体出生数に占める婚外子の割合が小さいことを考えると、日本のひとり親世帯の大半は、両親の離婚か父親または母親の死亡により生まれたと推測されます。
そしてひとり親世帯の割合は1980-81年の4.9パーセントから2008-09の10.2パーセントまで2倍に伸びているのです。
これは、離婚の増加によるものだと思われますが、それでもまだこの10.2パーセントという数字は、欧米諸国と較べると小さいです。
私のノンケの友人は、
「子供がいなかったら、女房とはとっくに離婚してただろうけど、子供がいるから我慢してる」
といってますが、日本では子供のために離婚を思いとどまる夫婦が多いのではないでしょうか。
また最近、日本では未婚の独身者が増えていて、2015年には生涯未婚率が男性が22.8%、女性が13.3%に達したそうですが、下の表をみればわかるようにこの数字は諸外国と較べて特別、高いわけではありません。
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欧米諸国では同棲の割合が高く、日韓では低いという差はありますが、婚姻率と同棲率を足した比率は各国とも大きく変わりないのです。
日韓では20代の婚姻率が低いのですが、これは格差社会の出現と関係があるのかもしれません。
それでも下の表を見る限り、一生独身で通すと決めている未婚者は少なく、大半はいつかは結婚したいと考えているようですから、
若者の所得を増やす政策をとれば結婚して子供を作る若者も増えてきて少子化も改善されるのはないでしょうか。
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結論として、婚外子の多さや同棲率の高さに象徴されるような伝統的な家庭の崩壊が進んでいる欧米と較べて、日本では両親の揃った伝統的な家庭に価値を置いている人間がまだ多く、それゆえ同性婚が入り込む余地は少ないといえると思います。
フェミ=LGBT活動家は、二言目には「G7先進国の中で唯一同性婚が認められていないのは日本だけだ」といいますが、
これは、G7先進国の中で唯一日本だけが家族制度が崩壊していないということで、日本の治安の良さや犯罪率の低さはそれと無関係ではないと思いますね。
関連記事:同性婚合法化の背景にあるアメリカの家庭崩壊

私的男色論

誰がLGBTトイレを必要としているのか

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最近、LGBTトイレについての議論が巻き起こっています。
本当にトイレで困っているのは誰かという実態を十分に把握することなく、LGBTトイレという言葉だけが一人歩きしている現状に多くの当事者が違和感を抱いたり、疑問を感じているのです。
LGBTと一口にいっても、レスビアンとゲイ、バイセクシュアルとトランスジェンダーでは抱えている問題がそれぞれ異なり、
トイレのような具体的な事柄については個別に対応すべきなのに、LGBT利権獲得を狙う活動家たちがLGBTという言葉を使用することに頑なにこだわるせいで、問題の本質が見えにくくなっているのです。
先日、LGBT利権団体のひとつである虹色ダイバーシティがトイレメーカーと組んで「性的マイノリティとトイレフォーラム」なるイベントを開催したそうですが、
「性的マイノリティ」という言葉もLGBTと同様、曖昧な言葉で、現実にトイレで問題を抱えているのはTのトランスジェンダーだけなのだから、
はっきりと「トランスジェンダーとトイレフォーラム」とすべきなのにそうせずに、
「LGBTにフレンドリーなトイレ」などと言い出すから、わけが分からなくなってしまうのです。

トイレの問題だけでなく、この間、話題になったコナミスポーツの更衣室の使用問題にしろ、活動家たちが「LGBTの問題」として語る事例の多くは、実際にはトランスジェンダーしか関係していないものが多く、
その結果、LGBT=トランスジェンダーであるかのような誤解が一般に広がり、「LGBTとは性同一性障害のことです」などと自治体のLGBT研修テキストに書かれてしまうのです。
我々、当事者にとっては自明のことですが、LGB、すなわち、レスビアン、ゲイ、バイセクシュアルはトイレに関してまったく問題を抱えていません。
そのため、LGBTトイレという名称はまったく現実に対応しておらず、このような誤解を生む呼称は使用すべきではないと考えるのですが、
なんと丸井デパートが「LGBTトイレ」という名称そのままのトイレを設置したそうです。
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ダイバーシティ経営におけるLGBT対応 マルイは「SDGs」「ダイバーシティ&インクルージョン」で「新しいCSR」を実現できるか
意味不明のカタカナ言葉が頻出する、何をいいたいのかよく分からない記事ですが、書いているのは産む産む詐欺のレズカップルの片割れの増原裕子で、
丸井は「LGBTフレンドリーを標榜すれば客が増えますよ」というこの詐欺女をはじめとするLGBT利権屋の口車に乗せられてこんなトイレを作ってしまったのではないでしょうか。
ただこのLGBTトイレは、増原のような利権屋を除く一般当事者には大変、不評だということを丸井は知るべきだと思いますね。
前述したように、LGBに相当するレスビアン、ゲイ、バイセクシュアルは、生まれつきの性別のトイレを使用することに何の支障もありません。
それにも関わらず、LGBという文字を組み込んだ専用トイレを作るということは、LGBが普通のトイレを使用するのを禁止するつもりなのかという反発の声が上がっているのです。
Tのトランスジェンダーについても、いわゆるパス度の高い当事者は、これまで希望する性別のトイレを利用してきてなんの問題もなかったのにも関わらず、LGBT専用トイレを使用するように指示されるのは納得がいかないでしょう。
また本来、このようなトイレを必要とすると考えられるパス度の低いトランスジェンダーも、LGBTという文字や虹色マークの付いたトイレに入ることは、
トランスであることをカミングアウトすることにつながるために、このようなトイレの使用に躊躇してしまいます。
その結果、LGBT当事者のだれもがこのようなトイレを使わないという結果になりかねないのです。
LGBT利権屋に唆されて、LGBTトイレを作ろうと考えている企業や自治体は、本当にこのようなトイレのニーズがあるのか、いま一度、立ち止まって考えてみるべきです。
前述したようにLGBにはそのようなニーズはまったく存在しないし、トランスジェンダーについても、
彼ら彼女たちが求めていたことは、自認する性別のトイレを使用する権利であって、自分たちを隔離するトランスジェンダー専用のトイレを作ることではなかった筈です(「男と女の間で」を参照)。

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誰にも会うことはありませんというのがイヤだなと思う。今でもコソコソトイレに行ってるのに。こんなに隔離しないでもいい世界になって欲しい。
トランス当事者でさえ、このようにいっているにも関わらず、欲に目がくらんだLGBT利権団体とトイレメーカーは、
トランスだけでなくLGBT全体が専用トイレを望んでいるかのような嘘八百をまき散らし、
その結果、丸井のような馬鹿な企業が騙されて、誰も利用しないLGBTトイレなるものを作ってしまうという滑稽なことが起こっているのです。
パス度の低いトランスジェンダーが男女別トイレの使用に不便を感じていることは否定しません。
自分が希望する性別と外見が完全に一致しないトランスジェンダー、たとえば本人は女性を自認していても、客観的には女装のオッサンにしか見えないトランスジェンダーが女性用トイレに入ってきたら、
そのトイレを利用する一般の女性たちは彼を不審の目で見て、下手すれば痴漢として通報されてしまう恐れがあります。
しかしこのような問題を解決するのはムツカシイことではありません。
下の写真のように車椅子のマークが付いている従来の身障者用トイレに男性と女性を表す絵文字のプレートを付けて、身障者トイレ+男女兼用トイレにしてしまえばよいのです。
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この場合、必要なのは、男女兼用トイレを意味する男性+女性のマークが付いたプレートの制作および貼り付け費用だけで、コストも大してかかりません。 トイレの名称は、「多目的トイレ」でも「だれでもトイレ」でもかまいませんが、注意すべきは、
LGBTという文字や虹色マーク、ズボンの男性とスカートの女性を組み合わせた男女合体の絵文字など、性的少数者を意味するマークや絵文字を使わないことです。
前述したようにこのような絵文字やマークの付いたトイレは、利用する当事者にカミングアウトを強いることになり、結果的にトイレの利用者を減らしてしまうことになるからです。
私はこれが一番簡単かつ実際的で費用もかからないベストな解決策だと思うのですが、この解決策では、LGBTトイレで一儲けを企むLGBT利権活動家やトイレメーカーは利益を得られないので、彼らは賛成しないでしょうね。

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実際にLGBTトイレを必要としているのは、トイレメーカーと組んでLGBTトイレで儲けようと企んでいる「虹色ダイバーシティシティ」代表の村木(旧姓木村)真紀サンのようなLGBT利権屋だけです。


本日のつぶやき
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ジャンヌ・モロー逝去 最晩年まで女優として生きたフランス映画史に残る偉大な女優でした。
合掌!
http://jack4afric.exblog.jp/13823778



これまで行って感動した世界の8つの場所

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① タージマハール(インド)
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インドという巨大なゴミ溜めに落ちている一粒の真珠といった風情のタージマハール。 この世のものとは思えない美しさで、アラジンの魔法のランプで現れた幻の宮殿のよう。
かなり巨大な建造物だが、均整の取れたフォルムの優美さと白大理石の下地に様々な色の大理石と貴石をはめ込んだ表面の装飾模様の繊細さのせいで威圧感はまったくない。


② ジャイサルメール(インド)
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ジャイサルメールはインド北東部、ラジャスタン州のタール砂漠に囲まれた城塞都市。
かって隊商交易で栄えたこの砂漠の町には、交易で富をなした商人たちが建てたハヴェーリと呼ばれる豪華な邸宅が多数、残っていて、まるでアラビアンナイトの世界だ。
ジャイサルメール周辺のタール砂漠をラクダに乗って巡るキャメルツアーに参加すると、かってのラクダのキャラバンの気分が味わえる。

③ ケララのバックウォーター(インド)
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バックウォーターと呼ばれるケララの水郷地帯をボートで巡るトリップは南インド観光のハイライト。
クイロンからアレッピーまで87キロを8時間かけて、現地の住民が利用する乗り合いボートで移動したが、
びっしりと生い茂るヤシの葉を縫うように走る水路の周囲には様々な種類の花が咲き乱れ、鳥が歌い、蝶が舞う桃源郷のようなところだった。

④ ギザのピラミッド(エジプト)
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これまで10回以上、訪れているが、クフ王のピラミッドの前に立つたびに、その巨大さと圧倒的な存在感に打ちのめされる。
同じピラミッドでもメキシコのピラミッドなど足元にも及ばないような貫禄がある。
カイロにいたとき、ムハンディシーンという地区の10階建てのアパートの10階に住んでいたが、バルコニーに出ると、遠くギザの方向に3つのピラミッドが小さく見え、友人が来るたびにそれを自慢していた。

⑤ マラケシュ(モロッコ)
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初めてマラケシュのジャマ・エル・フナ広場を目にしたとき、興奮で胸がドキドキしたことを覚えている。
広場とそこに通じる狭くて曲がりくねった路地には、アラブ独特の妖しい雰囲気が漂っていて、官能を刺激されたのだ。
マラケシュでは、ジャマ・エル・フナ広場に近い細い路地に面した小さなホテルに滞在していたが、
モロッコ特有の長方形の中庭を取り囲んだ4階建ての建物の2階の小さな部屋のベッドに寝転んでいると、
壁の上の方にある小さな窓を通して下の路地で遊ぶ子供たちの歓声が聞こえてきて、「ああ、自分はいまマラケシュにいるんだ」としみじみと旅情に浸ったものだ。


⑥ タッシリ・ナジェール(アルジェリア)

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タッシリ・ナジェールについては、こちらの記事をご覧ください。

アルジェでレンタカーを借りてまっすぐ南下し、アトラス山脈を越えて、一面に広がる砂の海を目にしたとき、大海に小舟で乗り出すような心細さを感じたことを覚えている。
サハラは、昼間は暑さが厳しいが、夜は意外と涼しい。昼間、あれほどうるさくまとわりついてきたハエは完全に消えてなくなり、裸足で歩くとやけどしそうだった熱い砂の地面も夜はひんやりしてくる。
満月の夜は、月の光で新聞が読めるほど明るい。
そんな夜、砂の上に絨毯を敷いて座り、トゥアレグの女性が弾くイムザードというシンプルな一弦の楽器の音に耳を傾けながら、トゥアレグの男が立てたお茶を飲むのは至福のひと時である。


⑦ ピグミーの住むイツリの森(コンゴ民主共和国)

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コンゴ民主共和国のイツリの森で一か月半、ピグミーと一緒に暮らしたのは私の人生で最高の体験だった。
森の中に住むピグミー族と森の周辺に住むバンツー族の黒人の関係も、観察していて非常に興味深かった。
詳しくは、こちらの記事をご覧ください。

⑧ リオのビーチ(ブラジル)
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これまで世界中のいろんなビーチリゾートに行ったが、景観の美しさ、スケールの大きさ、ビーチに集まっている人々の魅力(セクシーさ)からみて、リオのビーチは断トツだった。
特にビーチから見る空の広さとビーチに隣接するショッピング街を人々が水着のままで歩き回るリオ特有の「裸文化」が印象的だった。
8か所の内訳は、インド3、アフリカ4、南米1で、「旅行するのはインドとアフリカが一番面白い」という私の持論を反映する形になった。

外国人観光客の増加は、日本にとってマイナスか?

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日本政府は近年、外国人観光客を積極的に受け入れているが、このような観光立国化の試みは、短期的には利益になるかもしれないが、
長期的には過去の遺産や自然で稼ぐことに特化した経済構造になることで、強みだった技術力を喪失し、ギリシャやエジプトのような先進国とは言えない国になってしまう可能性が高い、
と主張するブログの記事を読みました。
http://totb.hatenablog.com/entry/2017/08/07/075240
私はこのような見方に反対です。
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上の表によると、2015年の外国人観光客数の国別ランキングの上位10か国は、次のようになります。
1位:フランス(8445万人)2位:米国(7251万人)3位:スペイン(6821万人)4位:中国(5688万人)5位:イタリア(5073万人)6位:トルコ(3947万人)7位:ドイツ(3497万人)8位:英国(3443万人)9位:メキシコ(3209万人)10位:ロシア(3134万人)
このリストを見ればわかるように、米国、中国、ドイツ、英国、フランス、ロシアなど世界の主要国はすべて上位10か国にランクインしています。
上位10か国の内、観光立国と呼べるのは、物価の安さと温暖な気候と美しいビーチリゾートによってヨーロッパ各地の観光客を惹きつけるスペインと同様の理由でアメリカ人観光客を惹きつけるメキシコ、
過去の歴史遺産や文化遺産で観光客を惹きつけるイタリアとトルコの4か国だけです。
つまり、外国人観光客の多い国=国の経済を観光収入に大きく頼っている観光立国とは限らないということです。
上記の表では、日本の外国人観光客数は年間1973万人で16位にランクインしていますが、これは2015年の数字で、2016年は前年比21.8パーセント増の2403万人、
2017年上半期(1月~6月)は前年比 17.4%増の1375 万人で、単純計算すると、2017年の年間観光客数は2750万人になると予想されます。
この数字を上の表にあてはめると、タイに次ぐ12位になりますが、まだ英米仏独中ロと較べると少ないし、政府が2020年の目標にしている4000万人でやっとイタリアに次ぐ6位になります。
日本の国際的競争力からみて、この程度の順位が妥当ではないかと思われますが、
これまでは日本の国力=ブランド価値からいって、日本を訪れる外国人観光客は少なすぎたのです。
上記のブログでは、日本に来る外国人観光客が増加した理由を円安のせいにしてますが、一番の要因は、中国やアセアン諸国で日本のビザの取得要件が緩和されたことです。
元々、中国やアセアン諸国では日本旅行の潜在的需要は高かったのですが、ビザの取得がむつかしく簡単に行ける国ではありませんでした。
それがビザ要件が緩和されて行きやすくなったことで、アジアからの観光客が一挙に増えたのです。
アジア諸国の人々からみて日本は憧れの国です。
日本はアジアで唯一の先進国で、東京や大阪は魅力溢れる大都会だし、地方に行けば美しい景色を見ることができ、その土地の美味しい料理や酒を味わうことができます。
客観的にいって、日本は外国人にとって旅行するのにとても面白い国だし、日本の国益の観点からいっても、多数の外国人観光客を受け入れることは大きなメリットがあると思います。
単に観光収入が増えるという狭義のメリットだけでなく、日本という国の魅力を来日観光客を通して世界にアピールすることは、日本のイメージアップにつながるのです。
2015年の12月に初めて上海に行ったとき、街並みや地下鉄の汚さ、地下鉄や空港職員の不愛想さ、ちゃんと予約して前金まで払っていったにもかかわらず、
部屋がないと言い張って宿泊を断るホテルの従業員の信じられないような無礼な態度に大きなカルチャーショックを受けました。
街に垂れ込める灰色のスモッグも相まって、中国大陸は暗黒大陸であるという印象を強く受けたのでした。
このような暗黒大陸の住人が日本に観光でやってきたときに、私が中国で味わったのと真逆のカルチャーショックを受けるであろうことは想像に難くありません。
スモッグのない澄み切った青空、ごみの落ちていない清潔な街並み、商店やレストランなどサービス業の従業員の愛想よさ、ちゃんと行列を作って並ぶ温和で行儀の良い人々。。。
小日本と呼んで見下してきた国が世界でもトップレベルの先進国であったことを知ったときの衝撃。
同じアジアの国でありながら、中国と日本ではどうしてこれほど違うのだろう?
と疑問が湧いてくる筈です。
毎年500万人を超える中国人が日本にやってきてこのようなカルチャーショックを味わうわけで、その影響は我々日本人が想像する以上に大きいのではないでしょうか。
「和平演変」という言葉があります。
平和的手段を用いて社会主義体制を崩壊させることを指す中国語ですが、毎年、多数の中国人観光客を日本に受け入れて、
言論の自由や表現の自由が保証された民主主義国家である日本の実態を見聞させることは、中国の体制変革を促すひとつの要因になるのではないかと私は思っています。
騒々しくて下品でマナーの悪い中国人観光客が街に溢れているのを見るのは、たしかに気分の良いものではありませんが、
井の中の蛙の阿Qたちに文明を教えてやっていると考えれば、少しは我慢できるのではないでしょうか。
彼らは無料で文明を学んでいるのではなく、爆買いその他の形でちゃんと授業料を払っているのですから。
最近では、教育の効果が現れたのか、中国人観光客のマナーも以前と較べて改善しつつあるような気がします。
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街に溢れる中国人観光客

冒頭のブログの記事に戻りますと、日本政府が外国人観光客の誘致に力を入れることで、日本がギリシャやエジプトのような国になってしまうという主張はまったく説得力がありません。
上記の国別の外国人観光客数のランキング表をみればわかるように、アメリカやフランス、ドイツ、イギリスなどの主要先進国は、
日本よりも遥かに多い外国人観光客を受け入れているにもかかわらず、先進国としての地位を保っています。

観光客の増加が、観光産業以外の産業の衰退につながるという主張には論理的根拠はないのです。

最近、ネットでは日本はそのうちダメになるとか、いやもうすでにダメになっているとか悲観的な意見を頻繁に目にするようになっていますが、
訪日観光客が増えているという日本にとって喜ばしいニュースまで、詭弁を弄して日本衰退論に結び付けるのは、悪質なプロパガンダとしか思えませんね。

日本は一日も早く核武装すべきです

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今年も8月がやってきて、6日に広島、9日に長崎で開催された「原爆の日」の式典では、被爆者たちが例年どおり「核兵器の廃止」を訴えたそうですが、それを聞いて空しさを感じたのは私だけでしょうか。
戦後70年以上にわたって広島と長崎は「核兵器のない世界の実現」を訴え続けていますが、それで地球上から核兵器が根絶されるどころか、核兵器も核保有国も増大の一途を辿っています。
広島、長崎に原爆が投下されたときに核兵器を保有していたのはアメリカだけだったのが、その後、核保有国は、ソ連、イギリス、フランス、中国、イスラエル、パキスタン、インド、そして北朝鮮と拡散し続けています。
現在、北朝鮮は核で日本を攻撃すると恫喝していますが、広島市長も長崎市長も式典のスピーチで、北朝鮮を非難する言葉を一言も口にしなかったそうです。

彼らは70年以上も前の広島や長崎が被った悲劇を回顧して感傷に浸っているだけで、真近に迫っている危機については思考停止に陥り、目をつむっているのです。
日本国民がこのような思考停止に陥っている限り、次に核爆弾が投下されるのもやはり日本になることは確実です。
現在、日本は、中国、ロシア、北朝鮮の3つの核保有国に取り囲まれています。
それに対抗してアメリカの核の傘が日本を守ってくれているということになっていますが、はたしてアメリカによる核の傘は本当に日本を守ってくれるのでしょうか?
アメリカ在住の国際政治アナリストの伊藤貫氏は、その著書『中国の核が世界を制す』でアメリカの核の傘は役に立たないと明言しています。
現在、中国は、米軍による先制、もしくは報復核攻撃によって破壊することのできない高性能の移動式ミサイルICBM・SLMBをすでに保有しており、
尖閣諸島の領有権をめぐって、日本と中国の海空軍が衝突するような事態が起きても、「アメリカ政府は軍事介入したがらない」という状況ができてしまっているというのです。
最近、中国政府の日本に対する態度が非常に傲慢、高圧的、かつ一方的になっているのは、中国政府が、
「中国が日本を核攻撃しても、アメリカはそれに対する有効な報復攻撃を行えないから、結局、アメリカ政府は日本を見捨てる」
と考えているからだといいます。
そもそも「アメリカの核の傘によって日本を守る」というアメリカ政府の方針は、日本に核武装を許さず、アメリカ以外の核保有国が日本に核攻撃を行うと脅してきたとき、
アメリカに頼らざるを得ない状況に日本を置いて、日本をアメリカに隷属させることが真の目的であると伊藤氏は主張しています。
第二次大戦後、アメリカはイギリスとフランスにも「核の傘」の提供を申し出たそうですが、英仏両国とも、アメリカの核の傘に入ることが、

アメリカの属国になることにつながることを理解していたので、その申し出を断り、自主的な核抑止力を構築することを選択したといいます。
アメリカの戦後の対日政策の基本は、日本が再び軍事大国化するのを防ぐために日本に軍事力を持たせないようにすることでした。
そのために憲法9条を日本に押し付けて日本が戦争できないようにしたのですが、朝鮮戦争をきっかけに自衛隊の創設を認めたあとも、米軍の日本駐留は続き、
日本防衛の主力を担うのはあくまでも米軍であるとされ、自衛隊には米軍の補完的な役割しか与えられませんでした。
そのような方針の下では、日本の核武装を認めるなどというのはあり得ない話で、共和党、民主党を問わず、アメリカ政府は戦後一貫して日本の核武装の可能性を否定し、
1971年に行われたキッシンジャーと周恩来の米中会談では、「日本には核武装させない」という点で双方の意見が一致したといいます。
この日本の核武装を許さないという米中密約は、オバマ大統領の時代まで有効だったそうですが、それをひっくり返したのがトランプです。
トランプは、大統領選挙期間中にアメリカはこれ以上、同盟国である日本や韓国を守る力がないので、アメリカ軍は極東から撤退して日本と韓国が核武装するのを認めればよいと発言したのです。
トランプはこの発言を批判されて二度と口にしなくなったそうですが、これがアメリカファーストを掲げるトランプの本音でしょう。
トランプがこのような発言をした背景には、アメリカの国力の衰退があります。
アメリカは最早、世界の警察官の役割を担えなくなったとは、トランプの前任者であるオバマ大統領も明言していたことですが、アメリカの戦後の外交パラダイムが大きな転換点を迎えていることは確実です。
国力の衰えたアメリカが、東アジアに関して取ることができる安全保障上の政策面での選択肢は二つあります。
一つは、習近平がオバマに迫ったとされる太平洋を二分して、西太平洋を中国、東太平洋をアメリカの勢力圏にするという米中による太平洋地域の分割支配です。
この場合、当然ながら、東南アジア、台湾、韓国、日本は中国の属領として扱われることになります。
もうひとつは、最早、アメリカ一国だけでは、中国の覇権主義に対抗できないことから、日米同盟を強化して日本に対して軍事力の増大を求め、アメリカが担ってきた防衛の一部を日本に肩代わりさせるというものです。
現在のアメリカが、後者の日米同盟の強化と日本の軍事面での負担の増大を求める方向に動いているのは明らかで
これは日本にとってこれまでの対米従属路線から自主独立路線への転換を可能にする大きなチャンスになります。
実際、アメリカでは、日本の核武装を容認して中国や北朝鮮の核に対抗させるべきであるという、一昔前までは考えられなかった意見まで出ているそうです。
「日本に核武装させるべきか?」米メディアに現れ始めた「日本頼み」の論調https://newsphere.jp/world-report/20170804-3
さらに最近では韓国でも北朝鮮に対抗して核武装すべきであるという意見が出ているそうで、
もしそうなれば日本を取り巻く中ロ南北朝鮮の4か国がすべて核保有国になるわけで、日本だけ核武装しないという選択は非現実的なものになってしまいます。
中国による日本の属国化を防ぐために日本が取るべき対策は、早期の核武装しかないのです。

GIDが成功したのにLGBTができない理由

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先日、偶々、「一般社団法人gid.jp日本性同一性障害と共に生きる人々の会」代表として、 性同一性障害を抱える人たちのために性同一性障害特例法などの成立に尽力されたGID活動家の山本蘭さんのツイッターを拝見する機会がありました。
そのツイッターを読んで、彼女の発言があまりにまともであることに驚きました。
別にGIDに偏見を持っていたわけではありません。
そうではなくて、日頃、LGBT活動家を自称する連中のツイッターやブログの文章を読んで、その斜め上発言やカタカナ言葉を連発する意味不明の言い回しにうんざりしていたのが、
彼女の文章にはそのような活動家に特有の「分かりにくさ」が存在せず、この人とならば、普通に会話ができるのではないかとの印象を受けたのです。

彼女が率いるGID活動グループは、うるさく騒ぎ立てるだけで、実質的なことをなにひとつ成し遂げていないゲイリブ=LGBT活動家たちと異なり、
国会議員に対する熱心なロビー活動によって2004年に性同一性障害特例法を成立させたことを皮切りに、
当初、子供がいる場合は戸籍の性別変更が認められなかったのを未成年の子供がいないことに要件を緩和させるなど着実に成果を挙げています。
なぜGID活動家はこのような成果を挙げることができたのか?
その理由を考察すれば、逆になぜLGBT活動家が成果を挙げられないかの理由もはっきりするような気がします。
GID活動家の成功の要因として、次のようなことが考えられます。
実際に生きていく上での困難を抱えていたこと
戸籍上の性別と外見の性別が異なることに起因する生活上の困難は、非当事者である我々にも容易に想像がつきます。
男性用、女性用のどちらのトイレを使うかというような日常的な問題から、就職の困難や性転換手術やホルモン療法に伴う医学的・経済的問題など、
当事者が抱える問題は深刻かつ切実で、そのような問題を解決する必要性を非当事者である政治家に理解させるのはそれほどむつかしくはなかったと思われます。
一方、LGBT活動家が主張するLGBTであることの生きづらさは、Tのトランスジェンダーを除けば、大したことはありません。
たとえばLGBT活動家が同性愛者の権利として主張している同性婚の法制化ですが、肝心の当事者はLGBT活動家がいうほど同性婚を望んでいないし、日本には養子縁組制度など同性婚の代替制度も存在します。
その結果、LGBTはGIDの場合と異なり、運動が盛り上がらないのです。
与党である自民党・公明党にたいしてロビー活動を行った
GID活動家グループが、性同一性障害特例法を成立させるために与党である自民党や公明党の国会議員に接触してロビー活動を行ったのは当然というか、あたり前のことです。
法案が成立するかどうかの鍵は、与党である自民・公明の国会議員が握っていたからです。
逆にLGBT活動家が社民や民進党のような野党の議員とばかりつるんでいるのは、戦略的に誤りであることは明らかです。
野党の議員たちにLGBT活動家が目指している同性婚の法制化やLGBT差別禁止法案を成立させるだけの力はないからです。
つまり、LGBT活動家たちの政治家へのアプローチは、現実的ではないし、それだけ真剣味に欠けているということです。
政治やイデオロギーに染まっていない
山本さんのようなGID活動家は、特定の政治思想やイデオロギーに染まっていません。
彼女たちが自民や公明の政治家にたいするロビー活動を行ったのは、GID特例法を成立させるにはそれが一番、手っ取り早いという実際的な理由からであって、自民や公明の政治思想に共鳴していたわけではありません。
LGBT活動家が、自民・公明の与党の政治家にたいしてロビー活動を行わず、絶滅危惧種である社民や民進と組むのは、運動の目的がLGBT当事者の救済ではないからです。
彼らの本当の目的は、特定の政治思想やイデオロギーを拡散することにあり、
そのために、しばき隊や共産党、反日朝鮮人のシンスゴなど偏った政治思想を持つ勢力と共闘しているのです。
当然のことながら、そのような姿勢は一般当事者の反発を買っています。
金目的の活動ではなかった
山本さんは、gid.jpの代表を最近、辞任されたそうですが、辞任するまで十数年の活動で1000万円ほど身銭を切ったといわれています。
一方、LGBT活動家は身銭を切るどころか、金儲けに狂騒しています。
尾辻かな子の離婚妻、村木(旧姓木村)真紀が代表を務める虹色ダイバーシティーは、企業や自治体、学校などのLGBT研修で講師を務めて荒稼ぎをしていますが、
あるLGBT関連イベントで週刊誌AERAの記者に無断で写真を撮られ、その写真を紙面に掲載されたレスビアンの女性が虹色ダイバーシティーに相談の電話をかけたところ、
ウチはそんな相談は受け付けていません、とけんもほろろに断られたといいます。
金儲けにならないことは一切、やらないというその姿勢はいっそすがすがしいとも言えますが、
LGBTが生きやすい社会を目指すといいながら、一般当事者を無視して金儲けに奔走していたら、そのうち手痛いしっぺ返しを食らうのではないでしょうか。
GID活動家である山本さんがGID活動家とLGBT活動家とは完全に別物で、ゲイパレードにも関心がないと広言するのは、
金儲けにしか興味がない村木(木村)真紀みたいな銭ゲバのLGBT活動家と一緒にされたくないという気持ちがあるからでしょう。
山本さんはまたGIDとLGBTのTであるトランスジェンダーは別物であると主張しています。
GIDは、性転換手術を受けて戸籍の性別を変更した人間のことをいい、トランスジェンダーは、性転換手術やホルモン療法をまったく受けないか、一部しか受けずに女装あるいは男装している人間をいうのだそうです。
最近、一部のトランスジェンダーが手術を受けることなしに性別変更が認められるべきだと主張しているそうですが、山本さんはそのような主張に反対の立場を取っています。
大金を払ってしんどい思いをして手術を受けてやっと戸籍の性別を変更したGIDから見れば、手術なしの戸籍変更なんて虫が良すぎるということでしょう。
いずれにせよ、手術なしの性別変更が認められるようになるには、GID特例法から手術要件を撤廃するか、GID特例法そのものを廃止して、別の法律を制定する必要があるわけで、
果たしてトランスジェンダーたちに、山本さんたちGID活動家がやったように、与党の自民・公明議員にたいしてロビー活動を行って、議員たちにその必要性を認めさせるだけの政治力と交渉力があるか、疑問です。
彼らにできるのは、せいぜいのところ「海外では手術なしで性別変更が認められている」と出羽守するくらいで、その程度の主張で自民や公明の政治家を動かせるとは到底、思えないのです。


本日のつぶやき
同性婚の合法化を=前原、枝野氏時事ドットコムニュース 2017/08/24-00:07https://www.jiji.com/jc/article?k=2017082400007&g=pol

政権が取れる見込みがないと好きなことがいえる。

大阪を舞台にした日本映画10選

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大阪を舞台にした日本映画の名作を10本、選んでみました。
相変わらず、昔の映画ばかりで恐縮ですが (^^;

①『春琴抄 お琴と佐助』(1935)
f0107398_22525020.jpg監督:島津保次郎
主演:田中絹代、高田浩吉

谷崎潤一郎原作の驕慢な性格の盲目の三味線師匠、春琴に盲目的に奉仕する丁稚の佐助のSM的純愛物語を映画化した作品。
この作品は、これ以後、何度もリメイクされ、その時々の人気女優が春琴を演じているが、本作の田中絹代の春琴が一番良い。
戦後、歌うスターとして時代劇によく出ていた佐助役の高田幸吉は、この頃はモダンな風貌のイケメンだった。
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②『浪華悲歌』(1936)
f0107398_23203050.jpg監督:溝口健二
主演:山田五十鈴
この作品で印象的だったのは大阪弁が持つ強さ。
ラストシーンで、美人局事件を起こして家族に捨てられて行き場所を失った山田五十鈴が、道頓堀にかかる橋の上で欄干にもたれて川の水をぼんやりと眺めているときに、

通りがかりの知り合いの男に「こんなとこでなにしてるんや」と声をかけられて、


「野良犬や、どないしてええかわからへんのや」と吐き捨てるように答えるのだが、このセリフが大阪弁でなければ、効果はだいぶ減じていたのではないかと思う。
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山田五十鈴、芳紀18歳


③『残菊物語』(1939)
f0107398_23272783.jpg監督:溝口健二
主演:花柳章太郎、森赫子 

歌舞伎役者、二代目尾上菊之助の悲恋を描いた溝口健二の「芸道三部作」の一作。
この『残菊物語』が公開された1939年には、アメリカで『風と共に去りぬ』が封切られ、
戦時中にシンガポールでこの映画を観た小津安二郎が、「こんな映画を作る国と戦争して勝てるわけない」といったと伝えられているが、
日本でも同時期にこの大作が作られたわけで、それほど卑下する必要はないのではないかという気がする。
芝居小屋のセットは見事だし、ラストの道頓堀川の船乗りのシーンもスペクタル性があるし、
ロングショットを多用したその撮影技法は、ゴダール初めフランスのヌーベルバーグの監督に大きな影響を与えたといわれている。
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4.『王将』(1948)
f0107398_23331545.jpg監督:伊藤大輔
主演:坂東妻三郎

大阪、天王寺の貧民街出身の将棋界の鬼才、坂田三吉の半生を描いた作品。
監督の伊藤大輔は、「移動大好き」と異名をとったそうで、この作品でもスピード感あふれる移動シーンが見られる。
坂田三吉演じる坂妻は貫禄十分。本物のスタアという感じ。
長男の故田村高廣が生前、坂妻襲名を頑なに拒絶した気持ちがわかる。田村三兄弟が束になってかかっても、この親父さんには敵わないだろう。
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⑤『めし』(1951)
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監督:成瀬巳喜夫
主演:原節子、上原謙
大阪の下町に住む安サラリーマン夫婦の人生の哀歓を描いた作品。
世帯やつれした妻の役は、原節子に似合わないような気もするが、ちゃんと様になってるのはさすが成瀬監督。
夫婦が住む長屋は、阪堺線の「天神ノ森」駅周辺で、そこから距離的にはそう離れていない高級住宅地の帝塚山に原節子の親戚が住むという設定で、夫婦の住む長屋と原節子の親戚が住む豪邸が対比的に描かれている。
上原謙の夫が東京から大阪にやってきた姪の島崎雪子を連れて観光バスに乗り、大阪城を見物するシーンがある。

⑥『大阪の宿』(1954)
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監督:五所平之助
主演:佐野周二
五所平之助監督は、この作品の前年に公開された『煙突の見える場所』が名作の誉れ高いが、個人的にはこっちの作品が好き。
東京から大阪に左遷されたサラリーマンの佐野周二が下宿代わりに住んだ安宿で、宿の女中たちや出入りの商人たちと仲良くなり、大阪人の金、金、金のがめつさに辟易しながらも、温かく見守るという話。
音羽信子の芸者「うわばみ」が絶品。佐野周二もいい役者だった。息子は最低だけど。



⑦『夫婦善哉』(1955)
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監督:豊田四郎
主演:森繁久彌、淡島千景
織田作之助原作の同名小説を映画化した作品。道楽が過ぎて親に勘当された化粧品問屋の息子の柳吉を助ける芸者上がりのしっかり者の女房、蝶子の奮闘を描いた人情味あふれるコメディ映画。
柳吉役の森繁はこの作品でブレイクした。彼が演じた柳吉は、『浮雲』(1995)で森雅之が演じた富岡と共に日本映画が描いた二大ダメ男として映画史に残ると思う。
蝶子役の淡島千景は大阪弁を完璧に話しているが、実は東京出身で、大阪弁のセリフに泣かされたと聞いてびっくりした。
ラストシーンの法善寺横丁のセットは素晴らしい。


⑧『がめつい奴』(1960)
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監督:千葉泰樹
主演:三益愛子、中山千夏
菊田一夫作・演出の同名の大ヒットした舞台劇の映画化作品。
舞台は大阪、釜ヶ崎、「釜ヶ崎は日本のカスバと呼ばれている」という冒頭のナレーションが笑わせる。
主役のお鹿婆さんと孫娘のテコは、舞台と同じ三益愛子と中山千夏が演じている。
テコ役の中山千夏は当時、天才子役と謳われたが、長ずるに及んでフェミにかぶれ、おかしな方向にいってしまい、子役は大成しないというジンクスを身をもって示した。
日本映画が一番、元気だった頃の作品で、俳優たちが生き生きと演じている。

⑨『“エロ事師”たちより人類学入門』
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監督:今村昌平
主演:小沢昭一、坂本スミ子
二代目中村鴈治郎が演じる老舗のご隠居さんのエピソードが笑わせる。
鴈治郎の老舗のご隠居さんが、エロ関係の仕事ならなんでも引き受ける小沢昭一演じるエロ事師のスブやんに、
「なあ、スブやん、恥ずかしい話やけど、わしはこの齢になるまで処女とやったこといっぺんもないんや。女房も家付き娘で処女やなかったし、このままでは死んでも死に切れんのや」とかきくどく。
「まかしといておくれやす」と頼もしく答えるスブやん、遣り手婆のミヤコ蝶々に会いにいって、「客が処女をひとり欲しがってるんやけど」
蝶々は近くで赤ん坊を抱いている若い女を指さし、「処女やったら、あの娘がええわ。あの娘はなんべんも処女やってるさかいに」
そしてご隠居さんとのお目見えシーンで、その若い娘がセーラー服姿で登場!
スブやんがおもむろに「一応、念のために」と医者が書いたという「処女証明書」なるものを差し出すと、
「なにもそこまでやってくれんでも」といいながら、相好を崩す鴈治郎が傑作だった。


⑩『泥の河』(1981)
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監督:小栗康平、
主演:田村高廣、藤田弓子
宮本輝の小説を小栗康平が映画化した作品。これまで観た中で一番泣いた映画。
決してお涙頂戴式の映画ではないのだが、主人公の少年と自分の子供時代がかぶり、冒頭の少年が「おかあちゃん!」と叫ぶシーンでドッと涙があふれ、
そのあと最後まで涙、涙で、あらすじはよく覚えていない。
小栗監督はこの作品が処女作だが、二作目以降はひとりよがりで難解な「芸術映画」ばかり撮るようになったのは残念である。
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今こそ、韓国に謝るべきか

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先日、本屋に行ったときに作家の百田尚樹氏のベストセラー本、「今こそ、韓国に謝ろう」を立ち読みしました。
百田氏はこの本で、日本が朝鮮の文化や朝鮮人の民族性を無視して、朝鮮半島に巨額の投資を行って朝鮮を近代化してしまったことにたいして「すみませんでした」と謝っています。
この言葉には皮肉がこもっているのでしょうが、半ば本気でいっているのではないかという気もします。
実際、韓国人は36年間の日本統治を深く恨んでいるそうで、パク・クネ前大統領などは1000年経っても恨みは消えないといったそうです。
日本は本当に朝鮮にたいしてそれほど酷いことをしたのでしょうか?


韓国人のいう日帝36年の間に、日本は朝鮮の小学校の数を100から5000に増やして239万人が就学できるようにし、識字率を4%から61%に引き上げ、
師範学校と高等学校をあわせて1000以上つくり、京城には現在のソウル大学の前身である帝国大学まで作りました。
また病院を作ってそれまで蔓延っていたカルト的な呪術医療を禁止し、浄水場を作って上下水道を整備し、それまで泥水を啜っていた朝鮮人に安全な飲み水を供給し、入浴の習慣を広めました。
おかげで朝鮮の衛生状態は向上し、朝鮮人の平均寿命は24歳から30年以上伸び、人口は2倍に増えたといいます。
さらに道路や川や橋を整備し、鉄道を5000キロ以上敷設し、港を作り、発電所を作って電気を引いて電灯がつくようにし、ビルを作り、市外電車も走るようにしました。
また禿げ山に6億本もの樹木を植林し、ため池を造り、耕地を2倍以上に増やし、稲作ができるようにし、近代的な農業を教えて、1反辺りの収穫量を3倍に増やしました。
また階級制度を廃止し、人口の30%を占めていた奴隷を開放し、家父長制を制限し、家畜扱いだった女性に名前が付けられるようにし、幼児売春や幼児売買を禁止し、
朝鮮人官吏を積極的に登用し、警官の6割、議会議員の8割を朝鮮人が占めるようにしました。
このような投資にかかった費用の3分の2は日本政府の持ち出しで、すべて日本国民の税金によって賄われたといいます。
その結果、朝鮮はアフリカ並みの極貧国から日本と変わりない近代国家に生まれ変わったわけで、感謝されこそすれ、恨まれる筋合いはないと思うのですが、
困ったことに人間というのは、親切にされたからといって感謝するとは限らないのです。
特に朝鮮(韓国)の場合は、伝統的な小中華思想のおかげで朝鮮は日本の兄貴分であるという優越意識があるのですが、
植民地時代の日本の功績を評価することは、日本が朝鮮よりも優れていた事実を認める結果になってしまいます。
それで韓国人は、朝鮮は日本統治時代に日本によって過酷な搾取を受けたと主張しているのですが、そう思わないと、彼らのアイデンティティーは崩壊してしまうのです。
韓国人が慰安婦問題で朝鮮人慰安婦が日本軍によって強制連行されて性奴隷にされたと言い張るのも同じ文脈から理解できます。
彼らは、同胞の女が金のために喜んで日本兵に身を任せたとは信じたくないのです。
現在でも日本には5万人もの韓国人の売春婦がいて、日本の男相手に売春しているそうですが、韓国人はそういう自分たちにとって都合の悪い事実は見ないで済ますという特異な才能があるようです。
最近、韓国政府は、大韓民国の歴史は1919年に始まると主張するようになったといいます。
大韓民国というのは、日本が大東亜戦争に敗れたあと、朝鮮半島の北部をソ連が、南部をアメリカが占領する結果となり、日本の敗戦後3年目にあたる1948年8月15日にアメリカが傀儡の李承晩を擁して樹立させたものなのですが、
1919年に上海に大韓民国臨時政府なるものができていたそうで、それを根拠に大韓民国はこの年に誕生したと言い張っているのだそうです。
この上海の臨時政府なるものは殆ど活動しておらず、第二次大戦時の連合国にも認められていなかったそうですが、
戦後も韓国政府は、これを根拠に1951年に日本が連合国との間で結んだサンフランシスコ条約に連合国の一員として参加させろとゴネたといいます。
もちろんこの韓国の要求は、連合国側から鼻もひっかけられなかったそうですが、大日本帝国の一員として大東亜戦争を日本と共に戦い、BC級戦犯を148人も出し、
靖国神社に2万1000柱もの朝鮮人兵士・軍属が祀られている事実を完全に無視してそのような主張を行った面の皮の厚さには驚かされます。
まわりを日本、中国、ロシアといった強国に囲まれた小国が生き延びていくための知恵なのかもしれませんが、こういう恥知らずなことはやっぱり韓国人しかやらないのではないかという気がします。
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私は上の写真を初めて見たとき、この韓国人がなにをいっているのかよく理解できなかったのですが、
韓国人の脳内では、韓国は日本統治下の1919年に上海で大韓民国臨時政府を作って日本の植民地支配に抵抗し、
1941年から始まった大東亜戦争では連合国の一員としてアメリカと共に日本と戦い、日本に原爆を落として降伏させたことになっているらしいのです!
アメリカの歴史学者、エドワード・ルトワックはその著書「戦争にチャンスを与えよ」で、
「韓国がいつまでも日本を恨むのは、日本と戦争したことがないからだ。韓国人は本当は日本人ではなく日韓併合を抵抗もせずに受け入れた自分たちの先祖を恨んでいるのだ」
と述べています。
親日法なる法律を作って、日本統治時代に先祖が日本に協力していたとみなされる韓国人の子孫の財産を没収するなどという馬鹿なことをやっているのはそのためでしょう。

日本統治時代は大半の朝鮮人が日本に協力していた筈ですが、韓国人は自分たちの先祖が日本の植民地支配を唯々諾々と受けいれただけでなく、

戦時中は、男は兵隊に志願して日本兵として戦い、女は慰安婦になって戦争に協力したという事実をどうしても認めることができないでいるのです。
彼らは、そのような現実から目をそらして、朝鮮人は過酷な日本の植民地支配に対して立ち上がり、勇敢に戦ったことにしているわけで、
そのようなねつ造した歴史認識に基づいて日本に過去の植民地支配について謝罪を迫っても、
日本としては、当然のことながら、受け入れることはできないので、いつまで経っても韓国の欲求は満たされることはなく、日本を恨み続けることになるのです。
このような理不尽な要求を続ける韓国にたいして日本がすべきことは、安易に謝罪することではなく、韓国は日本のお陰で発展したという日本の言い分を粘り強く主張し続けること以外ないと思います。
韓国がそのような日本の主張を簡単に受け入れるとは思えませんが、少なくとも日本には日本の言い分があること、
日本は韓国の歴史認識を共有しないことを韓国に判らせることはできる筈で、すべてはそこから始まるのです。
関連記事:「日本人と一緒に大東亜戦争を戦った朝鮮人」



今週のイケメン
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本日のつぶやき

アジア各国の同性愛は道徳的に許容できないと考える人の割合。
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日本が31パーセントで一番低いが、トルコを除く中東イスラム圏の低さに注目(40~50%)タイやカンボジアなどインドシナ半島諸国と変わらない。フィリピンの65%も驚き。


つぶやき2

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ゲイであることはカミングアウトしても、在日であることは隠している誰かさんは民族同一性障害を抱えているのかしら。


つぶやき3
久保 勝‏ @Masaru615One · 6月11日 教育実習中、何度も教員が「ホモ」「おかま」と笑い飛ばす場面がありました。「知らない」だけで素敵な先生が子どもたちへの凶器になりかねない現実。悲しかった。
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「ホモ」や「おかま」は差別語だと非難しながら、提携している自治体と一緒になって「LGBTのLはレズという意味です」と書いたティッシュを配っている学生活動家。 それにしてもこの手の活動家を名乗る学生の顔面偏差値の低さには毎回、驚かされる。

いつのまにか大国になったドイツ

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ドイツのメルケル首相が、北朝鮮が核やミサイルの実験を繰り返し緊迫する朝鮮半島情勢について「われわれに交渉参加の要請があれば、即座に応じる」と述べ、仲介外交に意欲を示しているそうです。
https://www.nikkei.com/article/DGXLAS0040004_Q7A910C1000000
彼女は、以前から、「この問題は、平和的な外交による解決しかありえない」と主張して、北朝鮮にたいする軍事力行使をちらつかせるアメリカのトランプ大統領を牽制しているのですが、
現在、西側諸国で、トランプ大統領にたいしてこれだけはっきりと意見をいえる首脳はほかにいないでしょう。

フランスのマクロン大統領やイギリスのメイ首相は、ヨーロッパで一人勝ち状態にあるドイツに対抗するためにトランプ大統領にすり寄っているし、
北朝鮮のミサイル問題や中国との間で尖閣諸島の問題を抱えている日本は、安全保障の面でかってないほどアメリカ依存を強めています。
そんな中で唯一ドイツだけがアメリカに物申す立場にいるのです。
今年の5月にイタリアで開催されたG7サミットでは、地球温暖化問題や保護貿易をめぐってアメリカのトランプ大統領とメルケル首相が対立し、
サミット後、メルケル首相は、「ヨーロッパがアメリカに完全に頼れる時代は終わった。ヨーロッパは自分たちの運命を自分たちで切り拓いていくしかない」と述べたそうですが、
この発言の裏には「少なくとも、ドイツはアメリカに頼らなくともやっていける」という自負心があるわけで、いつのまにドイツはそんなに強い国になっていたのかと驚かされます。
日本とドイツは共に第二次大戦に敗戦国で、敗戦の結果、戦前の領土の多くを失いましたが、
ドイツはそれに加えて、東ドイツと西ドイツに分断され、首都であったベルリンは東ドイツの領土内に浮かぶ陸の孤島になってしまいました。
1948年にソ連がベルリンに向かうすべての道路と鉄道を封鎖したとき(ベルリン封鎖)、アメリカ軍はベルリン空輸作戦を実施して、ベルリンに物資を輸送してベルリン市民の生存を保障しました。
西ドイツがアメリカに完全に頼り切っていたこの頃と現在では隔世の感があります。
戦後、日本も西ドイツもアメリカによる復興支援を受けて順調に経済発展するのですが、経済発展の度合いは西ドイツよりも日本の方がめざましく、1968年に日本のGNPは西ドイツを抜き、世界第二の経済大国になります。
しかし、バブル崩壊後、日本経済は低迷します。
一方、ドイツは1990年に念願のドイツ統一を果たし、その後、EUの共通通貨であるユーロを導入します。
ユーロの導入は、ドイツ統一によってドイツが再び大国になることを恐れたイギリスやフランスが、ドイツ統一の交換条件として強い通貨であるマルクを放棄するように迫った結果だといわれていますが、
皮肉なことにドイツ経済はユーロ導入によってますます強くなります。
ユーロ安の影響でドイツの輸出産業は大いに潤い、ソ連の崩壊後、EUに加入した東欧諸国の優秀で安価な労働力を自由に使えるようになったからです。
そして気がついたら、ドイツはEUを牛耳っていて、フランスの歴史人口学者のエマニュエル・トッドがその著書、『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる』で予言したように、アメリカと対立するまでになっていたのです。
去る2015年にはドイツにシリア人を初めとする大量の難民が押し寄せました。
メルケル首相がドイツはすべての難民を受け入れると表明したことが引き金になったのですが、それにより難民がヨーロッパに溢れ、大混乱に陥ったのは記憶に新しいところです。
ドイツでは一度に大量の難民が押しかけたせいで収容施設が足りなくなったり、難民の若者がドイツ人女性を暴行する事件が頻発して、メルケル首相を批判する声が高まったそうですが、
あれから二年近く経った現在、メルケル首相にたいする批判は収まって支持率は回復し、このままいくと9月の総選挙で勝利して首相に再選されることが予想されているといいます。
2015年一年でドイツには100万人の難民が流入したそうですが、結局のところドイツ国民はメルケル首相が断行した大量の難民受け入れ政策を支持したことになるのでしょうか。
ドイツは日本と同様、少子化問題を抱えていて、2015年のドイツの出生率は1.41で日本の1.43よりも低く、人口を維持するために必要な出生率である2.07を大幅に下回っています。
出生率の低下は日本よりもドイツの方が先に顕著になり、80年代にすでに1.4の水準まで低下していて、このままいくと将来、ドイツ人はこの世から消えてなくなるといわれたものです。
この少子化を解決するためにドイツは積極的に移民を受け入れるようになります。
その結果、現在ではドイツの全人口、約8220万人の内、移民のルーツを持つ人間が約1710万人に達し、人口の約21%を占めるようになっているそうです(Statistisches Bundesamt 2016a)。
現在、ヨーロッパでは移民排斥の機運が高まっているといわれていますが、ドイツではこれだけの移民を受け入れながら、
移民制限を訴える政党AfD(ドイツのための選択肢)の支持率が伸び悩み、メルケル首相率いるCDU(キリスト教民主同盟)の支持率が堅調に推移しているといいます。
このことは、ドイツ国民が移民受け入れには犯罪の増加や治安の悪化などのマイナス面を上回るプラスの面があると考えていることを示しているのではないでしょうか。
実際、近年のドイツ経済の好調は移民の存在なくしては、語ることはできないし、ドイツの産業界は大量のシリア難民の受け入れを歓迎しているといいます。
それにしてもたった一年で100万人もの難民を受け入れることがいかに凄いことか、日本に同じ数の難民が押し寄せたときに果たして適切に対応できるか、考えてみればよくわかるでしょう。
2015年の100万人よりだいぶ減ったとはいえ、2016年にもドイツは30万人の難民を受け入れているのです。
多少の混乱はあるにしても、これだけの数の難民を受け入れてしまうドイツという国の底力は大したものであるといわざるを得ません。
ドイツは大量の難民を受けいれることで、不足している若年労働者を確保すると同時に「世界中の迫害されている難民を受け入れる人道国家」というプラスのイメージを世界に拡散しました。
ドイツといえば、ヒトラー、ナチス、ホロコーストというイメージが強かったのが、難民を寛大に受け入れる人道国家のイメージを強調することで、過去の歴史に由来するネガティブなイメージを払拭することに成功したのです。
さらにメルケル首相は最近は保護主義に傾くアメリカのトランプ大統領に対抗して自由貿易のリーダーとして振舞うようになっています。
ドイツ在住のノンフィクション作家である川口マーン恵美さんによると、過去にホロコーストという大罪を犯したにもかかわらず、ドイツ国民はみずからを道徳的な国民であると信じているそうで、
ドイツは過去に犯した罪をきちんと認めて謝罪しているのに、日本は謝罪していないと上から目線でエラソーに説教を垂れているといいます。
同じ第二次大戦の敗戦国でありながら、どうしてこれだけの差がついてしまったのか、日本人は真剣に考えるべきだと思いますね。

日本はやはり移民を受け入れる必要があるのではないか

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最近、ネットなどで欧米諸国の移民関連の記事をよく目にするようになりました。
移民の増加による犯罪率の上昇や治安の悪化、イスラム過激思想に染まったイスラム系移民二世によるテロ事件の頻発、イスラム女性のブルカの着用に関する議論、等、
移民受け入れのマイナス面を強調して、日本は欧米の現状を他山の石として移民の受け入れに慎重になるべきだという意見が多いのですが、私もそれらの意見に基本的に賛成です。
しかし、だからといって、冷静に考えて、日本がこれから移民や外国人労働者を受け入れずにやっていくのはムツカシイのではないかという気がします。
ご存じのように現在、日本では少子高齢化が問題になっています。

日本では1996 年から15~64歳の生産年齢人口が減少し始め、2008年には人口も減少しています。
このまま推移すると33年後の2048年に日本の人口は1億人を割り、2060年には8,674万人まで減少し、今後50年間で人口の約3分の1が失われるといいます。
生産年齢人口(15~64歳の人口)については、2014年には7785万人だったのが、2030年に6700万人まで減少し、総人口に対する割合は63.8%(2010年)から58.1%(2030年)に下がるそうです。
一方で高齢者人口は、「団塊の世代」が75歳以上となる2025年には3,657万人に達し、2060年には国民の約2.5人に1人が65歳以上、4人に1人が70歳以上の超高齢化社会が出現するといいます(高齢社会白書 2014)。
このような高齢化社会の到来を少しでも遅らせるために政府は出生率を上げることを目指した様々な施策を講じているようですが、妊娠可能な女性の人口が減少している状況で、その効果は限定的なものにならざるを得ないでしょう。
2020年には日本女性の2人に一人は50歳を超えるといいますから。
生産年齢人口の減少による経済成長の鈍化、高齢者の社会保険費用の増大による若い世代の負担の増額、少子化による家族機能の低下、人口減少による地域社会の衰退、等、少子高齢化社会の弊害はいうまでもありません。
バブル崩壊後の長期にわたる経済の低迷も、日本における生産年齢人口の減少とそれによる消費の萎縮とは無関係ではないでしょう。
このまま放置しておくと、日本は緩慢な自殺の道を辿ることになるのではないという気がします。
この少子高齢化の解決策は唯一、移民の受け入れしかないのではないかと、最近、思うようになりました。
日本では、移民の受け入れについては拒絶反応が強いように思えますが、日本に流入する外国人の数は着実に増えています。
最近、技能実習生という言葉をちょくちょく耳にするようになっていますが、様々な業界で「技能実習」という名目で外国人を受け入れて、低賃金でこきつかっているそうで、
特に農業実習生として農家などで働いている外国人労働者の待遇は劣悪だそうで、逃亡する外国人も多いといいます。
これら低賃金外国人労働者の実態は、偶に漏れ伝わってくるだけで、一般の国民にはよく知られていないのですが、
国民の外国人労働者にたいする無関心をいいことに、日本で外国人労働者が搾取されているとしたら問題です。
現実に日本の産業界が外国人労働者を必要とし、彼らなしにはやって行けないのであれば、国民もそれをタブー視するのではなく、
どのような形で外国人労働者あるいは移民を受け入れるのが日本にとって最善であるか、もっと議論すべきではないでしょうか。
このままなし崩し的に外国人を受け入れていって、気がついたら国中、外国人だらけになっていたというヨーロッパみたいにならないように、
今からしっかりと外国人受け入れの計画を立てて、きちんとコントロールできるようにしておいたよいのではないかと思うのです。
今や世界4位「移民受け入れ大国」日本の末路
私は日本の少子高齢化問題を解決するためには、移民を受け入れるしかないと考えていますが、どこの国からでも受け入れるのではなく、移民の送り出し国は選ぶべきだと思っています。
具体的には反日国家として世界で一、二を争う中韓からは移民を受け入れるべきではないと考えています。
中国人については、反日であることに加えて、世界中どこの国でもチャイナタウンを作って固まって住み、移住先の国に同化しようとしません。
さらに中国共産党は日本を属国にするという野望をもっているそうで、日本在住の中国人はその先兵として働く可能性があります。
韓国人も反日であることに加えて、北朝鮮の工作員が紛れ込んでくる可能性があるし、女はすぐに売春を始めるだろうし、彼らをこれ以上、日本に受け入れてもロクなことにはならないでしょう。
すでにして中国人と韓国人は、在日外国人の一位と二位を占めているわけで、在日外国人の国別のバランスを考える上でもこれ以上、彼らを受け入れるべきではないと思います。
それではどこの国の人間を移民として受け入れたらよいか、私はフィリピン人を受けいれたらよいのではないかと考えています。
フィリピン人は、出稼ぎ労働者として世界中で働いていますが、フィリピン人の出稼ぎ労働者が多いのは、フィリピン国内に仕事がないせいもありますが、
フィリピン人の社交的で陽気な性格が受け入れ国の人間に好かれているという面もあるのではないかという気がします。
二年近く前にエチオピアを旅行したとき、往路・復路ともにアラブ首長国連邦のドバイで飛行機を乗り継いだのですが、

ドバイでは出稼ぎで来ているらしいフィリピン人を多数、見かけました。
往路ではドバイに着いて空港に乗り入れているメトロを使って市内に出ようとしたとき、
チケットを改札口のパネルに当てる要領がわからずモタモタしていたら陽気なフィリピーナが二人現れて、親切にやり方を教えてくれました。
復路ではドバイの空港のスタバで、カプチーノとビーフサンドウィッチを頼んで、余っていたUAEの金を全部ポケットから取り出して、
カウンターにいたフィリピン人の男性従業員に「これで足りなかったら、残りはドルで払うから」といったら、
彼は私が出した紙幣とコインを面倒がらずに勘定して、「ちょうどぴったり合ってるよ!これ以上、払う必要ないよ」と嬉しそうに笑い、
その笑顔をみて、私も嬉しくなってしまいました。
日本では現在、介護士、看護師、保育士などの職種が不足しているそうですが、AIやロボットが取って替わることができないこれらの仕事は、親切で優しいフィリピン人に適していると思います。
もちろんフィリピン人といっても天使ばかりではないし、中には悪事を働く人間も出てくるでしょうが、
ある程度の犯罪の増加や治安の悪化は、移民受け入れの代償として引き受けるしかないと思います。
外国人労働者の労働環境が劣悪でないか監視して、彼らが犯罪に走るのを未然に防ぐことも必要になってくると思いますが、
いずれにせよ、現在の日本社会に漂う閉塞感は、少子高齢化が大きな要因になっていることに間違いありません。
ジジババばかり増えて、若者が少なくなる社会に活気が生まれる筈はないのです。

昨日の旅(1)

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フランス郵船「ラオス号」


● 神戸港
今からちょうど50年前の1967年10月6日に私は神戸港にいた。
当時、就航していたフランスと極東を結ぶフランス郵船の客船ラオス号に乗るためだった。
その時、私は19歳だった。
フランス郵船の極東航路は1865年に就航を開始した歴史のある航路で、戦前は多くの日本人がこの郵船に乗ってフランスに渡ったという。
1969年に運航を停止したので、私はかろうじて間に合ったことになる。
極東航路には旧フランス領インドシナ三ヵ国の名前をとった「ベトナム号」と「カンボジア号」と「ラオス号」の三隻が就航していて、私が乗ったのはラオス号だった。

1964年に海外旅行が自由化されてから三年しか経っておらず、日本人の海外旅行者はまだ少なかった。
今のような格安航空券存在せず、日本からヨーロッパへ安く行こうと思うと、横浜からナホトカまで船、ナホトカからハバロフスクまで列車、
ハバロフスクからモスクワまで飛行機、モスクワからさらに列車でヨーロッパ各地へ乗り継いで行くか、
フランス郵船の定期便で横浜からマルセイユまで50日かけて行くかどちらかしかなかった。
本来、マルセイユまでは40日で行ける筈だったが、当時、スエズ運河が封鎖されていて喜望峰経由ルートをとっていたので、それだけ余計な日数がかかったのである。
いずれにせよ、モスクワ経由を使っても、フランス郵船を使ってもヨーロッパまで15万円ほどかかった。
高卒の初任給が1万8000円くらいだった時代で、その15万円を用意できなかった私は、マルセイユまでの航路の全ルートを船で行くのではなく、
バンコクで下船して、そこからカルカッタまで飛行機で飛び、カルカッタからイスタンブールまで陸路、鉄道とバスを乗り継ぎ、
イスタンブールから最終目的地のスウェーデンのストックホルムまでヒッチハイクで行くつもりだった。
神戸からバンコクまでの船賃は三等で3万5000円、バンコクからカルカッタまでは陸路で移動できないので、一番安いビルマ航空の学割で2万円、
カルカッタからイスタンブールまでの鉄道とバスを乗り継いで運賃は約1万円、イスタンブールからヒッチハイクをすれば合計6万5000円でスウェーデンまで行ける筈だった。
途中、クウェートに立ち寄って200cc売血すれば1万円になるから、実質の交通費は5万5000円で済む、と私にこの方法を教えてくれた京大生のKさんはいった。
これが当時、日本からヨーロッパに一番安く行く方法で、金のない私がヨーロッパに行こうと思ったら、この方法しかなかった。
岸壁に停泊していたラオス号は1万2000トンくらいの中型の客船で、船体は白く塗られていたが、近くで見るとかなりくたびれた感じだった。
港には、両親と母の弟である叔父さんが見送りに来た。叔父さんはわざわざ広島から見送りにきてくれていた。
当初、ラオス号は午後2時に出航する予定だったが、午後5時に延びたので、せっかちな母は「それじゃあ、帰るわ」といって、出航を待たずに父と叔父さんを促してさっさと帰ってしまった。
ほかの乗客を見送りにきていた家族は、帰らずに出航まで待っていた人が多かった。
ひとりいかにもお袋さんといった感じの初老の着物姿の女性が息子らしい若い男性を前にしてしきりと涙をぬぐっていた。
永の別れが辛くて泣いているのかと思ったら、その息子は大学生で2週間、東南アジアに旅行に行くだけだと聞いて驚いた。
たった二週間の旅行で泣いて別れを惜しむなんていかにも大げさだと思ったが、当時、海外旅行は庶民にとってまだめずらしく、そのお袋さんのような人もいたのである。
その点、私の両親はあっさりしたものだった。
10年は日本に帰らないと宣言していたにもかかわらず(実際は2年半で帰国した)、涙などまったく見せずに、笑ってさよならをいって帰って行った。
もっとも、私が海外に行くと言い出したとき、両親は猛反対した。
息子が突然、大学には行かない、外国に行くなどと言い出したのだから、反対するのは当然である。
父親は、自分が下積みの人生を送ることになったのは、学歴がないからだと信じていたので、小学校、中学校と成績が良かった長男の私には大学を卒業して欲しいいと願っていた。
私も当然、大学に行くつもりだったので、高校は迷うことなく進学校を選んだ。
しかし、高校に入学した途端、なぜか私は突然、勉強に興味を失った。
なぜ突然、勉強に興味を失ったのか、理由はわからない。
高校時代の三年間はずっと頭の中に霧がかかったような状態だった。
もしかしたら、それは性欲と関係があったのかもしれない。
続く


本日のつぶやき
これからしばらく50年前の旅行記を連載します。50年前の世界にタイムスリップしてください(笑)
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昨日の旅(2)

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● 大学受験失敗
高校に入って突然、勉強する気がなくなったわたしは学校をサボって映画ばかり観ていた。
そのため、成績は下がった。
それでも一応、大学は受験した。
しかし、当然というべきか、結果は不合格だった。
入試に失敗したあと親にいわれるまま予備校に入ったが、浪人してまで大学を受験したいと思う気持ちはなくなっていた。
高校の三年間が死ぬほど退屈だったのに、また大学に入って同じような退屈な学生生活を4年間もおくる気にはなれなかった。


両親は、わたしが良い大学を出て、一流企業に就職することを望んでいたが、わたしはそんな人生に魅力を感じていなかったし、そもそもそんな自分を想像することもできなかった。


父は二言目には、自分は学歴がないばかりに人生で苦労した、お前にはそんな目に遭わせたくない、と私にいっていたが、わたしは心のなかで、
「田中角栄を見てみい! 松下幸之助を見てみい! 小学校しか出てへんけど、成功しとるやないか!」
と毒づいていた。
父が人生で成功できなかったのは、学歴がなかったからではない。単に成功するだけの才覚に欠けていたからだ、とわたしは思っていた。
父は、息子のわたしを不遇だった自分の人生に復讐するための道具として見ているのではないか、という気がしていた。
かといって、自分が将来、何になりたいか、何をしたいか、展望があったわけではない。
とりあえず、大学に行けと煩くいう親元から離れたかった。
それでわたしは、入ったばかりの予備校を辞めて、家出同然の形で東京に飛び出してしまった。
親のいうことをよく聞くおとなしい子供だったのに、反抗期が遅れてやってきたみたいだった。
東京では、知り合いの紹介で、ある中央官庁でアルバイトとして働くことになった。
わたしが働いていた部署は、出世コースから離れたノンキャリアの職員の吹き溜まりのようなところで、みんなちんたら仕事をしていた。
会話といえば「今年の民間のボーナスは良かったそうだねぇ」などとしょぼくれた話題ばかりだった。
職場には、わたしと同い年で夜間大学に通っている若い男性職員がいた。
そういう職員には理解のある職場で、彼は夜間大学の授業を受けるために早退することが許されていた。
同じ職場で仲良くなったハイミスの職員は、わたしも彼のように公務員試験を受けて役所の正規職員になって夜間大学に行ったらどうかと勧めてくれた。
両親も昼間の大学に行く気がないのであれば、次善の策としてそうして欲しいといってきた。
しかし高卒で受験できるのは初級公務員試験だけで、首尾よく合格したとしてもノンキャリアの公務員として一生、下積みで生きていくことになる。
不景気な話ばかりしている職場の中高年のノンキャリア組の職員をみて、こんな風にはなりたくないと思った。
大学に入って勉強する気はなくなった。かといって正式に就職する気にもなれない。
そんな中途半端な状態でいるときに突然、解決策?が頭に浮かんだ。

そうだ、外国に行こう!

元々、子供の頃から外国にたいする憧れが強く、大きくなったら外国に行きたいと思っていた。
漠然と大学を卒業したら留学でもしようかと考えていたが、いったん、海外に行くという考えが頭に浮かぶとすぐにでも日本を飛び出したいと思うようになった。
今、思うと完全な現実逃避だったが、わたしはその現実逃避のアイデアに夢中になった。
当時、若者の間で人気があった週刊誌「平凡パンチ」にモスクワ経由でヨーロッパにいく青年の話を描いた五木寛之の小説「青年は荒野をめざす」が連載されていた。
その影響もあってか、モスクワ経由で北欧まで行って、北欧でレストランの皿洗いなどして金を貯めて旅行を続けることが金のない日本人の若者の間で流行っていた。
北欧で働くと日本の4倍から5倍の収入が得られるので、北欧の物価の高さを考慮しても、日本で働くより北欧で働く方が効率的だったのだ。
わたしも同じように北欧にいって働こうと思った。
それでも北欧までの片道の旅費は日本で稼ぐ必要がある。
東京でバイトをしていても生活していくのにぎりぎりで、貯金などできない。
それでわたしは、家賃と食費を払う必要のない京都の実家に戻り、京都でアルバイトして片道の旅費を稼ぐことに決めた。
続く


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昨日の旅(3)

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● Kさんとの出会い
東京で一年ほど過ごしたあと、わたしは外国行きの資金を貯めるために京都の実家に戻り、レストランでボーイのアルバイトを始めた。
海外に行くことを決心したものの、当時は旅行ガイドブックの類は少なく、あっても普通の旅行者向けのもので、ビンボー旅行に関する情報は少なかった。
そんなとき、三条河原町の駸々堂書店で偶然、『48ヶ国の青春』という小さな本を見つけた。
著者は、大学を2年休学して、モスクワ経由でスウェーデンに行ってストックホルムで働いて金を貯め、ヨーロッパやアフリカを旅行して、南回りで日本に帰ってきた京大の学生だった。
彼は2年間で48ヶ国を回り、その旅行記を京都の小さな出版社から出版したのだが、この本に前述した6万5000円で日本からヨーロッパに行く方法が紹介されていたのだ。

偶々、バイト仲間の女子大生にこの本のことを話したら、「あたし、この人、知ってるわよ」という。


彼女もこの本を読んで、友達と一緒に京大の学生寮に住む著者のKさんに会いにいったというのだ。
わたしはすぐにKさんを紹介してくれるように彼女に頼み、彼女が連絡をとってくれてKさんと会えることになった。
9月初めの暑い夜、京大の学生寮を訪ねると、ランニングシャツとトランクスという格好の小太りのKさんが迎えてくれた。
彼は海外旅行のため2年留年していて、そのとき24歳だったが、19歳のわたしから見ると随分とオトナに見え、頭も良さそうな人だった。
彼はわたしが一番、訊きたかったこと、本当に6万5000円でヨーロッパまで行けるのかという質問に「大丈夫、行ける」と答えてくれた。
東京から京都に戻って半年、旅行資金はまだ10万ちょっとしか貯まっていなかったが、交通費が6万5000円で収まるのであれば、なんとかストックホルムまで行けるのではないか。
Kさんは、10月6日に神戸港からフランス郵船のラオス号が出航するから、それに乗ったらどうかと勧めてくれた。
わたしは有頂天になった。
憧れの海外旅行がやっと具体的な形になって見えてきたのだ。
家に戻って興奮した口調で10月6日に神戸から出発すると両親に告げると驚いた顔になった。
両親は、わたしの海外行きにずっと反対していたが、わたしの決心が固いのを見てとうとう折れて10万円出してくれることになった。 これでわたしの旅行資金は20万円になった。
当時は、海外旅行するのに500ドルの外貨の持ち出し制限があった。
1ドル=360円の当時のレートで500ドルは18万円。多くの旅行者はそれではとても足りないと日本円を海外に持っていって 1ドル=400円ほどの闇レートでドルに両替していたそうだが、
わたしの場合は、やっと限度額に達する金しかなかったので、20万円の内、18万円で500ドルのトラベラーズチェックを購入し、残りの2万円を日本円の現金でもっていくことにした。
出発日が決まってまず最初にすべきことはパスポートの取得だった。
当時は一回しか使用できない一次旅券しかなかったが、旅券を申請するためには旅行計画書なるものを提出しなければならなかった。
旅行計画書は普通、旅行代理店に頼んで作ってもらうことになっていたのだが、Kさんは、知り合いの女性が三条河原町のJTBの支店で働いているからそこに行けば作ってくれるだろうといった。
それでJTBの支店に行って、カウンターの女性に「6万5000円でヨーロッパに行きたいんですけど」といったら、「ご冗談でしょ。ホホホ」と笑って取り合ってくれなかった。
そのことをKさんにいうと、知り合いの女性に連絡しておくから、もう一度行くようにといわれた。
それでまたJTBの支店に行ったら、今度は別の女性が現れ、「Kさんからお話は伺っております。私が担当させていただきます」といってくれたのでほっとした。
彼女が作ってくれた旅行計画書によると、私は日本からバンコクまで船で行き、その後、インド、パキスタン、アフガニスタン、イラン、トルコを経て、ヨーロッパを旅行したあと日本に帰ることになっていた。
当時は旅券を申請するときに自分が旅行する予定の国を申告する必要があり、発行された旅券にはその国名が記載され、それ以外の国には行けなかった。
現在のようにパスポートさえあれば、どこの国でも行けるというのではなかったのである。
私の場合、南回りでアジア諸国を経由してヨーロッパまで行って、ヨーロッパ各地を旅行する計画だったので、旅券には21ヶ国の国名が記載されることになった。
計画書では、日本からバンコクまでは船で行き、あとはすべて航空機で移動することになっていて、旅費の総額は80万円を超えていたが、担当の女性は、
「これは形式的なものなので、お気になさらずともけっこうです」といった。
彼女が作ってくれた旅行計画書をもって府庁にパスポートの申請に行ったが、
未成年のわたしは保護者の同伴が必要で、母親が付き添ってくれた。
そうしてようやくパスポートを取得したのだった。

続く
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昨日の旅(4)

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● カルロッテとの出会い
パスポートを取得したあと、タイのビザを取ったり、黄熱病の予防接種をしたりと旅行の準備にあわただしく動き回っていた頃、Kさんから連絡があって、
わたしと同じ10月6日出航のラオス号に乗ってバンコクまで行き、その後、陸路でヨーロッパまで行く計画のスウェーデン人の女の子がいるから、彼女と一緒に旅行したらどうかといってきた。
そのスウェーデン人の女の子は英語を話せるから英会話が得意でない君の役に立つだろうし、彼女の方も女一人で旅するよりも、君と一緒の方が心強いだろう。
彼女は、君がスウェーデンで仕事探しをするのも手伝ってくれる筈だ、という。
それで彼女と会うことを承諾し、河原町丸太町の交差点で待ち合わせて会った。


最初、スウェーデン人の女の子と聞いたとき、ブロンドの髪をショートカットにしたほっそりした背の高い女の子の姿が目に浮かんだが、
実際に会ってみると、髪はブロンドではなく茶色で、背はスウェーデン人にしてはそれほど高くなく、ずんぐりむっくりした体型のお世辞にも美人とはいえない女の子だった。
彼女はわたしのガールフレンドになるわけではなく、ただの旅の道ずれになるにすぎない。美人であろうがなかろうが関係ないのだが、それでもちょっとガッカリしたのは事実である。
彼女はわたしと同い年の19歳で、名前はカルロッテといった。
KさんとはKさんがスウェーデンのストックホルムにいたときに知り合って仲良くなり、Kさんが日本に帰国するとそのあとを追って来日し、日本に2年滞在してお茶やお華などの日本文化を学んだという。
Kさんは、その著書で、ストックホルムにいたとき、スウェーデン人の女の子に随分とモテたみたいなことを書いていたが、この程度の女の子が相手だったんなら大したことはないなと思った。
とりあえず、わたしはカルロッテを誘って近くの喫茶店に入った。
彼女はがっしりした体格に似合わず、蚊の鳴くような小さな声で話す女の子だった。日本に2年も住んでいたわりには日本語は片言しか話せなかった。
それで主に英語で話したのだが、自分の英語がなんとか通じることを確認できて嬉しかった。
京都に戻ってから半年間、NHKの英会話講座を視て英会話を勉強していたのだ。
結局、カルロッテとは日本からネパールのカトマンズまで一緒に旅行した。
カトマンズで別れたのは、彼女がクリスマスまでに帰国することを望んでいたからだ。
わたしの方は、もう少しゆっくり旅行したいと思っていて、それで彼女は、バンコクで知り合ったドイツ人の新婚カップルと一緒に行先に行くことに決めたのだ。
それでも彼女はあとからわたしがストックホルムに着いたら仕事探しに協力すると約束してくれた。
しかし結局、わたしはストックホルムで仕事を見つけることができなかった。
ストックホルムに着いて彼女に電話して、彼女が両親と弟と一緒に住む家を訪ねていったが、彼女の両親はわたしの訪問をあきらかに迷惑がっている様子だった。
両親はおそらく自分の娘がKさんの後を追って日本に行ったことを心よく思っていなかったのだろう。
彼らにしてみたら、娘がやっと日本から戻ってきて、これで日本と縁が切れたと喜んでいたら、また変な日本人の若い男がやってきたので警戒したのだと思う。
肝心の仕事については、カルロッテは、今、スウェーデンは不景気なので、仕事は探しても見つからないだろうといった。
それでストックホルムで仕事探しをすることを諦めて、ラオス号で一緒だった日本人の何人かが働いていたコペンハーゲンに戻って仕事を探すことに決めた。
いずれにせよ、冬のストックホルムは寒すぎて、長居する気にはなれなかった。
ストックホルムではユースホステルに泊まっていたのだが、規則で昼間は外に出なければならない。
しかし屋外は昼間でもマイナス15度くらいの冷え込みで、じっと立っていると足が寒さで痺れてきて立っていられなくて、足踏みしなければならないほどだった。
暖を取るために喫茶店に入ったが、長時間ねばっていると店の従業員に嫌味をいわれた。
スウェーデン人は、男も女も金髪碧眼で背が高く、身なりも小奇麗にしていて、都会的で洗練された印象を受けたが、私のような貧しい外国人には冷たくよそよししかった。
ストックホルムを早めに切り上げてコペンハーゲンに向かう気になったのは、そんなストックホルムの雰囲気が居心地悪かったせいもある。
結局、仕事はコペンハーゲンで見つけることができたので、コペンに戻って良かったと思っている。
カルロッテとは、その後も文通を続けていて、彼女が1975年に再来日したときには東京で再会している。
というわけで、神戸を出航するときは、カルロッテも一緒だったのである。
カルロッテの見送りにはKさんも来ていて、わたしにもちょっと声をかけて帰っていった。
続く



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昨日の旅(5)

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●出航
いよいよ、出航のときになってわたしたち乗客はラオス号に乗り込んだ。
タラップを上った船の入口には、若い男と中年男の二人のフランス人船員がいて、中年男は、フランスのギャング映画によく出てくるリノ・ヴァンチュラそっくりだった。
リノ・ヴァンチュラは、わたしにカードのようなものを手渡し、なにやら早口のフランス語でまくしたてたが、なにをいっているのかさっぱり分からない。
渡されたカードは乗船カードで、そこに名前や年齢、国籍などを書き込むようになっていたのだが、すべてフランス語で書かれていた。
船に乗り込んだら、もうそこはフランスで、船員はすべてフランス人、フランス語は話せなかったものの、フランスに憧れていたわたしは嬉しくなった。

割り当てられた3等の客室は、機械室に隣接する船底の二段ベッドが4つ並ぶ8人部屋で、
隣の機関室からは、エンジンの騒音や振動が伝わってきて、部屋にはエンジン油の臭いが漂っていたが、若かったせいか特に気にはならなかった。
小説家の遠藤周作は若き日にフランスに留学する際にフランス郵船の4等客室に乗って行ったそうだが、わたしがラオス号に乗ったときは4等は廃止されていて3等しかなかった。
フランス郵船を紹介するウェブサイト(http://www.messageries-maritimes.org)によると、1962年に船を改造したときに3等と4等の客室を統合して、新しく3等の客室を作ったらしい。
船にはほかに1等と2等の客室があった。
1等の乗客の居住スペースと2&3等のそれははっきりと分かれていて、われわれ3等の乗客は1等乗客の居住スペースに立ち入ることは許されていなかった。
2等の客室は、2等の乗客に見せてもらったが、ベッドが二つ並ぶ寝台列車のコンパートメントのようなところだった。
1等の客室は見なかったが、たぶん個室だったと思う。
2&3等のデッキには、プールというよりは水槽という方が似つかわしい小さなプールがあって、みんなそこで泳いでいた。
1等のプールはもっと立派ではないかと想像していたが、下の写真を見る限り、1等のプールも2&3等のそれとたいして変わりなかったようだ。
ダイニングルームも1等の乗客用と2&3等の乗客用に分かれていた。
わたしたち3等の乗客は、2&3等の乗客用ダイニングルームで食事をしたが、料理は一応、スープから前菜、メインディッシュ、デザートまでフルコースが出て、フランス人のボーイがサービスしてくれた。
料理自体はたいして旨くなかったものの、量はたっぷりあったので特に不満は感じず、乗客仲間とテーブルを囲んでわいわい言いながら食事をするのは楽しかった。
前出のウェブサイトによると、ラオス号は、全長163.6メートル、幅22メートル、総トン数13500トンの客船で、姉妹船である「ベトナム号」と「カンボジア号」と共に1951年に建造されている。
前述したようにフランス郵船の極東航路は1969年に廃止され、ラオス号はその役目を終えたのだが、その後、マレーシアの船会社に売却されて、別の船名で運行していたという。
しかし1976年に起きた火災で大きく損傷し、1977年に廃船になったそうだ。


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昨日の旅(6)

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☆ 横浜
船は神戸港を出てそのまま香港に向かうと思っていたのだが、そうではなく横浜に向かい、翌日7日の昼過ぎに横浜港に着いた。
船は横浜港に2泊、停泊すると聞いたので、到着した翌日の日曜日、横浜に住む中学時代の級友、M君の家にカルロッテを誘って遊びに行った。
M君のお父さんは銀行員で、M君が中学に入るときに東京から転勤になって一家で京都に引っ越してきた。
わたしはM君が話す東京弁がカッコよく思えて、彼と仲良くなったのだが、彼が中学を卒業すると同時にお父さんはまた横浜に転勤になり、彼は東京の高校に入学することになったのだ。


彼はわたしと違って真面目だったので、ちゃんと大学に入学していて、そのときはもう2回生になっていたと思う。


彼の家は横浜の郊外の希望ヶ丘というところにあった。
現在では高級住宅地になっているそうだが、その頃はまだかなり不便な新興住宅地で駅から遠く、M君の妹さんが車で迎えにきてくれた。
M君の家庭は東京辺りの典型的な中流家庭といった感じで、M君のほかに大学生の妹さんと高校生の弟さんがいて、お母さんがご馳走を作ってわたしとカルロッテを歓待してくれた。
途中でM君の家の遊びにきたフェリス女学院に通っているというM君の従姉妹も加わったのだが、彼女とは翌日、再会することになる。

船は、翌日の月曜日の夕方6時に横浜港を出港したのだが、彼女がわざわざ横浜港まで見送りにきてくれたのだ。
今もまだやっているかどうか知らないが、当時は客船で港を出港するときに、船上の乗客が岸壁の見送りの人々に五色のテープを投げて、
乗客と見送りの人間がテープの両端を手にもってテープがちぎれるまで別れを惜しむという習慣があった。
神戸港では、このテープ投げは行われなかったのだが、横浜港では行われた。
わたしもカルロッテも誰か見送りにくるとは予想していなかったので、テープ投げをすることはないと思っていたのだが、
岸壁からわたしの名前を呼ぶ声が聞こえ、そちらの方向を見るとM君の従姉妹がいたのだ。
予期せぬ見送り人の出現に喜んでほかの乗客がやっているように、彼女に向かってテープを投げ、テープを振りながら「元気でね」「ありがとう」と大声で呼び合って別れたのだが、
あとで船室に戻ると、彼女からのはげましの言葉を書いたカードと菊の花が届いていた。
二年半後に帰国して横浜のM君を訪ねていったとき、彼女の消息を尋ねたら、もう結婚していて子供までいるといわれて驚いたことを覚えている。
続く

昨日の旅(7)

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☆ 船の仲間たち
ラオス号の三等には、わたしと同じような若い乗客が沢山、乗っていた。
日本で海外旅行が解禁になったのは、その三年前、東京オリンピックが開かれた1964年のことだった。
それまでは外交官とか商社員、国費留学生のような選ばれた人間しか海外に行けなかったのが、海外に行きたい人間は誰でも行けるようになったのだ。
その結果、それまで溜まっていた海外に行きたいのに行けないという、若者たちのフラストレーションが一挙に開放され、多くの若者が海外に飛び出したのだ。
データをみると、1964年の海外渡航者数は前年比27.7パーセント増の12万7749人、1965年は前年比24.3パーセント増の15万8827人、
1966年は前年比33.7パーセント増の21万2409人、1967年は前年比26.0パーセント増の26万7538人と急激に増えていることがわかる。
もっとも直近の2016年の1711万人に較べるとまだまだ少ないが。

船で一緒になった若い仲間は、海外に行く理由を様々に語った。北海道から来た青年は、デンマークに酪農の勉強に行くといっていた。
船で開かれたダンスパーティーで着物姿を披露して、モールの付いた正装のフランス人船員にモテまくっていた若い女性はウィーンに音楽の勉強をしに行くといっていた。
わたしと同じ、京都からやってきた建築家の青年はヨーロッパの建築を見て回って建築の勉強をするといっていた。
しかし、彼らを待っていた現実は違っていた。
デンマークに酪農を学びに行くといっていた北海道出身の青年とコペンハーゲンで再会したとき、彼は酪農とは関係ない、ビール工場で働いていた。
ウィーンに音楽の勉強に行くといっていた女の子は、ウィーンで住み込みのメイドをしていると風の便りに聞いた。
建築家の青年はなぜかパリの日本料理店でコックをしていた。
三等の若い日本人乗客は、わたしのようにバンコクで下船するグループと、建築家の青年のようにマルセイユまでずっと船で行くグループに分かれていたのだが、
わたしを含めたバンコク下船組は、バンコクからカルカッタに飛行機で飛んで、その後、陸路、ヨーロッパを目指し、北欧で仕事を見つけて働いて、金が溜まったら、次の目的地に向けて旅立っていった。
一方、マルセイユ下船組は、一年後にわたしがパリに行ったとき、その建築家の青年も含めて、全員、パリの同じホテルに住んでいて、全員、日本料理店で働いていた。
朝から晩まで日本人と顔を合わせているせいか、彼らのフランス語は上達していなかった。
なんのために外国に行ったのかといいたくなったが、酪農の勉強をしたいとか、音楽の勉強をしたいとか、建築の勉強をしたいとかいうのは単なる口実でしかなく、
本当の目的は、純粋に外国に行くことにあったのではないかと思う。
わたし自身、北欧で稼いだあとはパリに行ってシネマテークで映画の勉強をしたいと思っていたが、それで将来、映画の道に進めるなどとはもちろん思っていなかった。
当時、映画産業はテレビとの競争に負けて斜陽の一途を辿っていたし、運よく映画関係の仕事に就けたとしても、それで食っていけるだけの保証はなかった。
結局、わたしもまた単純に外国に行きたい、日本を脱出したいという想いに駆られて日本を飛び出した口だった。
現実逃避で日本を飛び出しても、待っている現実はそんなに甘くはない。
金もコネもない庶民の若者が外国に行っても大したことができる筈ないのだが、それでも往きの船ではみんな元気いっぱいだった。
やっと念願の外国行きがかなって気分は高揚していたし、船で仲間たちと将来の夢を語り合うのは楽しかった。
もし若者の特権が将来の夢を語ることにあるのであれば、われわれはその特権を十分に享受していたのだ。
船には変わった乗客もいた。わたしと同じ船底の船室にいた三十代半ばの日本人は、ほかの乗客とは口をきこうとせず、食事以外は二段ベッドに引きこもって毛布にくるまって寝ていた。
一緒の船室にいた日本に留学していたという日本語ぺらぺらの世話好きなセイロン人の男性が彼のことを心配して、
「どうしてデッキに出ないのですか。外の空気を吸わないと身体によくないですよ」
と外に出ることを勧めたが、彼は頑としてベッドを出ようとはしなかった。
彼はバンコクで下船していったが、最後まで、彼がなにをしにタイに行ったのか、誰にもわからなかった。
あと国際結婚組の日本女性も何人かいた。一人は中国人と結婚して香港に住んでいる女性で、もうひとりはセイロン人と結婚していた女性だった。
彼女たちは日本に里帰りしたあとの帰国の途中で、それぞれ香港とコロンボで下船することになっていた。
続く

昨日の旅(8)

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☆ 船の生活
船は横浜を出て再び西に向かい、玄界灘を通過した。
玄界灘は波が高く、海は荒れ、多くの乗客が船酔いに罹った。
わたしも船酔いになって、一日、何も食べられず、ベッドで寝ていたが、カルロッテは船酔いにならない体質なのか、まったく平気でケロッとしていた。
玄界灘を過ぎた頃に船でダンスパーティーがあった。
そのダンスパーティーにウィーンに音楽の勉強をしに行くといっていた日本人の若い女性が着物姿で現れて、肩にモールを付けた正装のフランス人の船員にモテていた話はしたが、
もうひとりやたらとダンスの巧い20代半ばの日本人女性がいた。


彼女は、欧米人の男性から次から次へとダンスを申し込まれ、彼ら相手にダンスフロアの真ん中で、派手にくるくる回って踊っていたので、ひどく目立った。
ダンスパーティーのあとは、一緒に踊っていた男性の一人とどこかに消えたそうで、同じ船室の女性は、「あの人、昨夜は帰って来なかったのよ」といっていた。


この女性は、船に乗っている間、いろんな欧米人の男性ととっかえひっかえ付き合っていて、船室に戻って来ない夜が多かったので、日本人乗客の間で噂になっていた。
それにしても、彼女は夜をどこで過ごしていたのだろう。
二等も三等も船室は個室ではないので、相手の男性と一緒に過ごすのはむつかしかった筈である。
ダンスパーティーで仲良くなった欧米人のカップルは、大部屋の船室を避けて甲板に出て一緒に毛布にくるまって朝まで過ごしていたが、彼女が甲板で寝ていたという話は聞かなかった。
彼女の相手にはフランス人の船員もいたので、もしかしたらなんらかの便宜を図ってもらっていたのかもしれない。
このダンス好きの女性は、わたしと同じバンコク下船組で、バンコクではYWCAに滞在していたが、バンコクに到着するや否や、現地で無聊をかこっていた単身赴任の日本人駐在員たちと仲良くなり、毎晩、彼らと遊び歩いていた。
彼女もまた何しにバンコクに来たのかよく分からない乗客の一人だった。

船には日本人だけでなく欧米人の乗客も多く乗っていた。
海外に行ったら外国人と積極的に交際して国際交流に励むべきであると考えていたわたしは、彼らに積極的に話しかけていたのだが、
あるときラウンジのソファに一人で座っていた若い眼鏡をかけたアメリカ人女性に、
「失礼ですが、少しお話しできませんか?」
と話しかけたら、
「申し訳ないけど、わたしはあなたとしゃべる気はないわ」
とぴしゃっと断られてしまった。
その後、彼女を観察していると白人の乗客としか付き合わず、非白人の乗客とは一切、話しをしないことがわかった。
セイロン人と国際結婚していてコロンボに戻る途中だった日本女性は、「彼女はとてもプラウドよ」といっていたが、生まれてはじめて人種差別みたいなものを感じた瞬間だった。
もっとも、彼女のような白人は例外で、ほかの白人の乗客はみんな話しかけると、ちゃんと相手をしてくれた。
南アフリカの白人女性の二人組もいたが、わたしが下手くそな英語でアパルトヘイトに関する議論を吹っ掛けると、困ったような顔をしながらも相手になってくれた。
彼女たちは、「白人と黒人は別々に暮らすほうがいいのよ」といっていたが、「世界中、どこに行っても南アフリカ出身だと分かるとアパルトヘイトのことを訊かれるのでウンザリするわ」とこぼしていた。
船にはカルロッテ以外にもう一人、30歳くらいのスウェーデン女性が乗っていた。
彼女もカルロッテと同様、何年間か日本に住んでいたそうだが、カルロッテと違って日本語も巧く、日本文化にたいする造詣も深いようで、
船に乗っていた日本人の大学生に「あなたはわびとさびの違いを説明できますか」などと日本語で訊いていた。
訊かれた大学生は、神戸を出港するときにお袋さんが別れを惜しんでさめざめと泣いていたあの大学生で、彼が質問に答えられないでいると、
「あなたはわびとさびの違いも説明できないのに外国に行くのですか」とキツイことをいっていた。
わたしもわびとさびの違いを言葉で説明することはできなかったが、わびとかさびというものは感じるものであって、言葉で定義するようなものではないという気がした。
もし外国人にわびやさびについて訊かれたら、下手に説明するよりも黙って桂離宮にでも連れて行った方がよいのではないか。
そういえば、わたしは日本を出発する前にカルロッテと一緒に桂離宮に行ったのだった。
桂離宮を訪問するには、日本人の場合は、事前に予約が必要だが、外国人は優先的に入れるとのことで、
「カルロッテが桂離宮に行きたがっているから、君、一緒に行ってやってくれないか」とKさんにいわれて、彼女を連れて行ったのだ。
もっとも、わたしはわびやさびを感じるにはまだ幼すぎたのか、そのときカルロッテと一緒に見学した筈の桂離宮については殆ど記憶にない。


昨日の旅(9)

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☆ 香港
神戸港を出港して一週間で香港に着いた。
当時、香港にたいして日本人が抱くイメージはあまりよくなくて、香港は麻薬取引の本場で、日本に密輸される麻薬はすべて香港から運ばれるとか、
日本のヤクザが借金の方に女性を香港に売り飛ばしているとか、香港製のギャング映画に出てくるような話がわりと真面目に信じられていた。
実際に自分の目で見た香港は、現在のような高層ビルが立ち並ぶ近代的な都市ではなく、イギリス植民地特有のコロニアルな雰囲気が漂うところで、ギャング映画に描かれるような香港特有のいかがわしさもまだ残っていた。
たとえば、街角で白人との混血であることが一目でわかる少女の乞食をみかけたが、彼女は片足がなく義足で、
悪い大人たちが貧しい子供を買って、同情を買うためにわざと子供を不具にして乞食として働かせるという話を思い出した。

香港では、わたしと同じ三等船室にいたリュウ君という中国人の若者が下船したが、荷物が多かったので降ろすのを手伝ってあげた。
港には、彼のお兄さんが迎えにきていて、お兄さんはわたしを見ると「今日は予定がありますか」と訊いてきた。
船は香港に一泊する予定で、その日は香港見物をするつもりでいたが、そういうと、お兄さんは「それなら私が香港の案内をします」といい、そのままリュウ君と一緒にお兄さんの住む九龍のアパートに連れていかれた。
そこで筆談を交えていろいろと話をしたが、リュウ君は私と同い年で、横浜の中華街で中華料理店を営むお父さんを訪ねた帰りだという。
あと一か月ほどしたら、また横浜に戻って日本の大学に入る準備をするといっていたが、将来は日本と香港を股にかけて商売をするつもりらしかった。
お兄さんのアパートに行く途中、乾物屋を営んでいるリュウ君の叔父さんの店に立ち寄って、横浜のお父さんから預かってきたらしい一万円札の札束を手渡しているのをみたが、三等船室で旅行していても、華僑は金があるんだなと思った。
お兄さんのアパートで奥さんが作ってくれた手料理をご馳走になったあと、リュウ君とお兄さんと一緒に香港見物に出かけた。
タイガーバーム・ガーデンやビクトリア・ピークに行ったが、ビクトリアピークから眺める香港の夜景は話に聞いていたとおり、大変、美しかった。
フェリー代やバス代はすべてお兄さんが払ってくれたので、わたしは一円も払わずに香港を見物できたことになる。
船に戻って乗客仲間の日本人にその話をすると、「それが中国人だよ」といった。
その日本人によると、中国人は友人と認めた人間には、とても気前が良いのだそうだ。
実際、荷物を船から降ろすのを手伝っただけなのに、そこまで親切にしてくれるなんて、日本ではちょっと考えられない。
しかし、その後、何度か香港を訪問して、タクシーを停めて乗車しようとしたら、横から別の人間が割り込んできて横取りされるというような経験もして、香港人の別の面も見ることになった。
そして中国人が家族や友人を大切にすることと、赤の他人には傍若無人に振舞い、非常にマナーが悪いことはコインの両面みたいな関係があるのではないかと考えるようになった。
もちろん、だからといってリュウ君とお兄さんにたいする感謝の気持ちは今も変わりないし、二人との出会いは、香港の良い思い出になっている。
リュウ君には旅先からお礼の手紙を出したが、その後の消息は知らない。
元気にしているだろうか。
話は変わるが、香港に着く前に船で仲良くなった李君とは別の中国人に香港で買い物をするときに必要な三つのフレーズというものを教えてもらった。
多少銭(トゥシャオチェン)=幾らか?
太貴了(タイコイラ)=高すぎる
不要(プーヤオ)=いらない
物を買うとき、この三つの言葉を順に繰り返していると段々と言い値が下がってくるというのだ。
香港では李君のお兄さんのお陰で一銭も使わずに済んだので、それを実験する機会がなかったのだが、
その後、タイのパタヤに行ったとき、タイ人の好きな小さな仏像をはめ込んだペンダントを売っている店のショーケースを眺めていたら、
店の奥から華僑らしい店主が出てきて、わたしを台湾人かなにかと勘違いしたのか、中国語で熱心に説明をはじめたことがある。
ショーケースからペンダントを一つ取り出して中国語でなにやら講釈を垂れている店主をみていて、昔、教えてもらったこの言葉を思い出して、
「多少銭?」と訊いたら、店主はすぐに計算機を取り出してパッパッパと数字を打って金額を提示した。
それで「太貴了」というと、またパッパッパと電算機を打って、少し値引きした金額を見せた。
なんども「太貴了」を繰り返しているうちにだいぶ値段は下がったが、最初から冷やかしで買うつもりはなかった。

それで最後は「不要」といって店を出たが、あの店主は最後までわたしのことを台湾人だと思っていたのではないだろうか。

続く

昨日の旅(10)

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☆ マニラ


香港を出航後、船がまた揺れ出して船酔いになり、翌日、次の寄港地のマニラに着くまで食事が喉を通らず、マニラに着いた時は、身体中がしびれたような感じでふらふらした。
マニラの港には、上半身裸の入れ墨だらけの港湾労働者が沢山いて、柄が悪い雰囲気がした。
カルロッテと一緒にジープニーと呼ばれるジープを改造した小型の乗り合いバスに乗って街に出たが、街並みは汚く、目つきの悪い連中がウヨウヨいて、治安は悪そうだった。
マニラの街では、映画を観た。
タイトルは忘れたが、ヘイリー・ミルズ主演のイギリスのコメディ映画で、字幕がないのに、フィリピン人の観客が笑うべきところでちゃんと笑うのに感心した。
アメリカの植民地だったフィリピンでは、映画館にいるような一般庶民でも英語がちゃんと聞き取れるのだ。


映画館を出たあと、港に戻るためにジープニーを探したが中々、見つからない。
夜も遅くなってきたので、タクシーで帰ることにして、1台のタクシーを停めて運転手に港までいくらで行くかと訊いたら1ペソ半だという。
しかし実際に港に着いてみたらメーターの表示は70セントだったので、1ペソ渡して30セント釣りをくれというと、運転手は初めに1ペソ半と約束したのだからもう50セント寄こせという。
でもメーターは70セントじゃないかと押し問答になって、運転手は怒って金を払わないなら元の所に戻るといいだし、車をUターンさせて街の方に走り出そうとした。
それで大声で「ストップ!」と叫んで、必死でドアを開けて、タクシーから飛び降りた。
もう少しで怪我をするところだったが、わたしもカルロッテも間一髪のところで助かった。
しかし船に戻ってから、カルロッテがタクシーの中に財布を忘れてきたことに気が付いた。
財布には10ドルのトラベラーズ・チェックと少額のフィリピン通貨が入っていた。
トラベラーズ・チェックは失くしても、番号を控えていたら戻ってくるからと慰めたが、カルロッテはショックのあまり泣き出してしまった。
10ドルは大した金額には見えないかもしれないが、当時のレートで3600円、宿泊費と食費を合わせて1日1ドル=360円ほどの予算で旅行していた貧乏旅行者のわたしたちには大金だった。
そんなことがあったので、マニラの印象はあまりよくなかった。
バンコクの日本大使館にいったときに、応対してくれた大使館員にこの話をしたら、「運転手はあなたが日本人だということに気がついていましたか」と訊かれた。
太平洋戦争で激戦地になったフィリピンでは、多くの人々が巻き添えになって亡くなったので、戦後20年を過ぎた現在でも反日感情が激しく、日本人だと分かると危害を加えられることがあるという。
タクシーの運転手がわたしのことを日本人だと気づいていたかどうかはよく分からない。
ただわたしの印象では、運転手はわたしが日本人だからそういう態度に出たのではなく、ただ単に外国人のわたしたちから料金をぼったくろうとしただけではなかったかという気がする。
それに今、思うと最初に運転手の言い値どおり1ペソ半、払うことを承諾したのだから、ちゃんと1ペソ半、払うべきだったのではないかという気もする。
日本を含めて先進国ではタクシー料金はメーターどおりに払うのが常識だが、フィリピンのような国では必ずしもそうではない。
多くの発展途上国では、タクシー料金は交渉で決まり、たとえ相場よりも高い料金を吹っ掛けられたとしても、いったん、その金額を払うことを約束したのであれば、払うべきであると考えられている。
運転手は、わたしたちが外国人であるのをみて、相場の倍くらいの料金を吹っ掛けてきたのだろうが、
彼の論理では、最初にその料金を払うことを承諾して乗ったのにもかかわらず、後からメーターの料金とは違うと文句を言うのはおかしいということになる。
フィリピンのような国では、日本のようにすべてのモノやサービスに定価が存在する国とは違って、価格は交渉によって決まることを、まだ旅慣れていなかったわたしたちはよく理解できていなかったのだ。
フィリピンはこの11年後の1978年に再訪したのだが、その頃はかって反日感情が強かったというのが信じられないほど親日的な国になっていて、
どこに行っても、日本人であることが分かると歓迎されこそすれ、冷たくされることはまったくなかった。
最初の訪問では良い印象を持てなかったが、二度目の訪問では、陽気で明るく親切なフィリピン人と出会って、フィリピンという国が大好きになった。
マニラを出た船は、次の寄港地であるバンコクに向かって航海を続け、ベトナムの沖合を通過した。
当時はベトナム戦争の真っ最中で、アメリカは北爆を開始してますます戦争にのめり込み、アメリカ国内ではそれに抗議する反戦運動が盛り上がりをみせていた。
日本ではベ平連が戦争反対を叫んでいたが、大半の日本人はわたしも含めて対岸の火事視していたと思う。
ベトナム沖を通過したのは夜間で、陸地の方向には何も見えなかったが、照明弾でも打ち上げているのか、時々、夜空に閃光が走るのが見えた。
続く
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