敗戦間もない1950年代初めに『羅生門』(1950)、『雨月物語』(1953)、『地獄門』(1953)などの日本映画がカンヌやヴェネティアなどの国際映画祭で立て続けに受賞し、日本映画の質の高さを世界に印象づけたことがあります。
これらの作品はすべて社長の永田雅一が自社作品の海外映画祭への出品に力を入れていた大映の作品で、
そのすべてに大映の専属女優だった京マチ子が出演していたことから、彼女は「グランプリ女優」と呼ばれるようになります。
上記の作品の中で一番有名なのが黒澤明の『羅生門』で、黒澤はこの作品で一躍、世界に名を知られるようになるのですが、私は正直いってこの作品のどこが良いのかさっぱりわかりません。
この作品だけでなく、黒澤作品すべてがそんなに良いと思えないのです。
私の場合、黒澤の幼稚な説教癖が我慢できないのですが、ホモの黒澤嫌いはけっこう多いみたいです。
というわけで私は『羅生門』の京マチ子も大して評価していません。
溝口健二監督の『雨月物語』はさすが溝口、京マチ子を使って「幽玄の美」をよく表現しています。
衣笠貞之助監督の『地獄門』は、「平家物語」に出てくる袈裟御前と遠藤盛遠のエピソードを題材にした作品ですが、はっきりいって大した作品だとは思えません。
ただこの作品は、日本初のイーストマン・カラー作品だそうで、今観てもカラーが大変美しく、平安末期の建築物、衣装、調度品がとても綺麗に撮れていて、
ヨーロッパ人の観客は、西洋から見たら地球の反対側にあたる遠い島国に、西洋文明の影響をまったく受けることなく、これほどまでに洗練された美的センスあふれる文明が存在していたことを発見して興奮したのではないかという気がします。
いずれにせよ、これらの作品は最初から海外の映画祭に出品することを意図して製作されたいわば「よそゆき」の作品で、京マチ子が真骨頂を発揮しているのは、これらの作品ではなくほかの作品だと思います。
京マチ子が日本映画で演じた役は「あばずれ」と「大阪の女」に大別できます。
「あばずれ」というのは、性的に放縦な、誰とでも簡単に寝る女のことですが、『痴人の愛』(1949)、『偽れる盛装』(1951)、『あに・いもうと』 (1953)、『赤線地帯』(1956)、『踊子』(1957) などがこの系統の作品に属します。
特に強い印象を受けたのは『赤線地帯』で演じた売春婦で、バーンと張った胸にドーンとデカい尻が圧倒的で、胸の大きくあいた下着みたいなブラウスを着て煙草をスパスパ喫う姿が迫力満点でした。
まさにグラマー女優といった感じでしたが、日本映画の場合「グラマー女優」というのは、「海女もの」映画などに海女役で出演して裸になる女優のことを意味するので、
豊満な肉体をもっているけれど、(『楊貴妃(1955)』の入浴シーンで後姿の裸をチラリと見せたとき以外)映画で脱いだことない彼女の場合は、グラマー女優ではなく、グラマラスな女優と呼ぶべきでしょう。
このへんのニュアンスの違いをわかっていただけますでしょうか?(笑)
もうひとつの系統の「大阪の女」はそのものずばり『大阪の女』(1958)というタイトルの作品もあるくらいで、多くの作品で大阪の女を演じています。
これは彼女自身が大阪出身であることと関係があると思いますが、『いとはん物語』(1957)、『細雪』(1959)、『女の勲章』 (1961)、『女系家族』(1963)などおっとりした船場のいとはん役が多いです。
あばずれか、それともいとはんか、どちらが京マチ子の実像に近いのか、『偽れる盛装』、『夜の蝶』、『女経』、『女の勲章』など彼女の出演作品の多くを監督した吉村公三郎によると、
素顔の彼女は、無口でおとなしい、引っ込み思案の性格だそうで、どちらかといえば、おっとりした大阪のいとはんに近いようです。
事実、セクシーで大胆ないでたちで男心を悩殺する役柄が多かったにもかかわらず、私生活では生涯独身で、スキャンダルもありません。
一部にはレズだという噂もあるみたいですが、もしそれが本当なら、あんないい身体してもったいないですね。
おかまの私がいうのもなんですが・・・(笑)
『羅生門』(1950)
『雨月物語』(1953)
『赤線地帯』(1956)
『細雪』(1959)
日米合作映画『八月十五夜の茶屋』(1956)、左からマーロン・ブランド、京マチ子、グレン・フォード
本日のつぶやき
メル友のAさんが褒めてた「怒り」を観てきた。
面白い映画だったけど、最近の日本映画は俳優が演技し過ぎるような気がする。臭い演技になるギリギリまで演技してしまう。ツマブキ君はすぐ泣くしw
あとセリフの説明が多すぎる。セリフではなく目で語らせるべき。もっともこの映画の出演俳優で目で演技できるのは渡辺謙と森山未来くらいなもんだろうが。あと若い刑事役の三浦貴大が意外とちゃんと演技してた。血筋かしら。
宮崎あおいは泣いてるか、笑ってるかのどっちかで、心に傷を負っている女には全然見えない。ツマブキ君も相変わらずのワンパターンだけど美形だから許します。松山ケンイチは初めてみたけど、全然演技できないじゃんw なんでこんなのが人気あるの? ツマブキ君の恋人役の若手俳優も演技力ゼロに加えてルックスもビミョーで、なんで彼が俳優をしているのかよくわからない。
最近の監督や俳優は大声で泣いたり、叫んだり、わめいたりするのが熱演だと勘違いしているのではないか。まぁ熱演といえばいえるけど、そういう演技は名演技とはいえない。泣けばいいというもんじゃないんだよ。ツマブキ君。感動は押し付けるものではない。
演技もセリフも10出すのではなく、7か8で抑える方が上品でスマートだし、観客の胸にも響く。
というわけでセリフを半分に減らし、もっと短くしたらもっといい映画になっていたのではないかと思う。たとえば、ツマブキ君の母親にセリフはいらない。黙ってツマブキ君を見てるシーンだけでよかった。ツァイ・ミンリャンだったらそうしていただろう。
つぶやき2
猥褻写真家レスリーキーが撮った妖怪図鑑の写真展なんて、マトモなお寺が受け入れる筈ないでしょうがw
つぶやき3
何度もいうけど、日本では同性愛者も異性愛者も平等に同性との結婚が認められていないの。
もし同性愛者だけに同性婚を認めたら差別になるの。わかる?
これらの作品はすべて社長の永田雅一が自社作品の海外映画祭への出品に力を入れていた大映の作品で、
そのすべてに大映の専属女優だった京マチ子が出演していたことから、彼女は「グランプリ女優」と呼ばれるようになります。
上記の作品の中で一番有名なのが黒澤明の『羅生門』で、黒澤はこの作品で一躍、世界に名を知られるようになるのですが、私は正直いってこの作品のどこが良いのかさっぱりわかりません。
この作品だけでなく、黒澤作品すべてがそんなに良いと思えないのです。
私の場合、黒澤の幼稚な説教癖が我慢できないのですが、ホモの黒澤嫌いはけっこう多いみたいです。
というわけで私は『羅生門』の京マチ子も大して評価していません。
溝口健二監督の『雨月物語』はさすが溝口、京マチ子を使って「幽玄の美」をよく表現しています。
衣笠貞之助監督の『地獄門』は、「平家物語」に出てくる袈裟御前と遠藤盛遠のエピソードを題材にした作品ですが、はっきりいって大した作品だとは思えません。
ただこの作品は、日本初のイーストマン・カラー作品だそうで、今観てもカラーが大変美しく、平安末期の建築物、衣装、調度品がとても綺麗に撮れていて、
ヨーロッパ人の観客は、西洋から見たら地球の反対側にあたる遠い島国に、西洋文明の影響をまったく受けることなく、これほどまでに洗練された美的センスあふれる文明が存在していたことを発見して興奮したのではないかという気がします。
いずれにせよ、これらの作品は最初から海外の映画祭に出品することを意図して製作されたいわば「よそゆき」の作品で、京マチ子が真骨頂を発揮しているのは、これらの作品ではなくほかの作品だと思います。
京マチ子が日本映画で演じた役は「あばずれ」と「大阪の女」に大別できます。
「あばずれ」というのは、性的に放縦な、誰とでも簡単に寝る女のことですが、『痴人の愛』(1949)、『偽れる盛装』(1951)、『あに・いもうと』 (1953)、『赤線地帯』(1956)、『踊子』(1957) などがこの系統の作品に属します。
特に強い印象を受けたのは『赤線地帯』で演じた売春婦で、バーンと張った胸にドーンとデカい尻が圧倒的で、胸の大きくあいた下着みたいなブラウスを着て煙草をスパスパ喫う姿が迫力満点でした。
まさにグラマー女優といった感じでしたが、日本映画の場合「グラマー女優」というのは、「海女もの」映画などに海女役で出演して裸になる女優のことを意味するので、
豊満な肉体をもっているけれど、(『楊貴妃(1955)』の入浴シーンで後姿の裸をチラリと見せたとき以外)映画で脱いだことない彼女の場合は、グラマー女優ではなく、グラマラスな女優と呼ぶべきでしょう。
このへんのニュアンスの違いをわかっていただけますでしょうか?(笑)
もうひとつの系統の「大阪の女」はそのものずばり『大阪の女』(1958)というタイトルの作品もあるくらいで、多くの作品で大阪の女を演じています。
これは彼女自身が大阪出身であることと関係があると思いますが、『いとはん物語』(1957)、『細雪』(1959)、『女の勲章』 (1961)、『女系家族』(1963)などおっとりした船場のいとはん役が多いです。
あばずれか、それともいとはんか、どちらが京マチ子の実像に近いのか、『偽れる盛装』、『夜の蝶』、『女経』、『女の勲章』など彼女の出演作品の多くを監督した吉村公三郎によると、
素顔の彼女は、無口でおとなしい、引っ込み思案の性格だそうで、どちらかといえば、おっとりした大阪のいとはんに近いようです。
事実、セクシーで大胆ないでたちで男心を悩殺する役柄が多かったにもかかわらず、私生活では生涯独身で、スキャンダルもありません。
一部にはレズだという噂もあるみたいですが、もしそれが本当なら、あんないい身体してもったいないですね。
おかまの私がいうのもなんですが・・・(笑)
本日のつぶやき
メル友のAさんが褒めてた「怒り」を観てきた。
面白い映画だったけど、最近の日本映画は俳優が演技し過ぎるような気がする。臭い演技になるギリギリまで演技してしまう。ツマブキ君はすぐ泣くしw
あとセリフの説明が多すぎる。セリフではなく目で語らせるべき。もっともこの映画の出演俳優で目で演技できるのは渡辺謙と森山未来くらいなもんだろうが。あと若い刑事役の三浦貴大が意外とちゃんと演技してた。血筋かしら。
宮崎あおいは泣いてるか、笑ってるかのどっちかで、心に傷を負っている女には全然見えない。ツマブキ君も相変わらずのワンパターンだけど美形だから許します。松山ケンイチは初めてみたけど、全然演技できないじゃんw なんでこんなのが人気あるの? ツマブキ君の恋人役の若手俳優も演技力ゼロに加えてルックスもビミョーで、なんで彼が俳優をしているのかよくわからない。
最近の監督や俳優は大声で泣いたり、叫んだり、わめいたりするのが熱演だと勘違いしているのではないか。まぁ熱演といえばいえるけど、そういう演技は名演技とはいえない。泣けばいいというもんじゃないんだよ。ツマブキ君。感動は押し付けるものではない。
演技もセリフも10出すのではなく、7か8で抑える方が上品でスマートだし、観客の胸にも響く。
というわけでセリフを半分に減らし、もっと短くしたらもっといい映画になっていたのではないかと思う。たとえば、ツマブキ君の母親にセリフはいらない。黙ってツマブキ君を見てるシーンだけでよかった。ツァイ・ミンリャンだったらそうしていただろう。
つぶやき2
猥褻写真家レスリーキーが撮った妖怪図鑑の写真展なんて、マトモなお寺が受け入れる筈ないでしょうがw
つぶやき3
何度もいうけど、日本では同性愛者も異性愛者も平等に同性との結婚が認められていないの。
もし同性愛者だけに同性婚を認めたら差別になるの。わかる?