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東アフリカ周遊(11)

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☆ 帰国の途へ

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今回の旅行でわたしはひとつ非常に馬鹿な失敗をしてしまいました。

ザンジバルからモンバサに飛行機で飛んでケニアに再入国したとき、空港の両替所で、残っていた手持ちのドルをすべてケニアシリングに両替したのですが、

それだけでは翌日、ナイロビ空港から帰国便に乗るまでの間の費用を全額、賄うのは無理ではないかと考えて、日本円も少し両替しようとしました。

しかしその両替所では、日本円は両替できないとのこと。

それで隣の両替所にいったら、そこでは日本円を両替できるというので、そこで6000円両替したのですが、両替レートは最悪で6000円が3000シリングにしかなりませんでした。

ネットで掲載されている日本円とケニアシリングの交換レートは、1ケニアシリング=1.1円なのに、その両替所での交換レートは、1ケニアシリング=2円だったことになります。

そのため、これからケニアに行かれる方には、日本円をケニアに持っていって、現地通貨に両替することはお奨めできません。

ATMを使って金を降ろせばよかったのにといわれるかも知れませんが、そのときモンバサ空港にはATMが見あたらなかったのです。

で、非常に馬鹿なことにわたしはその最悪のレートで両替した3000シリングの札を両替所のカウンタ―に忘れてきてしまったのです!

あとで財布を調べたら、財布に入っているシリングの札がわたしが考えているより3000シリングほど少ないことに気がつき、両替所で忘れたに違いないと思い当たったのです。

「そんな馬鹿なことってあるの?」といわれるかもしれませんが、わたしの場合は十分にあり得るのです。

日本でも店でなにか買って、金を支払ってお釣りをもらって、そのまま買った商品をレジのカウンタ―に置いたまま、店を出ようとして、店員に「お客様、お忘れですよ」と注意されることがよくあるのです。

今回の件も日本だったら誰かが気づいて注意してくれただろうけど、ブースにいたアラブ系の男は黙ってその3000シリングを自分の懐に入れたものと思われます。

というわけで、翌朝、ナイロビの銀行のATMで、あらためて3000シリングのキャッシングをして、手持ちの金の不足分を補ったのですが、旅も終盤に差しかかって疲れが出てきて、頭がぼんやりしていたのかもしれません。

46年ぶりに訪れたナイロビは、昔、わたしが知っていたナイロビとはまったく異なる完全に別の都市になっていましたが、個人的には昔の小奇麗だったナイロビよりも、現在の活気溢れるナイロビの方がアフリカらしくて好きです。

前回、訪れたエチオピアと較べると、ケニアはずっと発展していて、ケニア人は近代社会に適応しているように思えます。

これはケニアが元イギリス植民地であったことと関係があるのではないかという気がします。

同じブラックアフリカでも、イギリスの植民地だった国は、フランスその他の植民地だったと国と較べて発展の度合いが速いような感じがするのです。

イギリスは、植民地に行政官と軍人を派遣しましたが、それ以外にイギリス人で植民地に移住する人間はそれほど多くはありませんでした。

一方、フランスの植民地にはコロンと呼ばれる多くのフランス人が入植しました。

アルジェリアやインドシナなどフランス植民地の独立戦争が泥沼化したのは、フランス人入植者のコロンたちが独立に抵抗したからです。

一方、イギリスの植民地は、ローデシアなどを例外にして、イギリス人の入植者が少なかったために、比較的スムーズに独立に移行できたました。

またイギリス植民地では、フランス植民地とは異なり、植民地在住のイギリス人が少なかったために、官吏の職をフランス人が独占したフランス植民地とは異なり、現地人を下級官吏に採用し、養成しました。

わたしが1972年にケニアに滞在していた時点で、ケニア人の警官やナショナルパークのゲームワーデン(密猟取締官)は、かなりまともだったし、

ザイール(現コンゴ民主共和国)の官吏にように露骨にワイロを要求してくることはありませんでした。

あとイギリスの植民地だった国の強みとして、教育を受けた人間が英語を話せることが挙げられます。

フツ族によるツチ族の虐殺で知られる旧ベルギー領のルワンダが公用語をフランス語から英語に代え、

ケニア、ウガンダ、タンザニアなど東アフリカの旧イギリス植民地が結成した東アフリカ共同体に加盟し、英連邦にまで加盟してしまったのも、英語圏アフリカに属する方が国の発展のために有利だと判断したからでしょう。

そもそもフツ族とツチ族の対立を裏で煽っていたのは欧米諸国で、フランス語圏アフリカの宗主国を自認するフランスがフツ族を応援し、一方で英米はツチ族を支援していたのです。

フツ族によるツチ族の虐殺直後、ウガンダに亡命していたツチ族のカガメ現大統領率いるルワンダ愛国戦線が英米の支援を受けてルワンダに侵攻し、ルワンダ全土を掌握して、ツチ族主体の新政権が成立するのですが、

カガメ大統領はフランスをフツ族に武器を供与してツチ族の虐殺を支援したと非難し、公用語をフランス語から英語に代え、旧イギリス植民地諸国で構成される東アフリカ共同体に加盟し、

フランス語圏アフリカから完全に脱却し、英語圏アフリカに入ってしまったのです。

INKS HOTELに一泊し、翌日、タクシーでジョモ・ケニヤッタ空港に向かいましたが、46年前、帰国するわたしを空港まで送ってくれたのは、日航職員のHさんだったことを思い出しました。

当時、日航はナイロビ路線に就航していなかったのですが、ナイロビに支店は置いていました。

支店長は山崎豊子の小説『沈まぬ太陽』のモデルになったOさんで、彼は東大卒のエリートであったにも関わらず、組合運動を熱心にやりすぎて、日航が就航していないナイロビに左遷されてしまったのです。

わたしを空港まで送ってくれたHさんは、そのナイロビの日航支店でOさんの下で働く唯一の日本人職員でした。

このHさんは、知る人ぞ知る名家のご出身で、本来ならばわたしのような馬の骨など相手にされないのですが、偶々、日航職員と日本のテレビ局の取材チームの一員ということで関係ができて、

わたしが帰国便に乗るために空港に行くといったら、

「ボクもちょうど空港に行く用事があるから、送っていってあげる」

といってくださったのです。

Hさんの運転する車に乗って、道路の両側に広がる草原を眺めながら、早ければ翌年にでもケニアに戻って来ようとわたしは考えていました。

しかし、その翌年に西アフリカに行って、その次の年には北アフリカに行ってとアフリカとの縁は切れなかったものの、その後、ケニアに戻る機会はありませんでした。
そして気がつけば46年の歳月が過ぎていたのです。

「アフリカの水を飲んだ人間はアフリカに戻る」という言い伝えがありますが、わたしはケニアの水を飲んでから46年ぶりにやっとケニアに戻ってくることができたのです。

この年齢でアフリカを旅行できるだけの体力が残っていたことを神に感謝します。

おわり

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