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Channel: ジャックの談話室
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昨日の旅(31)

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☆ イラン入国
アフガニスタンに2週間ほど滞在したあと、バスに乗ってイランに向かった。
イラン入国後、最初に着いたのはアフガニスタンとの国境に近い町、メシェッド。
町の食堂で食事をして代金を払ったのに、食堂の親父は釣り銭をくれない。
文句を言ったら、釣り銭のコインをポーンと放って寄こした。
純朴なアフガン人と較べてイラン人はすれてるなと思った。
物価もイランはアフガニスタンより高かった。
メシェッドはイスラム教シーア派のエラいお坊さんの霊廟があることで知られているそうだが、わたしたちイスラム教徒ではない旅行者には関係ない話なので、一泊しただけでそのまま首都のテヘランに向かった。
テヘランはニューデリー以来の活気のある大都市だった。

当時のイランは現在とは異なり、西欧化していて、女性はみんなベールなど被らず、最新の西洋ファッションに身を包み、ばっちりメイクした顔を公衆に晒して颯爽と通りを歩いていた。
テヘランで面白かったのは、わたしたち旅行者を見て近づいてくる現地の若者が日本人であるわたしを完全に無視して、わたしと一緒にいる白人旅行者にばかり話しかけたことである。
インドから西、トルコまでどこの国にいっても、地元の若者はわたしが日本人であると分かると喜んで話しかけてきた。

そして一緒にいた白人旅行者は無視するのが常だった。

それがイランでは、正反対だったのだ。

それだけイラン人が親欧米だったということなのだが、それだけに1979年のホメイニ革命で、イランが親米から一挙に180度転換して反米になってしまったのには驚いた。

戦時中は「鬼畜英米」のスローガンを叫びながら、戦争に負けた途端、アメリカ一辺倒になってしまった日本の例もあるので、イランばかりをおかしいということはできないが、

なまじっか自由で西欧的な時代のイランを見た経験があるだけに、そのあまりの変わりようにショックを受けたのだ。

特に西洋式の服を着て、堂々と顔を出して歩いていたイラン女性が一転してヒジャブと呼ばれる黒い衣で全身を覆い、顔もベールで覆って目だけ出して、カラスの群れのようになっているのをみて、

あの派手なファッションを好んでいたイラン女性がこんなになってしまうなんて!と信じられない思いがした。

短期間の旅行者でしかなかったわたしには、イランという国の表面的な親米感情の陰に隠れていた反米感情が見えなかったのだ。

イランと欧米諸国の対立の背景には、イランの石油利権をめぐる英米とイランの争いがある。

1953年にイラン石油の国有化を試みたモサデク首相をCIAが倒し、モサデクに追われて亡命していた傀儡のパーレビ国王を再び王座に据えたとき、イラン国民の間では当然のことながら、反米感情が沸き起こった。
バーレビー国王は、世俗化路線を推し進め、イスラム保守勢力を弾圧したが、保守勢力は当然のことながら激しく反発し、国民の間でも貧富の格差の拡大にたいする不満が高まっていった。
そのせいで、国内各地で反政府デモが頻発し、パリに亡命していた反体制派のリーダーであるホメイニ師が帰国するに及んで反体制派が政権を握り、イラン・イスラム共和国が誕生する。
バーレビー国王は、エジプトに亡命し、その後、世界各地を転々とするが最終的にアメリカに入国を求め、アメリカはそれを受け入れる。
しかしそれに怒ったイランの学生たちは、テヘランのアメリカ大使館を占拠して52人の大使館員とその家族を人質にとって、バーレビー国王の身柄の引き渡しを要求する。
アメリカ政府は人質奪回の作戦を練り、実行に移すが、救出に向かったヘリコプターが砂漠で砂嵐に巻き込まれて墜落。カーター大統領は面目丸つぶれになる。
結局、人質はアメリカとの交渉がまとまるまで444日間、拘束された。
その結果、アメリカはイランと国交を断絶し、イランにたいして経済制裁を科すのだが、イランとの関係回復は2015年のオバマ政権での核合意まで待たなければならなかった。
しかし、トランプ大統領は、このイランとの核合意の見直しについて言及している。
イラン革命から40年近く経ってまだこれだけアメリカがイランにたいして厳しい態度を取り続けているのは、イランの石油利権を失ったことに加えて、
アメリカ大使館の人質事件と救出作戦の失敗によりメンツを潰された恨みがまだ残っているからだろう。
この1979年のイラン革命は、イスラム世界に大きな影響を与えた。
革命を成し遂げたイランは、そのイスラム原理主義思想をイラン以外のイスラム諸国に積極的に輸出したからだ。
その結果、アラブ世界にイスラム原理主義が蔓延することになった。
イスラム原理主義が急速かつ広範にイスラム世界に広まったのは、イスラム教徒、特に若者の支持を得られたからだと思う。
エジプトを例にとると、ナセル大統領の時代はソ連に接近して社会主義を導入したが経済は破綻した。次のサダト大統領は一転してアメリカに接近して自由主義経済を採用したが、貧富の格差が拡大しただけで、貧しい者はさらに貧しくなった。

ソ連式の社会主義はダメ、アメリカ流の資本主義もダメ、だったらイスラムに回帰するしかない、ということでイスラム原理主義が台頭したのではないかという気がする。

イラン革命前は当のイランも含めて、イスラム圏は大なり小なり欧米を手本にして近代化を推し進めてきた。

それが一転して西欧文明を否定して、イスラムに回帰し始めたのだから、欧米諸国がショックを受けたのは当然だろう。

そのリーダー格のイランが欧米諸国から特別な憎悪の対象になったのも理解できる。

その後、イスラム原理主義は収まるどころか、ますます拡大、先鋭化して、世界各地でイスラム過激派がテロを起こし、紛争地のイラクやシリアではISなる集団が現れて一時はイラクやシリアの国土の大きな部分を支配下に置いた。

欧米とイスラムの文明の対立は深まるばかりのような気がするが、それを打ち破る動きが出てくるとしたら、やはりイランから出てくるような気がする。

続く

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