☆ ヘラートの麻薬市場
カンダハールのあと、アフガニスタン第3の都市、ヘラートに移動した。
ヘラートもカンダハールと同様、中央アジアや西アジアとインドを結ぶ重要な交易路上にあって古来より栄えてきた町である。
ヘラートの市場では、アフガンコートと呼ばれている民族模様の刺繍の入った羊の毛皮のコートを買った。
季節はもう12月に入ろうとしていたが、これから先、冬のヨーロッパを旅するには防寒具が必要だと思ったからだ。
アフガンコートを買った市場の一部は、ハッシーシを売る麻薬市場になっていた。
もう時効になっていると思うのでいうが、わたしはここでハッシーシを1キロ買った。 ヨーロッパに持っていって売るためである。
わたしが買ったハッシーシは、アフガニスタン製のアップルジャムのラベルが貼られた缶詰で、中味はジャムではなくハッシーシが入っているといわれた。
値段は10ドル(3600円)だった。
そのときのわたしにとって10ドルは大金だったが、ヨーロッパに持ち込めばその100倍の値段で売れると聞いて買う気になったのだ。
一緒に旅行していた仲間もみんなこの麻薬市場でハッシーシを買っていた。
わたしはジャムの缶詰を買ったが、ほかの連中はもっと工夫を凝らして、オーストラリア人のネッドは、ハッシーシをバックパックのフレームのパイプに詰めてはんだ付けで蓋をしていた。
ヨーロッパの玄関口であるトルコ・ギリシャの税関で見つからずにうまくヨーロッパに持ち込めば高値で売れるというので、みんな真剣だった。
このヘラートでわたしはオーストラリアからの出稼ぎの帰りだという、あご髭を生やした精悍な顔つきのユーゴ人のクリスと色男のドイツ人のマーティン、小柄で大人しいオーストリア人のステファンのヨーロッパ人三人組に出会った。
彼らは出稼ぎ中にオーストラリアで仲良くなり、東南アジアからインドを経由してヨーロッパまで陸路で旅行する計画を立て、一緒にアフガニスタンまでやってきたとのことだった。
三人はお揃いのシープスキンのコートを着ていたが、どこで買ったのか知らないが、わたしが買ったアフガンコートに較べるとずっと高価そうで、暖かそうだった。
彼らももちろんハッシーシを買っていた。
この麻薬市場では、ハッシーシ以外の麻薬も売っていて、麻薬商人からヘロインの塊も見せてもらった。
ヘロインはハッシーシよりもずっと高価で、たしか1キロ160ドルといっていた。それがヨーロッパまでもっていくと数万ドルで売れるとのことだった。
わたしはこのアフガニスタン製のジャムの缶詰を無事にヨーロッパに持ち込むことに成功したが、いざ売る段になって困ってしまった。
当時、わたしはストックホルムで仕事が見つからなかったので、コペンハーゲンに戻って仕事探しをしていたのだが、あわよくばアフガニスタンから持ってきたハッシーシをコペンで売りたいと思っていた。
ただ1キロというのは相当の量なので、それを一度に売ろうとすれば仲買人に売るしかない。
しかしわたしは現地の仲買人の心当たりがまったくなかった。
仲買人に売れないとなると、小口にして不特定多数の人間に売らなければならなくなるが、これは危険すぎた。
そのうちデンマークでは、ハッシーシなどの麻薬を所持しているのが見つかると30年の懲役刑になると聞いて、怖気づいたわたしは、
とうとうその缶詰をそのとき滞在していたコペンハーゲンのユースホステルの裏にあった池に投げ捨ててしまった。
今となっては分からないが、もしかしたらあの缶詰の中にはハッシーシではなく、本物のジャムが入っていたのではないかという気もする。
後にトルコ旅行をしたアメリカ人の青年がハッシーシ400グラムをアメリカに持ち帰ろうとして、イスタンブールの空港の荷物検査で見つかって、
麻薬不法所持と密輸の罪で懲役30年の刑を宣告されたあと、刑務所を脱獄して無事アメリカに生還するという実話に基づいた映画『ミッドナイト・エクスプレス』を観たとき、わたしもまかり間違えばこうなっていたかもしれないと思った。
たった400グラムのハッシーシを持っていただけで30年の懲役刑とはいくらなんでも重すぎるのではないかと思ったが、この頃、アメリカとトルコの外交関係が悪化していて、見せしめに重罰を科されたのだそうだ。
わたしの知り合いの日本人もトルコでハッシーシを持っていたのが見つかり、イスタンブールの刑務所に入れられたが、彼の場合は保釈金を15万円ほど払って解放されたという。
もうひとり、ラオス号で一緒だった日本人でやはりバンコクで下船して陸路ヨーロッパまで行った仲間は、スイスからデンマークに煙草を密輸しようとして捕まった。
当時、北欧は煙草の値段が高く、反対になぜかスイスでは煙草が安かった。それで彼は仲間と共にスイスに行って有り金をはたいてマルボロを100カートン購入し、車のトランクに隠してデンマークに密輸しようとしたのだ。
ところが国境の税関で見つかってしまい、煙草は全量、没収の上、高額の罰金を科せられて、一文無しの状態で国外退去になったという。
デンマークを追い出された彼はドイツのハンブルグに行って公園で野宿をしていたが、腹が減ってたまらず、わざと車に体当たりして金を稼ぐ「当たり屋」をしようかと本気で考えたそうだ。
幸いハンブルグの日本料理店で皿洗いの仕事をみつけ、当たり屋をやらずにすんだが、当時はドイツよりもデンマークの方が賃金が高かったのでやっぱりデンマークで働きたいと思ってまたこっそりデンマークに入国したという。
しかしデンマークで仕事をみつけて働いていたところ、またもや警察に捕まり、再び強制退去になってしまった。
二回目の強制退去のときは、一回目のときよりも厳しくドイツ国境までずっと手錠をはめられていたといっていた。
続く