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満映とわたし(1)

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『満映とわたし』という本を読みました。

これは、満州国の国策映画会社、満映こと満州映画協会で編集者として働いた岸富美子という女性の回顧録を基にノンフィクション作家の石井妙子が岸富美子にインタビューして一冊の本にまとめたものです。

岸富美子は1920年(大正9年)生まれ、15歳のときに撮影所でカメラマンをしていた兄のつてで第一映画社に編集助手として入社します。

彼女は奇しくも昨年95歳でなくなった原節子、一昨年94歳でなくなった山口淑子(李香蘭)と同い年で、彼女たちの出演作に現場でかかわったこともあるそうです。

それでも華やかなスターだった原節子や李香蘭と異なり、編集という地味な裏方の仕事をやっていた彼女がこれまで脚光を浴びることはなかったのですが、

日本映画がサイレントからトーキーに移行する時期に映画界に入り、その後、満州にわたって満映に入社して敗戦による満映の解体まで運命を共にした彼女の証言は映画史的にみて非常に貴重で、

特に満映亡きあと、彼女を含む、満映の元社員である日本人技術者が多数、中国に残留し、草創期の中国映画の製作にスタッフとして参加して、

中国人技術者に映画技術を教え込み、彼らが一人前の技術者になるように尽力したという話はこの本を読んで初めて知りました。

岸富美子は16歳のとき、原節子主演の日独合作映画『新しき土』(1937)の制作に編集助手として参加しています。

編集助手であった岸富美子は同い年の原節子を直接、目にすることはなく、フィルムに写った彼女の清楚な美しさに見惚れるだけだったといいますが、この映画の製作で大きな出会いを経験します。


この映画の編集のためにドイツから来日したアリス・ルートヴィッヒという女性編集者の助手について彼女から最新の編集技術を学ぶのです。

当時、日本の撮影所では編集の仕事は男性と決まっていて、女性は助手にしかなれなかったそうですが、

アリスは若い女性でありながら、一人前のエディターとして働いていて、監督のアーノルド・ファンクと対等に口をきいていたといいます。

一度、ファンク監督が彼女に無断でフィルムを持ち出し編集したことがあって、アリスが激怒し、監督と激しく言い争う場面を目撃したことがあるそうですが、

日本の撮影所では監督が絶対的な権力者で、スタッフが監督に向かって口答えするようなことはなかったので、監督と堂々と渡り合っていたアリスの姿は印象に残ったと語っています。

このアリスの編集者として矜持をもって働く姿をみて、富美子はアリスこそが自分が手本にすべき人間であると確信します。

岸富美子はこの『新しき土』の仕事に入る前、第一映画社で編集助手をしていたときに、もうひとつの貴重な出会いを経験しています。

溝口健二監督の『祇園の姉妹』(1936)の撮影で編集助手を務めるのですが、そのとき溝口監督のチーフ助監督をしていた坂根田鶴子と知り合うのです。

坂根田鶴子は後に日本映画初の女流監督になるのですが、この頃は男社会の撮影所に合わせるためか、男装して男言葉をつかっていたといいます。

溝口監督が編集者に仕事を任せるのを嫌ったことから、助監督だった坂根が編集をやることになり、富美子がその助手についたそうですが、坂根は男装していたにもかかわらず、とても優しい親切な女性だったといいます。

溝口監督は大変厳しい人で、自分から任せておきながら、坂根の編集が気に入らず、ラッシュ試写のときにほかのスタッフのいる前で坂根の編集をこっぴどくこきおろし、坂根は編集室に戻って声を立てずに泣いていたそうです。

富美子は、この坂根田鶴子と後に満映で再会することになります。

富美子が満州に渡ったのは19歳のとき、先に満州に渡って満映で仕事をすることが決まっていたカメラマンの兄、福島宏に誘われて、満映で働くことを決心し、母と共に満州に渡ります。

満映こと満州映画協会は当時、反日、抗日を訴える多数の映画が製作されていた上海映画界に対抗して、

抗日ではなく親日を訴える映画を中国人のために作り、見せることで中国人を感化することを目的に設立された国策会社で、満州国と満鉄が半額ずつ出資していました。

満映の撮影所は、満州国の首都が置かれた新京(後の長春)市内の広大な敷地に建設され、その規模は東洋一と謳われ、最新式の映画機材が備えられていたといいます。

満映では、中国人向けの映画を製作したことから、俳優は全員、中国人だったそうです。

唯一の例外は看板スターだった李香蘭(後の山口淑子)で、彼女は日本人でありながら、中国人女優として売り出され、長谷川一夫と共演した「大陸三部作」「白蘭の歌」、「支那の夜」、「熱砂の誓ひ」)などで、

最初は反日だったのが日本人男性と出会って恋に落ち、日本人を好きになる中国人女性を演じました。

彼女はタテマエとしては中国人ということになっていたそうですが、満映の日本人社員はみんな彼女が日本人であることを知っていたそうです。

満州にはそれまで映画の撮影所が存在しなかったことから、中国人の監督やカメラマンなどの技術者が存在せず、当初は日本人の監督やカメラマンが働いていたそうですが、

中国人の観客の心に訴える作品を作るには中国人の監督を使った方がよいということで、撮影所内に中国人の監督やカメラマンなど技術者を養成する学校も作られたといいます。

満映は当初、映画製作の実績が上がらなかったことから、二代目理事長に甘粕正彦が就任します。

甘粕は、憲兵隊長時代に大逆事件の被告であるアナキストの大杉栄と伊藤野枝、その甥の三人を殺害したことで知られ、

服役後、満州に渡って関東軍の特務機関で工作活動をしていたそうですが、新しい理事長が甘粕という人物だと母親にいったら「その人は人殺しだよ」といわれて驚いたと語っています。

しかし甘粕理事長は、日本人・中国人を問わず、満映社員を大事にしたことから、社員から慕われるようになります。

また「右翼」であるにもかかわらず、日本で生活し辛くなって満州に逃げてきた共産党の活動家を社員として雇用したりします。

また満映の社風は日本国内の映画会社と較べて自由で、日本では女であるという理由で助監督にしかなれなかった坂根田鶴子は満映で念願の監督になり、啓蒙映画を撮り始めます。

さらには内田吐夢や木村荘十二のような左翼的な思想に傾倒していた有名監督までが満映にやってきます。


f0107398_2228997.jpg岸富美子が編集助手として働いた原節子主演の日独合作映画『新しき土』(1936)

f0107398_22245940.jpg
岸富美子の兄の福島宏がカメラマンとして撮影に参加した李香蘭主演の東宝・満映合作映画『私の鶯』(1943)

続く


本日のつぶやき

【歴史戦】
独フライブルク市への慰安婦像設置断念 韓国水原市が発表 日本側が「圧力」と批判
産経新聞 9月21日(水)20時17分配信

めずらしく日本側が迅速に対応したみたい。


つぶやき2

《「10代・20代」に限ると、男性の7割以上(72.2%)、女性の6割台半ば(64.7%)が、安倍内閣を「支持する」と答え、内閣支持率を押し上げている。》
安倍内閣支持率56.6% 3カ月連続の上昇傾向 FNN世論調査

あのシールズってなんだったの?w

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