「新潮45」に杉田水脈議員が寄稿した『LGBT支援の度が過ぎる』という記事を巡ってパヨクたちが大騒ぎして、杉田議員の辞職を求めるデモまでおこっているそうです。
私はこの新潮45の杉田議員の記事を読みましたが、この記事のどこに問題があるのかさっぱりわかりません。
むしろ杉田議員の発言は、「よくいってくれた」と膝を打ちたくなるものが多かったです。
たとえば、杉田議員は、次のように述べています。
しかし、LGBTだからといって、実際そんなに差別されるものなのでしょうか。もし自分の男友達がゲイだったり、女友達がレスビアンだったりしても、私自身は気にせずに付き合えます。職場でも仕事さえできれば問題ありません。多くの人たちにとっても同じではないでしょうか。
これはまったくそのとおり。私が日頃からいっているように、日本の会社では、ホモであっても仕事さえできれば、職場の上司も同僚も受け入れてくれ、認めてくれます。
風俗産業を除けば、大半の仕事はセクシュアリティーと関係ないので、当然といえば当然のことなのですが。
ゲイリブ活動家の中には、会社の同僚の女の話に付き合わされるのは辛いという人間もいますが、ホモであることをカミングアウトして、「それでエッチのときは男役、女役?」などと不躾な質問をされるよりもずっとマシです。
いずれにせよ、その程度の「辛さ」に耐えられないような人間は最初からサラリーマンなど目指すべきではないでしょう。会社勤めでは人間関係でもっと辛いことをいくらでも経験しますから。
杉田議員は、また次のように述べています。
そもそも日本には、同性愛の人たちに対して、「非国民だ!」という風潮はありません。一方で、キリスト教社会やイスラム教社会では、同性愛が禁止されてきたので、白い目で見られてきました。時には迫害され、命に関わることもありました。それに比べて、日本の社会では歴史を紐解いても、そのような迫害の歴史はありませんでした。むしろ寛容な社会だったことが窺えます。 どうしても日本のマスメディアは、欧米からこうしているから日本もこうすべきだと、という論調が目立つのですが、欧米と日本とはそもそも社会構造が違うのです。
これも私がこれまで口を酸っぱくしていってることですが、同性愛者差別が激しい欧米のゲイリブ運動を差別の少ない日本で真似しても日本の風土に根付く筈がないのです。
LGBTという言葉自体、欧米のゲイリブ運動からの直輸入で、当事者でさえ、その意味を理解している人間は少ないのです。
杉田議員はまた、次のように述べています。
LGBTの当事者の方たちから聞いた話によれば、生きづらさという観点でいえば、社会的な差別云々よりも、自分たちの親が理解してくれないことのほうがつらいと言います。親は自分たちの子供が、自分たちと同じように結婚して、やがて子供をもうけてくれると信じています。だから、子供が同性愛者だと分かるとすごいショックを受ける。これは制度を変えることで、どうかなるものではありません。
これも核心をついた言葉です。カミングアウトの最大の障壁は社会の無理解ではなく、親の無理解です。
世界中どこでも、自分の子供が同性愛者になって欲しいと願う親はいません。世界中どこでも、親は自分の子供が異性と結婚して孫の顔を見せてくれることを期待するものなのです。
しかし、同性愛者に生まれるとその期待に答えることができない。それで親に対して申し訳ないと罪の意識を感じてしまうのです。
それでも子供を愛している親であれば、子供からゲイあるいはレスビアンであることを打ち明けられた場合、大きなショックを受けながらも、同性愛者である子供を理解し、子供をありのままの姿で受け入れようと努力する筈です。
しかし中には同性愛者である子供を受け入れることを拒否する親もいます。
こういう無理解な親の態度は、元々、親子関係がうまくいっていない家族によく見られます。
ゲイリブに走るのはこういう親に受け入れられなかった同性愛者が多いのですが、彼らは同性愛者である自分が親に拒絶されたことで、社会全体が自分を拒絶していると短絡的に思い込んでしまうのです。
しかし実際はそうでありません。その点については、親よりも社会の方がずっと寛容です。
同性愛者の息子を受け入れようとしない親でも、他人の子供が同性愛者であることには無関心です。彼は自分の子供だからこそ、受け入れられないのです。
そしてこのような親の感情や行動には、親子関係がうまくいっていないという事実が根底にあり、親子関係が改善されると、親は子供の同性愛指向についても寛大になることが多いのです。
煎じ詰めると、これは親子関係の問題であって、杉田議員のいうとおり、制度を変えることで、どうにかなるものではないのです。
杉田議員の記事で一番議論を生んだのは、次の文章でしょう。
例えば、子育て支援や子供のできないカップルへの不妊治療に税金を使うというのであれば、少子化対策のためにお金を使うという大義名分があります。しかし、LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女たちは子供を作らない。つまり生産性がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか。
ゲイリブや彼らを擁護するサヨクたちは、この杉田議員の「生産性がない」という発言だけを切り取って、杉田議員が「LGBTは生産性がない、だから社会に不必要な人間だ」と決めつけていると非難しているのですが、
前後の文脈からみれば、杉田議員は同性カップルは生殖の面では生産性がないといっているだけで、LGBTの存在そのものまで否定していないことは明らかです。
たしかに企業や自治体の助成金や補助金に寄生して生きることを望んでいる利権狙いの自称LGBT活動家や彼らと一緒になって騒いでいるサヨク連中は生産性に欠けていることは明らかで、
彼ら自身、そのことに薄々感づいていて、杉田議員にその痛いところを突かれて逆上したのかもしれません。
一方、一般当事者は、杉田議員の言葉を極めて冷静に受け止めました。
活動家ではないフツーのホモから見て、同性カップルが異性カップルと異なり子供が作れないことは自明の事実であって、それを杉田議員に指摘されたからといって、自尊心が傷つくようなことはありません。
一般当事者は、活動家たちとは異なり、ちゃんとした正業に就いて自立している人間が多く、子供は作らなくとも働いて金を稼ぎ、税金を払うことで社会に貢献しているし、
プライベートな面でもきょうだいを助けて、甥っ子や姪っ子の面倒をみたりして、間接的に子育てに関与している人間も多いです。
むしろ一般当事者は、活動家たちがLGBTが生きづらさを抱えていて不幸であると喧伝することに反発を覚えています。
杉田議員はそのほかにもLGBとTは分離すべきだとか、LGBTトイレなど作るべきではないと主張していますが、これらの意見にも私は完全に同意します。
杉田議員のいっていることは、日本の一般国民の平均的な考えであって、杉田議員を批判することは、日本の世論を敵に回すことになるのですが、杉田議員を批判しているLGBT活動家やサヨクたちはそのことにあまりにも無頓着な気がします。
今度の騒動で明らかになったことは、LGBTが完全にサヨクの社会運動になっているということです。
杉田議員の記事が新潮45に発表された途端、待ってましたとばかりサヨク陣営からいっせいに攻撃が開始され、あっという間にデモの開催を発表して、数千人の動員をかけるそのやり方は、これまで反原発、反戦争法、反アベなどのデモで見慣れた光景です。
私はサヨクがLGBTにすり寄ってLGBTを政治運動化したのは、サヨクが追い詰められている証拠だと思っています。
安倍自民一強政権が続く中、安倍さんを政権から引きずり降ろすために利用できるものは何でも利用するといった感じで見苦しく足掻いている野党やサヨク陣営は、
モリカケ問題など安倍追及の手段が行き詰りを見せる中、今度はLGBTを利用して安倍自民を攻撃しようと目論んでいるみたいですが、
以前、北朝鮮による日本人拉致事件が発覚して、急速に支持を失った社会党が社民党と党名を変えて、溺れる者は藁をも掴むといった感じでLGBT活動家と組んでLGBTフレンドリーな政党であると宣伝した結果、
政党として再浮揚するどころか活動家と一緒にずぶずぶと沈んでいき、政党要件も満たせないほど議席を減らしてしまったことを思い出します。
現在、LGBT活動家は立憲民主党と組んでいるようですが、立憲民主は野党第一党といっても支持率は8パーセントくらいで、
LGBT活動家という疫病神を抱え込んだことで、社民と同様、これから衰退の一途を辿るでしょう。
今回の騒動のお陰で、LGBT活動家や彼らと組んだサヨク陣営がLGBTを政治利用しようとしていることが明らかになり、
これにより、一般当事者はますますLGBT活動家や団体から距離を置くようになるだろうし、一般国民もLGBTがどうのこうのと騒いでいる連中が、反アベで騒いでいるのと同じ連中であることに気づき始めるでしょう。
その結果、日本のLGBT運動は当事者を含む一般国民の支持を失って衰退していくでしょうが、このような運動は、一般の支持を失うと過激化することが多く、
杉田議員の元にはすでにゲイを名乗る男から「お前を殺す」という脅迫状が舞い込んでいるそうです。
日頃、人権、人権とうるさいサヨクたちがこの脅迫主を非難するどころか、自分たちの運動を批判する人間は攻撃されて当然、という態度でいるのが彼らの正体をよく現しているような気がします。